60区 800mタイム決勝5組目

「それでは最終組入って」

係員の指示でトラックへと入り、私は2レーンへと向かう。


800mタイム決勝5組目。

その2レーンが私のスタート位置だ。


永野先生が申告タイムを速くしていたのか、それとも昨年の実績が認められてなのか。初出場にもかかわらず、私は一番速いメンバーが揃う最終組となっていた。


ちなみに駅伝前だからだろう。

城華大附属からは、誰も800mにエントリーしていなかった。


スタートラインに着き、軽く流しを入れる。

大丈夫、問題なく脚は動いてくれている。


それと、全天候型トラックを蹴った時の独特の感触がすごく懐かしく思えた。土のトラックとは違い、下にゴムを引いているタータンのトラックは、ほんの僅かだが弾むような感じがする。


そういえば、高校から陸上を始めた麻子は、最初の頃タータンも土で出来てると勘違いしていたようだ。


「いや、だって茶色だし、知識がなけりゃ分からないわよ」

事実を知った時、麻子は不機嫌そうにつぶやいて、ふて腐れていた。


スタートラインに戻り、両腕を思いきり上にあげて背中を伸ばす。


足元のタータンから香る微かなゴムの匂いと、選手達が醸し出す緊張感。

そのどちらも私にとっては懐かしく、心が弾む。


「これからトラックで行われます競技は、本日最初の決勝種目であります、女子800mその最終組、5組目であります。スクリーン掲載どおり8名全員の出場であります」


お決まりのアナウンスが流れたあと、「オン・ユア・マーク」と係員の声が聞こえる。「お願いします」と一礼してスタート位置に着く。


ここからピストルが鳴るまでの一瞬の間が、中学生の時は好きではなかった。自分の緊張の糸だけでなく、空気すら張りつめている気がしていたからだ。


でも、今は違う。またこの緊張感を味わえるのが素直に嬉しい。

なにより、この先にあるレースが楽しみでしかたない。


ピストルが鳴ると同時に、私は勢いよく走り出す。

もちろん、永野先生の指示と言うこともあるが、それとは別に理由があった。


高校総体の予選は違ったが、基本800mは最初の約100mは自分のレーンを走り、それを過ぎてからインコースへ入るようになっている。 

 

その時に少しでも前にいないと、一斉にみんながインに入って来るので走りにくいのだ。特に今回のようにインコース側からスタートしていると余計に。


なにより、久々のレース。正直誰にも邪魔されたくなかった。


約100m程走り終わると、私より外側を走っている選手が内側へと入って来る。それでも私のペースが彼女達より速いため、合流する時には私がトップに立っていた。


前に誰もいない光景はかなり気分が良かった。現在駅伝部で一番速い私は、練習でも同じ景色を見ることは度々ある。でもそれはあくまで練習。やはり試合だと同じ景色も違って見える。


正直に言うと、スタート前は中学1年生以来の800mに多少不安があった。


しかし、いざ走り出すと、それは一瞬でどこかへと消えていた。

むしろ、今は前へ前へと走りたい気持ちでいっぱいだ。


永野先生に「勝ちに徹することは禁止」と言われて戸惑ったが、今はそれで良かったと思う。こうして思いっきりペースを上げても、なにも言われないからだ。


気持ちの高ぶりに身を任せるかのように、私はどんどんとペースを上げる。


腕振りもいつもの練習以上に軽快に振れる。

いや、物理的に軽いのも事実なのだが……。


後ろに思いっきり振り、反動で戻って来た自分の右手を、チラッと見る。


手首には細い白い線が入っている。腕時計の跡だ。毎日日焼け止めを塗っていても、夏休みに部活で相当走り込んだせいで、多少日焼けをしてしまった。


普段の練習では右手に時計を付けているが、このレースでは外していた。


いわゆる中距離に分類される800mと1500mは、別名トラックの格闘技とも言われ、選手同士の接触も多いため、私は時計を外すようにしているのだ。


時計がなくてもゴール横のフィールド内にある電動計時でタイムを確認出来るので特に問題はない。


そんなことを考えているうちに、スタート直後はすぐ後で聞こえていた後続選手の呼吸音や足音が、200mほど走ると全く聞こえなくなっていた。


その代りに、今度は自分の足音と呼吸音がはっきりとと聞こえてくるようになる。その2つの音は、まるでオーケストラでも演奏しているかのように、リズムよく心地の良い音を奏でていた。


もうすぐラスト1周。私は電動計時を見て苦笑いをしてしまう。

計時はようやく1分を回ったところだった。


あまりの気持ち良さと楽しさでペースを上げ過ぎてしまったようだ。

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