第6話

 朝十時。パソコンの前でそわそわする月子さんを見て、僕も緊張してきてしまった。やることは普段と変わらないのだが、多くの人が見ているとなればどうしても固くなってしまう。

 第二回竹籠たけかご商店街杯。インターネット道場で若手女性棋士がトーナメントで戦う棋戦である。女流棋士はもちろん、学生やアマのトップも参加しており、今回月子さんも「奨励会枠」で推薦された。

 月子さんにとって、女性と将棋を指すことも、非公式戦とはいえ連盟主催の大会に出るのも初めてのことだった。日本中の将棋ファンがリアルタイムで将棋を見るわけで、実質的な「お披露目の場」とも言えた。

 公平を維持するため、対局する姿はウェブカメラで撮っていなければならない。そのため、いつもより念入りにおしゃれをしなければならなかった。二人で悪戦苦闘して仕上げ、気合を入れて、今ようやくログインしたところである。

 対局は最初から三十秒の超早指し。一回戦の相手はアマ最強の小柴さん。いきなり実力が試される相手だ。正直なところ、最近はプロ女流棋士より女流トップアマの方が数段強い。小柴さんも招待選手としてプロの棋戦にも参加し、何回も勝利を収めている。

 画面右側に並ぶ、二つの動画。片方は月子さんを映している。落ち着きなく動くため、タイムラグも重なり画像がぶれている。もう一つは小柴さん。普段は公務員らしく、真っ白なスーツが似合っており、至って落ち着いているように見える。

 僕はカメラに映り込まないように、ロフトに上がった。僕が見えてしまうと、月子さんに対していらぬ疑いがかかってしまうかもしれない。棋譜観戦だけならば携帯でもできる。

 観戦者は現在五百人ちょっと。結構な数である。もしこれが会場ならば、その視線は相当なプレッシャーになるだろう。

 月子さんの先手で対局が始まった。相手は流行の中飛車。最近女流アマの間では本当にはやっている。月子さんは右銀をするすると上がっていく。最新形だ。研究していることがうかがえ、僕はうんうんと頷いた。

 秒読みということで、どんどん進んでいく。中盤に入る前に疑問手も飛び出していたが、まあ仕方ないことだろう。観戦チャットの方もそこそこ活発で、皆が月子さんのことを注目しているのが分かった。

 月子さんの攻めが、止まらなかった。途中から、大差になっていた。奨励会でもまれるということは、こういうことなのだと証明する形になったのではないだろうか。83手、月子さんの完勝だった。

 チャット上でどよめきが起こっていた。月子さんの将棋は、今までまったく公になっていなかった。他方小柴さんは、強い棋譜をたくさん残してきたのだ。その印象が、一局にして吹っ飛んでしまったのかもしれない。

 とは言え、月子さんは奨励会員、プロ組織の人間なのだからアマに勝って当たり前、と僕の立場上思わざるを得ない。問題は次だ。準決勝の相手は、皆川女流初段。辻村君の姉弟子であり、若手成長株の筆頭である。

 対局開始は午後一時。それまでに昼食を食べ、紅茶を飲んだ。

「どうだった?」

「大変でした。変な感じでした」

「でも、いい将棋だったよ」

「あまり定跡を知らなかったみたいなので……」

 何とも頼もしい言葉を聞けた。弟子の成長というものは、師匠の頬を緩ませるものだと知った。

 二局目。皆川さんは、紺色のブラウスを着ていた。胸元にはネックレス。髪は茶色に染められていて、眉毛も細くきりっと描かれている。月子さんとそれほど年齢は変わらないはずだが、全く違う人種だと感じた。

 戦型は相掛りになった。皆川さんの引き飛車棒銀に対して、月子さんは丁寧に対応している。定跡を勉強し始めてそんなに経っていないのだが、すでに相手よりも知識があるように思えた。

 定跡を勉強する気にならない、と女流トップの一人が語っていたのを思い出す。どうせ定跡形にならないのだから、対局観や終盤力を磨いた方が役に立つ、と言うのだ。皆川さんの指し方は、そのことを実証しているかのようである。

「わかった」

 不意に、月子さんが声を漏らした。僕には、はっきりとした何かは見えなかった。

 端歩が突き捨てられ、歩が垂らされた。銀の横で、次に成っても取られてしまう歩だ。ただし、飛車で取ると角を打てる。つまり、潜在的な歩成りを残しつつ、飛車の動きを邪魔する歩なのだ。指されてみればなるほど好手だった。

 皆川さんは焦っているに違いない。指し手の方針が立てにくい局面だ。歩得していても、打つところがないので今のところあまり意味がない。突き捨てられた端を逆襲したいが、手数がかかるうえに隙ができてしまう。正確に指せばそれほど形勢は離れていないのだろうが、秒読みであること、そして月子さんが冷静であることが、皆川さんを追い詰めていると感じた。

 そして。予想通り皆川さんは暴発気味の攻めを選んだ。おそらく、月子さんの強さを実感し始め、心を乱してしまったのだろう。月子さんは冷静に受け止めていく。差はどんどん開いていく。

 結局、垂らされた歩が成らないまま、全てを受け切って月子さんは勝った。まさに、完全勝利だった。

 ロフトから降りてパソコンを見ると、唇をかみしめる皆川さんの姿が確認できた。突然現れた女の子に負けたのだから、そりゃ悔しいだろう。しかし先輩棋士としてなら、僕はこう言える。「月子さんの方が努力しているということだ」

 決勝戦までも少し時間があったが、弟子に対して何か言うこともなかった。次の相手は大学女流ナンバー1のアマだったが、きっと月子さんが勝つという確信があった。月子さんは、他の人間と目指す高みが違うのだ。たどり着けるかは分からない。しかし、しっかりと見据えて進んでいる。

 決勝戦の間、僕は本を読んでいた。そして一時間後、月子さんはしっかりと優勝した。

「おめでとう」

「ありがとうございます。……なんか、よくわかんないです」

「何が?」

「どれぐらいすごいことなのか……」

 チャットの方を見ると、月子さんの活躍に騒然としていた。それだけでもすごいことだが、決して実力以上の結果が出たわけではない。

「とりあえず、勝負だから勝ったら喜べばいいんだよ」

「……はい」

 月子さんは努力して、少しはにかんでみせた。それでいい。満面の笑みは、プロになってからでいいのだ。



 順位戦開幕局は関西将棋会館に遠征。名古屋以来トラウマになっていた僕は、前日の夜全く出歩かなかった。

 対局当日、福島駅から出ると、だいたい信号は赤だ。三分ほど歩くと、ぱっと見には普通のビルのような関西将棋会館。何となくだが、東京よりも僕はこっちの方が好きだ。梅田から歩ける距離なのに、それほど派手でないというのもいい。基本的に、東京よりも大阪が好きなのかもしれない。

 対局相手の黒澤五段は先に上座に着席していた。僕より少しだけ先輩で、三段リーグでも対戦経験がある。見た目の印象は、髪が細い人、だった。スーツの着こなしもいいし、ネクタイのセンスもいい。顔も整っているのだが、髪質だけがとても残念なのだ。本人もあきらめているのか、丁寧にセットなどしている形跡はない。

「三東君、弟子とったんやね」

 対局まであと数分だというのに、黒澤五段は気さくに話しかけてきた。まあ、関西ではよくあることだが。

「ええ、まあ」

「偉いなあ。弟子なんか、おっさんがとるもんやと思っとったよ。しかも女の子やろ。大変やろなぁ」

「まあ、対局があんまりないんで、少々の苦労は大丈夫です」

「なんや、自虐的やなあ」

 定刻になった。「ああ、仕事や」と言って、黒澤五段は両手で頬を叩いた。一礼をして、僕は初手を指す。黒澤五段はすぐに二手目を指した。

 そこから後は、のんびりとした調子で進んだ。気が付くと、昼食休憩の時間だった。なんとなくだが、今日は出前を取っていない。外食をしようと会館を出たところ、後ろから駆けてくる足音がした。

「三東さん!」

 振り返ると、そこには辻村君がいた。

「よかった。僕も食べに行くところなんです。ご一緒できませんか」

「……いいけど」

 この前と違って、今日の辻村君は朗らかな顔をしている。

「ちょっと歩くんですけど、コーヒーの美味しい店があるんです。紹介させてください」

「辻村君、お店に詳しいの?」

「中学までこっちだったんです。不真面目だったんで、普段からここら辺で遊んでました」

 そう言って得意げに笑う顔は、とても爽やかで高校生らしい。しかし遊んでいても高校生でプロになれたという事実には、少し腹が立つというところもある。

「あの……先日はすみませんでした」

「ん、ああ。月子さんを送ってくれたんだから、何も悪くないだろ」

「……でも、やっぱり、その。……僕、下心ありましたから」

「……正直だね」

 若いだけではなく、辻村君には天性の明るさが感じられる。きっと将棋を除けば、僕なんかとは全く違う世界にいる人間なのだろう。

「その、だから、すみません」

「告白とかすればいいじゃない。そういうわけでもないのかな。だったら怒るかもね」

 突然、辻村君は立ち止った。

「あの……ここです」

 それは、小さくて古い、いい感じの喫茶店だった。高校生が行くところとは思えないが。

「一人でよく来ました。で、ゲームするんです」

「ゲーム?」

「家では将棋の勉強してないと、親が不安がるから。僕は天才だから大丈夫って言っても、信じないんですよ。だから携帯ゲームを外でしてました」

 窓辺だがあまり光の入らない席に、二人腰かけた。建物に似合ったくたびれたおじさんが、水とメニューを持ってくる。

「これがいいんですよ、ビーフシチューセット」

「ふーん」

「これ二つでいいですか」

「任せた」

「おじさーん、シチューセット二つ。ホットコーヒーで」

 おじさんは返事もせずに料理を始めた。妙に愛想良くされるよりも、こちらの方が気が楽ではある。

「あの、それで……つっこちゃんのことですけど」

「うん」

「彼女は、何者なんですか。高校でも、将棋の世界でも、ああいう子は見たことがない。皆川さんも相当悔しがってましたよ」

 辻村君の目は、好奇心に満ちてきらきらしていた。わからないものに対しては恐怖することもあるが、強烈な好奇心を寄せることもある。特に男というのは、女性の未知なる部分に惹かれやすいのだ。

「それは、僕が説明することじゃないよ。君が研究すればいいことじゃないか」

「けん……きゅう?」

「得意だろ」

 ビーフシチューが運ばれてきた。小さなパンも添えられている。

「僕は苦手なんだ、研究」

「あの……」

「ただ……月子さんは、もっと苦手かもしれないね」

 二人はしばらく、食べることに集中した。まずくはないが、とても美味しいとも感じなかった。

 食後に運ばれてきたコーヒーは、とても好みの味だった。

「月子さんはね……ちゃんとした子供時代を経ていないと思う。そのことは、気にかけてやってほしい」

「……」

 帰り道は、将棋の話ばかりした。そういえば対局の途中だったと、ぼんやりと思った。

「みんなが進路を選ぶのを見ると、少し悲しかったんです。僕も、将棋以外の道があるかもしれないと、思ったりします」

 ふと、辻村君はそんなことを言った。天才なりの悩み、とは思わなかった。僕らは皆、あまりにも幼い時に職業を決めてしまう。そして、辻村君はまだ、取り返しのつく年齢だ。まあ、そういう理由で将棋界から去った人はほとんどいないのだが。

 月子さんは、まだ引き返せるのだ。

 どうやら僕は、月子さんのためと思っていたことに対し、疑問を感じているらしい。寂しかった時にたまたま現れた少女。何の躊躇いもなく僕に全てを頼ってくる存在。僕の方が、甘えていたのではないか。

「辻村君……君たちと接することが、あの子には必要だと思う」

「え……」

「……自分一人では決められないことを、決意しなきゃいけない日が来るかもしれない」

 月子さんにとって、プロになれないときの決断はどれほど厳しいものとなるだろうか。連盟としては女流棋士になってほしいようだが、彼女にとってはそれでは意味がない。しかし最近の月子さんには、純粋に将棋を楽しむ様子も伺える。彼女を両親の呪縛から解放し、将棋そのものを目的としてやることはできるだろうか。

 今のところ、彼女は僕に従うことしかしないのだ。僕が嘘をついても、簡単にそれを信じてしまうだろう。

 友人や、ときには恋人も必要だ。

「わかりました」

 会館に着き、僕らはそれぞれの盤へと別れて行った。

 将棋は、ペースが速くならないまま進んでいき、夕食休憩を過ぎてもほとんど駒がぶつからない展開だったが、突如黒澤五段が果敢に攻めだしてきて、それを丁寧に受けていたら投了された。

「あかんわ。なんか、今日の三東君、えらい落ち着いてるんやもん」

「いやいや、そんなことは……」

 自分でもよくわからないが、余計なことを考えているせいか、失敗を恐れることなく指せたのかもしれない。もしくは、本当にたまたま間違わなかっただけなのか。

 とりあえず、初めて開幕局に勝つことができた。順位戦で、初めて勝ち越しているのだ。


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