30区 事件の幕開け

その事件が起きたのは、高校総体が終わってから一週間後のことだった。

部室の前まで行くと、中から必死に大声で喋っている晴美の声が聞こえてくる。


「なんていうか、記憶喪失になってるみたいな感じかな。私が名前を呼んでも、一瞬自分が呼ばれてるのが分かってないみたいだったし。いつもなら、私のことをはるちゃんって呼ぶけど、今日はなぜか晴美だし。まるで私と初めて会ったみたいな感じかな」


ドアを開けると、他の部員に力説している晴美がいた。


「晴美、いったいどうしたの?」


私はため息交じりに晴美に言葉をかけ、床に敷いてあるブルーシートの左端へ荷物を置き、改めて晴美を見る。特に指定されているわけではないのだが、そこが自然と私の定位置になっていた。


「聖香。今日さやっちに会ったかな? なんだか今日のさやっち変なの。記憶喪失になったみたいで。昨日までは全然普通だったのに」


「いや、今日は会ってないけど。てか、考え過ぎじゃないの?」

珍しく早口で喋る晴美を落ち着かせようと、私はのんびりとした口調で返す。


噂をすれば何とやらで、ドアが開き紗耶が入って来た。


麻子も葵先輩も久美子先輩も一斉にそっちを見る。ただ、パッと見はどうみてもいつもの紗耶だった。違う所といえば、いつもは髪を左側だけお団子にしているのだが、今日は右側にしていることだろうか。お団子に使っているシュシュも見たことがない物だったが、そもそも紗耶の持ち物をすべて知っているわけではないので、そこはあまり意味がない。


「あの……今日の部活なんですけど。体調悪いからお休みしますね。また体調が良くなったら参加します」


それだけ行って紗耶は急ぐように部室から出て行ってしまった。部室全体から物音すら消え、まるで誰もお客のいない水族館の中にいるような不思議な雰囲気に包まれる。


「晴美ごめん。疑って悪かった。あれはあきらかにおかしい」

麻子の一言が静まり返った部室に響き渡る。


みんな次の一言が出せずにまた静けさが戻ってくる。


だから、部室のドアが勢いよく開き、永野先生が大声で叫びながら入って来た時には、すぐそばに落雷があったと思えるくらいうるさく感じた。


「おい、藤木はどうしたんだ! 頭でも打ったのか? それともなんか変な薬でもやったのか? あれ、藤木の姿をした別人だろ」


わりと酷いことを言っている気がするが、最後の一言はあながち間違いではない気がする。本当にあれは別人だ。


「それが……。うちらも何がなんだか。綾子先生は何かあったんですか?」


「いや、今部室の方から走って行く藤木を見たから、『どうかしたのか?』って声をかけたんだ。そしたら、『いえ、なんでもないです。今から帰宅するところです。親切にありがとうございます』って、校門に走って行って……。私のことまるで分かってなかったぞ。あれは記憶喪失か何かを疑うレベルだ。そもそも、藤木って駅から学校までは自転車じゃなかったか?」


私達は顔を見合わせる。紗耶に何かあったのは、疑いようがないようだ。もしかして本当に頭でも打って記憶喪失になったのかもしれない。


「どのみち今日は疲労抜きジョグだったしな。お前ら、藤木を追跡して話を聞いてこい。私は藤木の担任とか、今日藤木のクラスであった科目の先生とかにも話を聞いてみるから。さすがに今のままだと気味が悪いだろう」


永野先生のツルの一声で私達は紗耶を追いかけることになった。部活もそのまま今日は終了ということで、全員荷物をまとめて部室を出る。


紗耶は桂水市の東隣にある笠戸市というところから毎日電車で通っていた。笠戸駅と桂水駅は2駅分離れており、桂水高校から桂水駅まで徒歩だと20分近くかかるため、電車を利用して通学するほとんどの生徒が、駅から高校まで自転車を利用している。


「そういえば、同じ桂水市に住んでても、駅の方は久々だわ」

先輩達を校門前で待っている時に、麻子がつぶやいた。


言われて麻子だけが家の方向が別だということに気付く。


麻子は高校の正門を出て西側に家がある。自転車で大体20分程らしい。葵先輩は高校から南側、駅のすぐ近く。久美子先輩も駅側に行くものの、途中で大きな道路を東に曲がって行く。私と晴美は久美子先輩と同じコースを辿りながら、久美子先輩の住むアパートを通り過ぎ、また南へと進路を変え、線路をまたぎ、駅より南側まで行かなければならない。


ちなみに、私の家から晴美の家までが1・5キロ近く離れている。紗耶以外の自転車通学メンバーの中では晴美が一番遠い所に住んでいた。


3分も待たないうちに先輩方がやって来る。


「葵さんどうします? とりあえず駅に向かってみますか?」

麻子の一言に葵先輩が思案し始める。


「葵。早くしないと見失う」

思案する葵先輩に久美子先輩が声をかけ、それが合図となり、全員が自転車を漕ぎ始める。

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