ホット・スプリング・ヒーロー

北口踏切

第1話



「気持ちいいなぁ」

「気持ちいいですねぇ」

「最高の気分だなぁ」

「最高の気分ですねぇ」

「雄大な景色だなぁ」

「雄大な景色ですねぇ」

「本当にいいお湯だなぁ」

「いいお湯ですねぇ」

「生きかえるなぁ」

「それじゃ私たち死んでるみたいじゃないですか」


 ハッハッハッハッハッハッ。


「ちょっとあんたたち、何行楽気分を満喫してるの」

 うしろで女の声がする。

 会話していたふたりの男が振り返って見上げると、お湯の縁で腕組みをした百歳千歳(ももとせちとせ)が怒った顔で立っている。若く美しい顔だちだが目つきが悪い。全身サファリルックのいでたちだ。サファリハットに短パンで、あまりこの場には似つかわしくない。白いデイパックが足もとに置かれてある。

 百歳千歳が怒りを向けているそのふたりの若い男、御影山効太郎(みかげやまこうたろう)と朔望月鐘馬(さくぼうづきしょうま)は、さっきまで千歳に後頭部を向け、揃って全裸で温泉につかっているところだった。彼らの脱いだ衣服は縁に固めて置かれてある。

 天然の露天風呂だった。

 秘湯だった。

 景色がとてもよかった。

 ちょうど高い山の斜面の途中が出っ張る感じになっていて、そこに湯だまりがあるものだから、眼前に広がるのは雄大な山脈のなだらかな起伏と、萌える緑と空の青だけだった。大自然の風景を独占しながらお湯に体を浸しているのはさぞかし浮世を離れた天上的な心持ちになるのに違いないだろうと思われた。

 千歳があきれた顔でそれっきり黙ってしまったのでふたりはふたたび前を向き、やがて朔望月鐘馬がはるかかなたの森の斜面を指さした。

「あっ、あそこに鹿がいますよ」

「え、どこ」効太郎が目で追おうとする。

「ほら、あそこですよ」

「どこ」

 風景が雄大すぎるからか、動物の姿がなかなか見極められない。

「いま、動きましたよ」

「あ、いた。あれのこと?」

「はい、あれです」

「あれはイノシシじゃないの?」

「えっ、イノシシですか」

「あっ、いなくなった」

「鹿ですよ」

「鹿かな」

「鹿だったと思いますよ」

「じゃ、鹿でもいいか」

「イノシシじゃありませんよ」

「鹿かな」

「鹿ですよ」

「別にどっちでもいいか」

「そうですね」


 ハッハッハッハッハッハッ。


「……」 

 ふたりのうしろで相変わらず仁王立ちになっている千歳は、やれやれという表情だ。

「で、傷は癒えた? その様子じゃ元気も戻ったみたいだけど。ついでに記憶も戻ったんじゃない? そろそろ何か思い出さない?」

「そんなことより」うしろを振り向いた鐘馬が、「あなたも入ればいいのに。気持ちいいですよ」

 続いて効太郎も同じくうしろの千歳を見上げて、「気持ちいいよ、このお湯。絶景だし」

「冗談」千歳はプイと横を向いた。「何が悲しゅうて狼どもの前でモロ肌さらす」

「私たちは狼ですか」鐘馬が苦笑する。

「えらいもんで全身の打撲が体からすっかり脱け出して湯の中に溶けていく感じだよ」効太郎がお湯の中で両手を組んで前に伸ばしてみせた。ふたりともなかなかの筋肉質なガタイをしている。年齢は千歳と同じ十代後半から二十代はじめといったところだろうか。鐘馬は絵に描いたような美形、効太郎のほうはやや童顔、育ちのよさを感じさせる上品な面立ちをしていたが、悪くいえばどこかポーッとしたようなお坊ちゃんのごとき印象だった



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