第8話
三月十一日。運命の日がやってきた。
C級二組最終日。僕の成績は五勝四敗。今日勝てば初めての順位戦勝ち越しで、しかも規定により降級点が一つ消える。そして、ここまでの年間成績が十四勝十五敗。今日を含め、残りの対局は二局。二つとも勝てば、勝率五割以上の目標が達成できる。
対戦相手は、ルーキーの品川四段。現在三勝六敗で、わずかながら降級の可能性を残している。対戦はもちろん初めてだが、会うことすら五年ぶりぐらいだった。中学生で三段リーグ入りし、将来を期待された若者だった。しかしリーグでは苦戦し、ずっと指しわけぐらいの成績だった。一年前ようやく四段に上がったが、そこからも目立った成績は残せていない。
まるで、僕だ。品川君は、僕と同じ道を歩み始めてしまった。
上座の僕。そして、下座にちょこんと座る品川四段。久々なのだろう、スーツは異様に角ばって見えるし、ネクタイは傾いている。就活を始めたばかりの学生のようだ。
勝ち越し・降級点消去と、降級点回避のための戦い。見所がないわけではないが、やはり周囲の目は僕らの方には向いていなかった。もし僕が例年通りの成績だったら、順位戦から姿を消しそうな若手として注目されたかもしれない。しかし今年は、ある意味例年以上に影の薄い存在なのである。
ゆっくりと、駒組みの時間が流れていく。まるで、一切の異物を拒むかのような、品川四段の穏やかな指し手。何千局と指されてきた、ありきたりな形の中に溶け込もうとするかのようだった。僕も、それに追随するしかない。品川君が目指す、古典の中の希望を、共に見てみようと思った。五年前の僕がそうであったように、ただ仕事として将棋を指しているのか。それとも、もがきながら、現状を打破しようとしているのか。それを知りたくなった。
夕食休憩後も、前例の多い形のままだった。そして、品川四段は仕掛ける気配がなかった。こちらから突っかけるのは無理な形で、僕は隙を見せないように手待ちをするしかない。相手も、飛車を引いてこちらの動きを待つ。お互いに飛車だけが細かく動く。記録係が「三回目……」とつぶやいたのが聞こえた。僕が飛車をさらに動かし、四回目の同じ局面が現れた。
「千日手ですね」
「はい」
品川四段は顔色一つ変えず、駒を直し始めた。まるで、最初からその予定だったかのような落ち着きぶりだった。
指し直しまでには少しの休憩をとれることになっている。記録係の子も、トイレに駆け込んでいた。僕は控室で、コーヒーを飲んだ。最悪、もう一度千日手になることだってあり得そうな空気だ。
品川四段は、ただ古典をなぞっただけだった。時間が有利になるでもなく、ただ単に僕に先手を渡した。彼はひたすらに転げ落ちようとしていると、僕は確信した。
他の対局が勝負どころを迎える中、僕らの対局は再び初手から始まった。いつもと違い、飛車先の歩を伸ばした。なんとなく、そういう気分だったのだ。そして品川君も、飛車先の歩を突いた。相掛り。普段ほとんど指さない戦型だ。しかし、不思議な懐かしさを感じる。それが何なのか分からないまま、対局は続いていった。
そして、作戦の岐路となるところで、僕の思考は特定の過去へと追いついた。そう、あの時。初めて彼女と対局したあの時、僕は後手の側を持っていた。あの時僕は彼女を試す意味で、あえて相掛りを選んだ。多分今回も無意識のうちに、品川四段を試す意味で相掛りに誘導したのだ。
ならば。僕は角を上がり、ひねり飛車の意志表示をした。最近、こんなオーソドックスなひねり飛車など公式戦ではほとんどお目にかかっていない。隣で対局しているベテランの先生が、こちらを覗き込んでにやっとした。「懐かしい」と感じたのだろう。
将棋を覚え始めたころ、今のようにネットで情報を得ることはできないし、教材は古いものしか手に入れられなかった。みんながゴキゲン中飛車や四間飛車を指していることすら知らず、僕は角換わり腰掛け銀や、相矢倉、そして相掛りの棋譜で将棋の勉強をした。
ヒネリ飛車の棋譜は、その中でも印象に残るものが多かった。大きく飛車角が動き、歩の手筋でどんどん攻め込んでいく。さらに自陣は美しい美濃囲い。子供心に、将棋の完成形を見た気がした。
実際には後手の対策が進み、今では勝ちにくい戦法の一つになっている。若手はシビアなので、そんなものにはあえては手を出さない。僕だって今日まで、公式戦では指したことがなかったのだ。
細かい違いがすぐに形勢の差へと結びついてしまう戦型だ。本当ならばもっと時間をかけて読みたいが、すでに持ち時間は一時間を切っている。時計を見ると、十時五分。終局するところも出始めており、周りの様子から昇級者が決まったらしい雰囲気だ。
細かい成績までは見ていないが、品川四段の結果次第で降級点が付くかどうか決まる人は、僕らの将棋をやきもきしながら見ていることだろう。記録係の青年が、目をこすっている。おそらくこの対局は日をまたいで、一番最後まで残る。この対局は、多くの人を巻き込んで長引いていくのだ。
「いっちゃうか」
日付をまたいだころだろうか。ここまでまったく声を出さず、物音さえほとんど立てなかった品川四段が、呟いた。盤面に集中していてわからなかったが、いつの間にか鋭く、危険と言えるほど尖った目つきをしていた。
そして、5三にいた角が、9七にいた桂馬を食いちぎった。当然同香と応じる。そして8五飛車。駒損をして飛車をさばく非常手段だ。とても千日手に甘んじていた人間とは思えない、激しい打開の仕方だった。
気が付くと、他の対局は全て終わっていた。広い部屋の中で、ちょっとだけだが、タイトル戦であるかのような優越感を覚える。
両者60秒の秒読みに入った。激しく攻めたてる品川四段と、きわどく受けながら反撃する僕。この時間、この空気の中で最善手など指せるわけがない。しかし、頭の中は高揚して、快楽さえ感じるようになっていた。これがランナーズハイというものだろうか。
時間は二時を過ぎていた。自玉はいかにも危ない形だが、多分、詰まない。これが詰まされるなら、もうそれはしょうがない。僕は、じっとと金を寄った。この手自体は詰めろだが、まだまだ受けの手段はある。こちらに詰みなしと分かっていれば、受けないだろう。しかし直観は、品川四段が攻めてくることを告げていた。一年目の僕ならそうしている、という記憶も影響しているのかもしれない。
そして品川四段は、僕の玉を詰ましにきた。これは、明確に詰まない。かといって形作りというわけでもない。まだ、慣れていないのだ。詰みがありそうなところで、踏み込まずに受けて焦らす。そのような勝ち方を、品川君は知らない。僕も昔は知らなかった。そして、知っていてもできなかった。
そこから手数は長引いたが、間違いは起こらなかった。
「負けました」
力ない声だったが、それだけ全力を出し切ったということだろう。時間は三時。まだ残っている人はいるようだが、なかなかこちらの部屋に入ってこない。
「そうか……」
品川君は、呟いた後唇をかんだ。
僕の降級点が一つ消え、そして、品川君に降級点が付いたのだ。
短い感想戦を終えた。
「いやあ、そもそも千日手がいけなかったですかね」
「そうだね」
僕の言葉に、品川君の視線が固まった。普通は、感想戦は穏やかに終わる。だから、はっきりと同意されることなどないと思っていたのだろう。
「僕も一年目から降級点を取って、五年間沈んだままだった。今日の一敗が、尾を引かないように頑張ってよ」
「…………はい」
それは、過去の自分に言ってやりたい言葉だった。品川君は僕の目を見たまま、小さく頷きを繰り返していた。
家に着いたのは四時過ぎ。それでも、電気が点いていた。早起き、というわけではないだろう。
「ただいま」
「おかえりなさい。……あの、おめでとうって言っていいですか」
「……え」
今まで月子さんとは、自分の成績について話したことはなかった。調べることは簡単だが、あまり興味がないものと思っていた。
用意してあったのだろう、月子さんはカップにお湯を注いでいる。インスタントコーヒーを作ってくれているのだ。
「やだなあ。昇級したわけでもないし」
「……先生、私知ってるんですよ。順位戦、初めての勝ち越しですよね」
「……うん」
「最初から……全部知ってました。いつも連盟のページ見てたから……だから先生が今年すごく頑張ってるんだなって。私も頑張らなきゃ、って思ってました」
「……ぜん……ぶ?」
働きの鈍った頭で、過去のことを思い出してみた。対局があると嘘をついて、あてもなくぶらぶらしていた。
月子さんは、知っていたのだ……
「……先生。先生は私の自慢の師匠なんです。タイトルホルダーにも負けない、立派な師匠なんです。だから……その……」
「弱くてもいいじゃないか、ってこと?」
「そうは言わないですけど」
「いや、そうなんだ。僕は弱いプロだ。でも、弱いなりに頑張らなきゃって、最近は思うようになった」
「そんなわけで、お祝いってことでいいですか? いいですよね」
「そうだね。うん。ありがとう」
目の前に出された、湯気の立つコーヒーに口を付けた。温かかった。胸の奥まで、温かくなった。
「あのね、月子さん。去年、目標言っただろ」
「はい」
「昇段って言ったけど、心の中では、年度成績で勝ち越したい、って思ってたんだ」
僕の告白に、月子さんは満面の笑みでこたえた。
「実は私も、初段じゃなくてせいぜい2級かな、って思ってました」
「なんだ。まあ、目標なんて言ったもの勝ちか」
「そうですね」
もうすぐ朝が来る。頭も体も疲れてへとへとだったが、いつになく幸せな気分だった。月子さんは実際、2級に上がった。僕の方は、次こそが大勝負だ。
次の、今年度最後の対戦相手は、辻村五段。
人生で、こんなに気合の入ったことはない。だが、僕は今ものすごくテンションが落ちている。
僕の前にいるのは、金本のおばさん。すでに金本姓ではないのだろうか。僕とおばさんは、二人きりで会うことになった。個室のある居酒屋に呼ばれ、挨拶するなりおばさんは鞄から茶封筒を取り出した。それを、僕の目の前に置く。
「本当に少ないけれど、感謝の気持ちです」
「はあ……」
予想はついていたが、一応中身を確認する。一万円札が十枚入っていた。
「あの……」
「わかってます。これでは全然足りないのは。でも今私が用意できるのはこれだけなんです」
「……これを受け取ると、月子さんはどうなるんですか」
「もちろん、私が引き取ります」
そんな話だろうとは思っていたが、言われてみると虚しくなる。
「月子さんは、この前自分の気持ちをちゃんと言いましたし、僕が何か決めることはできません」
「……あの人と同じなんですね」
「は?」
「将棋将棋って。将棋が強くて何になるんですか! あなたも月子に色々と吹き込んで洗脳したんでしょ!」
今にもつかみかからんばかりの剣幕だったが、不思議と僕は落ち着いていた。今おばさんが何をしたって、結論は覆らないと分かっていたから。
「それなら、手放すべきではなかったんじゃないですか。月子さんは自転車に乗って、ぼろぼろになりながら僕のところまで来ました。両親のためにお金が必要だからって。どうしてもプロになりたいから、弟子にしてくれって言われました。その時、あなたは何をしていたんですか」
「私には私の事情があったの! 何も知らないくせに!」
店員が入ってきて、おどおどしながら付け出しを置いた。
「あの、ご注文は……」
「あ、僕はこれで帰るんで」
「あの……」
僕は封筒を突き返し、その上に五百円玉を置いた。
「あなたには一円もお世話になりません。月子さんを迎えに行きたいなら、直接向き合ってください。僕は、知らない」
そのまま立ち上がり、僕は店を出た。あの母親と、あの父親。あんな二人と暮らすために、月子さんは頑張ってきた。色々とばからしくなってくる。それでも、それでも月子さんにとってはたった二人の肉親なのだ。
家を出る前に見た長手数の詰め将棋のことを、無理やり考えた。当然だが、解けるわけがなかった。
最近よく、月子さんは天井に頭をぶつける。
もう二年もたつのだから、距離感はつかめているはずだ。それでも、頭をぶつけるのは、成長している証だろう。
そう、彼女はロフトで生活して二年になるのだ。起きている時間は下で過ごしているし、そもそももっとひどい所で暮らしていたということで、不満を言うことなんてなかった。けれども十七歳になろうという女の子が、いつまでもそんな狭い所に押し込められていていいのだろうか。
成績が上がれば、収入も増える。それでもまだ裕福というわけではないが、二人で暮らして行くには十分だろう。
二人とも目標を達成できたら、新しい家に住んでもいいだろう。ちゃんと部屋が二つある家に。
僕にとって今年最後の一局。特に注目などない一次予選。見所と言えば、すでに対局数一位を決めている辻村五段が、勝率でも一位になれるか、というところだろう。しかし僕が勝つなどとはだれも予想していないので、勝率の方も安泰だと思われている。
奨励会でも対局があるが、一度も勝ったことがなかった。率直な感想は、馬力が違う、ということだった。読みのスピード、深さ、そして度胸。生まれ持っている強さが違うのだ。かろうじてプロになるのは僕の方が早かったが、僕のことをあっという間に抜いていった。僕の年齢になっている頃には、タイトル挑戦などのいくつかの勲章を得ていることだろう。
モノが違うのだ。同じプロでも、全く違うのだ。おそらく、百番やったら七十番以上負けるだろう。それぐらいの差はある。ただし、どれだけ大事なところで残りの二十数番の勝ちを呼び寄せるかも、弱いなりにプロの技なのだ。今日は、僕にとってだけ特別な対局だ。僕が勝手に決めた目標が、いつも以上のやる気を引き出している。辻村君にとっては、普通の対局の一つでしかない。
そう思って対局に臨んだのだが、いざ向かい合ってみると様子が違った。
「おはようございます。楽しみにしていました」
「おはよう。なんで楽しみだったの」
「つっこちゃんが、あれだけ褒める人だからです」
「……」
辻村君の瞳は、らんらんと輝いていた。ようやく無二のライバルに巡り合えたとでも言わんばかりだ。月子さんが何を言ったか知らないが、それで僕の将棋が見直されるなんていうことがあるのだろうか。
なんとなく。なんとなくだが、辻村君はふられたんだろうな、と思った。好きとか嫌いとかではなく、月子さんは将棋に夢中で、だから将棋の師匠が大事なのだ。
対局が始まっても、感情が揺れるということはなかった。ないものは出せないから、序盤は本当にいつも通りのことをするだけだ。辻村君は特に凝ったことをするタイプではないから、局面はオーソドックスな相矢倉になっている。先手の僕は、いつも通りの組み上げ方。後手の辻村君も、教科書通りの指し手を続けている。
昼食休憩。もちろん、今日は辻村君と食べに行くなんてことはしない。どうしようかと思っていたが、本当になんとなく、またあそこに行ってみたくなった。会館を出て、僕の足は野球場の方へと向いた。
十数分歩いて着いたのは、ゴルフ練習場のレストラン。一年以上前、僕が逃げ込んだところだ。
そこで、再びサンドウィッチを食べた。ざわめきも何もない心で、料理が来るのを待つことができた。そして、今日のものは、前回の倍ぐらいうまいと感じた。
対局室に戻ると、すでに辻村君は盤の前にいた。扇子で音を鳴らしながら、盤上に意識を集中させている。格好いい、と思った。スーツも似合っているし、ネクタイのセンスもいい。しかしそんなことを除いても、彼には戦う者としての美しさがある。
そのあと、僕はもちろん全力を尽くした。いつになく調子はいいと思った。それでも常に、辻村君の読みの方が上回っている実感があった。うますぎるサンドウィッチが、喉の奥につかえているような気がした。強くなる魔法が掛かっても、まだ相手の方が強いという現実に、少し怯えてしまった。
相矢倉の先手番が定跡通り攻めれば、だいたいはぎりぎりの細い攻めをつなぐことになる。駒の価値が、位置や関係性によってめまぐるしく変化していく。香車を捨て歩を取り、角を切って手に入れた桂馬を打ちすえる。こちらが作った成駒の威力を弱めるため、玉の位置を変える。その玉を引きずり戻すため、駒を捨てる。逃がさないように、逃がさないように、逃がさないように……
気が付くと、僕の攻めは完全に切れていた。相手の玉は隅っこにくぎ付けになっているが、それを攻めきるだけの戦力はない。いつもどおりよりも少し冴えわたった頭で、必死になって考えてきたのだ。それでも、全然届いていなかった。
あやを求めて指し続けたけれど、逆転がないのは分かっていた。辻村君は研究に頼り切っているわけでもなければ、天賦の才の上に胡坐をかいているわけでもない。常に全力で、最も勝てる展開を探るタイプだ。たとえ有利になっても、緩むとか、方針を変えるといったことがない。
悲惨だとは思わない。これもまた、勝負師の宿命だ。敗者という役割があって初めて、勝者は輝く。弱小プロの「勝ち越す」という夢すら、生半可には叶わないのだ。
「……負けました」
夜十時。僕の一年は、ほぼ終わった。
「先に端だと、こちらが駄目でしたね」
「……え?」
最後に、濃密な感想戦が行われた。辻村君は、自分が負ける変化までも深く深く読んでいた。本当に、かなわない。
「……期待に応えられなかった。つまらない将棋だった」
「そんなことないです。先生……失礼かもしれないですけど、三東先生はこの一年ですごく強くなった気がします。調子とかではなく……強くなったと。僕は、先輩が自分より速い速度で強くなるのが怖いんです。だから、絶対に負けられません。貯金で勝ちたくないんです。ずっとずっと、強くなり続けたいんです」
こちらが恥ずかしくなるくらい、まっすぐな言葉だった。高校生の頃の僕は、ただ認められたいという一心で将棋を指していた。どこかを目指していたわけではない。辻村君には、頂へと続く道が見えているようだ。
若者には、教えられることばかりだった。
「将棋、楽しいかい」
「もちろんです」
自分は、そのように断言できた時期がほとんどない。悲しい事実だか、悲観ばかりというわけでもなかった。今からでも、遅くはないと思う。
「じゃあ、また今度」
「楽しみにしています」
結局、内なる目標の方も達成できなかった。悔しいが、清々しくもあった。
家に着くと、十二時を過ぎていた。仕方ないとは言え、少し残念だった。
「ただいま」
「あ、お疲れ様です」
「ごめん、昨日になっちゃったね」
そう言って僕は、テーブルの上にコンビニの袋を置いた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。でも、まだ今日ですよ」
昨日は、月子さんの十七歳の誕生日だった。対局と重なってしまったので、特に何もすることができなかったのだ。せめてもと思って、ショートケーキを買ってきたのだ。
「だって、時間……」
「見てください」
月子さんは左腕を突きだし、右手で腕時計を指し示した。見ると、十一時二十分だった。
「え、でも……」
自分の腕時計は、十二時二十分を示している。掛け時計もそうだった。
「私のが一番新しいから、きっとこれが正しいんですよ。……そういうことで」
「わかった」
十七歳になった月子さんは、初めて会った日とはまるで違い、優しい嘘をつけるまでになった。
「あの……それで……」
「今日は、負けたよ」
「……そうですか……」
「来年度こそ、目標達成かな」
「私も、です」
二人でケーキを食べながら、他愛もないことを話した。将棋以外のことを話せるのが、とても幸せだと思った。
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