106区 『北原 久美子』

「本当のことを言うとな。私は最初から知っていたんだ。北原のこと。大和と北原が陸上部を復活させようと職員室に何度も来ていた時に、別の先生から北原の事情を聞いてな。正直、あれは衝撃だった。でも、2人の顧問になった時に北原と話しをしたら、大和には言わないで欲しいとお願いされたから、今まで黙っていた」


「自分から話そうと思ってた。出来ればこの春休み中に。それで、部活には残るつもりでいた。転校は本当に予想外。でも……」


そこまで言って久美子先輩は黙り、じっと葵先輩を見る。


「自分は色々と親に迷惑を掛けてる。だから、これ以上我がままを言えない。ごめん葵。それに走ることに対して、燃え尽きているのも事実。もう自分が昔のように3000mを8分台で走れるとは思えない。ここ一年間のタイムは手を抜いたわけでもない。佐中久美子と北原久美子は別人と言うのはそういう理由」


「久美子に3000mを8分台で走って欲しいなんて思ってないわよ。でも、一緒には走りたい。試合に出なくてもいい。お願いだから残ってよ。練習だけでも一緒に走ってよ」


そう訴える葵先輩の眼からは涙が流れていた。


「ごめん……。でも葵のおかげで、また走ることが好きになった。それはすごく感謝してる。まさか、自分がもう一度高体連の試合に出る日が来るとは、思ってもいなかった」


「久美子さん。何まとめに入ってるんですか?」

厳しい口調で会話に割って入ったのは麻子だった。


「そもそもこの部を作ったのは、葵さんと久美子さんなんですよ。最後まで責任とってくださいよ! 具体的に言うと、来年あたし達が都大路を走る時、京都まで駆けつけて、桂水高校の名前が入ったのぼりを一生懸命振って応援してもらいます。転校くらいで、うちの部を辞められるなんて思わないでくださいよ」


喋りながら麻子は目に涙を溜めていた。

駅伝の時もそうだったが、麻子は意外に涙もろいのかもしれない。


「そうね。麻子の言うとおりだわ。久美子、うちと久美子で作った駅伝部よ。久美子が部活を辞めれるわけないでしょ? 後さ、私が久美子の分まで頑張るから……。だから都大路、応援に来てよね。それに、たまには遊びに来てよね。これが一生の別れとかは嫌よ」


「わかった。行けたら他の大会も応援する。あと、夏合宿の時は木陰でアイスを食べながら、みんなが走るのを見とく」


「それをやったら、うち本気で殴ると思う」

まだ眼には涙を溜めていたが、葵先輩が、くすっと笑った。


「そうだ。忘れるところだった」

久美子先輩が、笑う葵先輩に何かを手渡す。


「え? 久美子。これって……」

渡された物と久美子先輩を交互に見ながら戸惑う葵先輩。


葵先輩の手には、久美子先輩が肌身離さずいつも使っていた手のひらサイズのパソコンがあった。


「その中に、この部活の歴史が全部入ってる。葵にあげる」

「いいの? こんな大事なもの……」

「大事なものだからこそ」


そう言って笑う久美子先輩の笑顔は、私が部活に入ってから見た笑顔の中で一番輝いていた。


引っ越しや転入の手続きがあるため、久美子先輩が学校に来るのはこの日が最後となった。送別会をやろうという話になったのだが、「まだ部員だって言ったのはそっち。同じ部員で送別会はいらない」と久美子先輩は笑いながら断ってしまった。


まさかの久美子先輩との別れ。そんな大事件から十日後、私は2年生になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る