ロスト・フェアリー
とらつぐみ
第1章 最果ての国
第1章 最果ての国1
ゆるく雨が降っていた。
空は厚い雲が覆い、いまだ夜明けの光を明かさず、夜の闇をそこかしこにとどめていた。風が強く、獣が低く唸るときのような音を立てている。暗い灰色に浮かぶ森の向こうで、魔性の獣たちがいよいよ迫ろうという気配を感じた。
村人たちは緊張していた。麦畑の向こうに、即席で作り上げた高い柵が立ち塞がっている。柵の向こうは深い森になっていて、影にじわりと不穏な気配を混じらせている。
いよいよ来るぞ……。
村の男たちは、手に刃物を持ち、弓矢を持ち、ただならぬ緊張を漲らせていた。しかし誰もが闘気を充実させていたわけではなく、邪悪な気配を前に、不安や怯えを浮かべる者も多くいた。
村人
「もう来ないんじゃないか」
村人
「莫迦云え」
村はゆるい円錐状になっていて、中央に村人らが住居にしている家が置かれている。階段状に作られた村を降りていくと、麦畑が周囲に広がり、それが途切れようとする場所に石垣が作られ、さらに高い柵が作られていた。柵が内なる世界と外の世界を分断している。村の南北の外縁には、櫓塔が建てられていて、村というより要塞といういかめしさを持っていた。
村人たちが集まっているのは、その柵をあえて低く作った部分。侵略者が踏み込みやすい場所に、武器を持って集合していた。
しかしついに夜が明ける時間が来てしまった。村人たちは夜通し待ち続けて、かすかに疲労を浮かべ始めている。
風景はじわりと明るくなっているが、太陽はちらりとも姿を見せない。村を囲む邪悪な気配は、むしろ色を濃くして、村人らを圧倒していた。
ゆるい雨は、強い風に渦を巻きながら、横殴りに村の男たちに降り注ぐ。体に熱を持って、汗を蒸気に変えて吹き上げさせていた。村人たちは無言で、手に武器を持った格好で、柵の外の世界を睨み付けていた。
そんな緊張漲らせる厳戒体制下にも関わらず、むしろ泰然とした様子で村を見守っている男がいた。その姿は一見優男のようでありながら、生まれながらの闘将であるかのように厳かな闘気を身にまとい、その所作や気配に一部の隙のない威厳を溢れさせていた。
この男こそ、族長のミルディである。
見張り
「戻ってきたぞ!」
櫓塔の見張りが声を上げた。門の向こう側を指さす。
ミルディ
「門を開けろ!」
村人らが門を開ける。門の向こうに、細い小道が現れた。小道は森を寸断して、ゆるやかに続いている。
その小道に、少年が2人走っていた。少年は足を泥だらけにしながら、門の中に飛び込んでくる。
門が閉じられる。少年たちは疲れた様子など少しも見せずに、すぐに族長の許へと走り進んだ。
少年
「来た! 一杯いる。でかいのも!」
ミルディ
「数は?」
少年
「北から40。西から15」
ミルディ
「よし、よくやった。奥に行って女たちを守れ!」
少年
「うん!」
少年たちは頷いて返すと、村の奥へと駆けていった。
入れ違うように、風が不穏な気配を混じらせるようになった。森が禍々しい気配をよりくっきりさせる。真っ黒に焦がしたような雲が、落雷の音を響かせた。
カラカラカラ……。
警報器が鳴った。森の入口に仕掛けておいたものだ。侵入者がロープを引っ掛けると、木を打ち鳴らす仕掛けになっている。
その音に、村人らがはっとした。
カラカラカラカラカラ……。
カラカラカラカラカラ……。
警報器の音がいくつも重なり、村全体を取り囲んだ。風の音も落雷の音も背後に消えて、警報器のあまりにもけたたましい音が村を包み込んだ。
取り囲まれているのだ。
村に警戒を呼びかけるその音は、魔の手の存在を明確に物語り、さらにより大きな物にして村人らを圧倒した。闘気に漲らせていた村人らの顔から、急速に士気が失われ、困惑が代わりに浮かび始めた。
ミルディ
「男たちよ奮い立て! 戦いの時が来たぞ! 恐れなどは奴らに食わせてやれ! 今こそ我らの誇りが試されるときが来た! 我らこそ戦うために生まれてきた一族だ。ハンニバルにもエサルにも打ち破られなかった、我らの鋼の勇気を示せ! その鋼の腕でやつらを打ち砕け! 鋼の鎧でやつらの刃を打ち砕け! 邪悪な者どもに永久に忘れることのできない恐怖を刻みつけてやるのだ! 男たちよ声を上げよ! 武器を掲げよ! 戦いの時だ!」
風を打ち破るような族長の叱咤が村に轟く。村人らが「おおお!」と声を合わせた。その声は瞬く間に村人らに勇気を取り戻させた。
森の木々がざわざわと揺れ始めた。闇がより強く気配を浮き上がる。群衆が迫ったように、柵がぐいぐいと軋みを上げて揺れ始めた。
しかし村人らにもはや怯えなどなかった。迫ろうとする脅威に、むしろ殺気を漲らせて武器を身構えていた。
その時――。
柵の上に黒い影が立っていた。人のような姿をしているが、全体が黒く、毛むくじゃら。口には鋭い牙、手には尖った爪を持ち、略奪品であるボロボロになった古い鎧や刀で武装していた。全体が黒い姿なのに、その兜の庇の下で、目だけが禍々しい赤い輝きを放っていた。
ネフィリムだ。
ネフィリムは柵の上に立ち、唸り声を上げた。獣というより悪魔の声だ。地獄の使者のような不快な声は、風の音を打ち破り、勇気で満たされる村人らの心を再び暗転させるようだった。
ネフィリムが村の中に飛び降りた。
それが合図だったみたいに、ネフィリムたちが次々と柵を跳び越えてきた。
戦いが始まった。ネフィリムと村人らが激突した。暗闇の中に、刃物が煌めき、赤い血が生々しく映えた。村は戦の混沌に支配され、殺戮と狂気が覆った。麦畑は人間の血で赤く染まり、ネフィリムの不浄の血で黒く染まる。そこでは誰もが傷つき、誰もが命を落とした。
雨はとめどなく降り続いた。まるで永久に夜明けなど来ないというように、暗雲が空を覆っている。ネフィリムの軍団は、森の闇から澎湃と押し寄せてきた。
村人らの戦いは順当に展開された。森を目前とした麦畑に第1陣を置き、階段畑を一段上るごとに第2陣、第3陣が配置された。
柵を登ろうとするネフィリムたちを、第1陣が弓矢と石つぶてで応戦する。仕損じたら追わず、第2陣に委ねる。同じように仕損じたら第3陣が応じる。
しかしどれだけ計画的に作戦を展開していても、形成は徐々に変化していく。村人らは消耗していくし、ネフィリムはますます活気づいてくる。ついに村の後方からもネフィリムが侵略し始め、戦は本格的な混沌の体をなしていく。戦の渦に誰も逃れられず、村の中央の家を守っていた女や子供たちにも魔の手は迫ってきた。
ただ、彼らは女や子供であれ勇敢であった。生来的な嫌悪と不快をもたらす地獄の使者を前にしても、怯えなど見せず、勇気を奮い立たせて、女たちは槍で突き、子供たちは石つぶてを投げつけた。
そんな混沌の最中でありながら、族長のミルディの闘気はますます盛んになり、頭脳はより明晰になって、腕力は一刀のもとにネフィリムを両断にし、指示は一度として誤ることはなかった。その強さ、威風堂々とした佇まい。彼こそが紛れもない闘将の生まれ変わりであった。
いくらか危機を迎え、村人らも消耗したが、やがてネフィリムの勢いも先細りになっていった。そんな頃、不意に雨が止んだ。雨が途切れるとともに雲が散り始め、光が村に落ちる。戦いが終わる時だ。
夜の使者たちが悲鳴を漏らした。ネフィリムたちは村人の殺気よりも太陽の光に恐れ、一目散に森の闇へと退散していった。
見上げると、雲の隙間から黄金の輝きが降り注いでくる。村人らは長い緊張から解放されて、茫然と膝を着いたり、空から降り注ぐ光に祈りを捧げたりする。
戦いは終わったのだ。ミルディは、最後まで闘士を失わなかったネフィリムが、村人の矢に討たれて倒れるのを見届けた。あのネフィリムが最後の1匹だった。村から間違いなくネフィリムの影が消えたのを確かめて、それからようやく緊張を解いた。
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