173区 ゲストランナー水上舞衣子

その後、会場内にある芝生の広場に、部室から持って来たブルーシートを広げ荷物を置く。


ユニホームにゼッケンを付け、少しだけゆっくりした後、各自でアップへと出かける。

スタート時間はあっと言う間にやって来た。着替えを済ませ、スタートラインにみんなで向かい、あまりの凄さに唖然としてしまう。約400人が一斉にスタートすると頭では分かっていても、実際に見るとここまで人が多いのかと思ってしまう。


「これは、一番先頭からスタートした方がよさそうね。いいですよねえ? 綾子先生」

葵先輩の提案に永野先生は頷く。


ただ、晴美と由香里さん、永野先生自身は少し後ろからスタートすると言う。


「私達はゆっくり走るから、先頭にいると周りの人に迷惑だしな」

先頭でスタートすると葵先輩が言った時、晴美は「え?」と言う顔をしていたが、永野先生の言葉を聞いて笑顔を取り戻していた。


「てか、永野先生。妹さんは1人で3キロに出るみたいですけど、大丈夫なんですか?」


「いや、湯川。恵那は年に何度も市民レースに出場しているし、これくらいお手の物だぞ。私は恵那よりも本気でお前の方が心配なんだがな。スタートでこけないように気を付けてくれよ。湯川は前例があるし。駅伝前にケガをされても困るからな」

恵那ちゃんを心配して質問したはずの麻子が、逆に心配されてしまう。


麻子も気まずそうに「はい。気を付けます」と大人しく返事をする。


スタートで最前列に並んだ私達は、周りの注目の的だった。最前列には、引き締まった脚をした、いかにも速そうな男性が大多数を占めていたのも理由の一つだろう。

女性が……、それも高校生が最前列に来るのは市民レースではかなり珍しいことなのだと、隣の男性が教えてくれた。


なかには陸マガを読んでおり、私が3000m障害で高校新記録を出したことを知っている人までいた。まったく知らない人に「おめでとう」とか「すごいね」と言われるのは、嬉しくもあり少し恥ずかしくて痒い気持ちにもなってしまう。


でも、おかげでスタート前の緊張はほとんどなくなった。こう言うところは、市民レースの良いことろだなと素直に思う。高体連のレースだと、スターラインに並んだ状態でおしゃべりというのはなかなかない。そもそも、トラックレースなどは、スタートラインに早くから並んで待つこと自体がないのだ。


「5キロの部へ参加のみなさま。スタート5分前です」

係員の放送が聞こえて来る。と、私達の前に大会運営者らしき人とハーフパンツにTシャツ姿の女性ランナーが現れる。


ゲストランナーの水上舞衣子さんだ。


私達だけでなく、周りの男性ランナー達も騒めきだす。


「みなさま、お待たせいたしました。本日5キロの部を一緒に走ってくださる、昨年度世界選手権マラソン日本代表の水上舞衣子さんです」

アナウンスで紹介されると、水上さんは私達に一礼する。それに対し私達も拍手で返す。


「ちなみに水上さん、今日は女性ランナーのトップと一緒に走られるそうです。ちょうど最前列に、元気のよさそうな女子高校生達がいますね。水上さん。せっかくですので、彼女達とスタートされてはいかかでしょうか?」


大会運営者の人に言われて、水上さんは笑顔で賛成し、私達の所へやって来る。周りの市民ランナーの方々も拍手で迎える。


水上さんは駅伝部の中心にやって来られた。幸運にも私のすぐ隣。水上さんの左手側に私が、右手側に紘子が、後ろには葵先輩がいる格好となる。


「今日はよろしくね。あ、桂水高校ってもしかして顧問は永野綾子?」

「はい。さっき綾子先生が電話されていた時、うちらすぐ側にいました。お恥ずかしながら、サインをお願いしますと言ったメンバーです」

葵先輩にしては珍しく、説明しながら照れていた。


そんな葵先輩を見て、水上さんはニコニコと笑っている。永野先生の教え子と分かって親近感が沸いたのか、水上さんの笑顔が3割増しくらいになる。


 隣で見る水上さんは、なんとも体が細かった。日本でマラソンのトップクラスになろうと思ったら、こんなにも体を絞らないといけないのだろうか。


私も正直に言うと体は細い方ではあるが、水上さんはその私よりさらに一回りくらい体が細い。それでいて、ハーフパンツから覗いて見える太ももなどは、しっかり筋肉が付いており、無駄な脂肪がまったく見当たらない。


私達高校生ランナーと実業団選手の違いをはっきりと感じてしまう。


「こら、聖香。そんなにじろじろ見ない」

私の斜め後ろにいた麻子が、肩に寄りかかるような感じで、そっと耳打ちして来る。


「いや、あまりにも無駄のない体に思わず見とれてしまって……」

私も隣の水上さんに聞こえないよう、そっと麻子に返事をする。


「聖香も水上さん以上に、無駄がない体をしてると思うけど? 一部分だけだけど」

「麻子……。まさか胸がとか言うんじゃないでしょうね!」

私が睨むと、すっと麻子が視線を外す。まったく麻子め。自分で思ってたことを他人に言われると、なんとも腹が立つものだ。


「スタート30秒前です」

係員のアナウンスが流れる。


「ちなみにみなさんは、どれくらいのタイムで走るつもりですか?」

「自分はこの前、5000mで15分36秒だったので今日は15分30秒切りで」

「私は、16分を切れたらいいなと」


紘子と私が答えると、水上さんは「え? 待って。何を言ってるの? 嘘でしょ?」とさっきまでの笑顔が一瞬で消え、真顔で私と紘子を交互に何度も見てくる。


水上さんが何かを言おうとした瞬間にスタートのピストルが鳴り、約400人のランナーが一斉に走り出す。

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