20. Eva's Confession



 待って、こんなふうに走っては駄目よ、止まりなさい……。

 そんな言葉が頭の中を駆け巡ったが、エヴァにできるのはサタンの背にしがみつくことばかりで、それらは声にならなかった。

 興奮したサタンの動きは突発的で、牧場の柵を飛び越えるときの激しい飛躍で、エヴァは危うく振り落とされるところだった。それでもなんとか手綱を離さずに乗り切ったけれど、いつまでも止まらないサタンの逃走に、エヴァは間違った選択をしてしまったかもしれないと思いはじめていた。

 ドッドッ、というサタンの力強い足音とともに、エヴァの心臓も激しく鳴る。

 吹きつける風と降り始めた雨がエヴァの顔に当たり、目を開いているのもやっとだった。サタンは牧場を抜けきっただけでは満足せず、その先にある森へ入ろうとしていて、いくらエヴァ辛抱強く待っていても、足を緩める気はなさそうだった。

 頬を伝う冷たい水が、自分の涙なのか、雨なのか、エヴァにはよく分からなくなってくる。エヴァの格好は馬上で雨を受けるには薄着すぎて、恐怖と寒さに身が縮んだ。

 しかし、サタンも永遠には走り続けられない。

 森に入ると、サタンはしだいに速度を落としはじめた。

 木々が雨と風をいくらか和らげ、サタンの走りは少しずつ落ち着きを取り戻していくようだった。

 しばらくして、明らかにサタンが速度を落としたあと、エヴァはサタンの背にしがみついていた身体を立て直して、手綱を持ち直しながら後ろを振り返った。そのとき。

 ──誰かに、呼ばれた気がする。

 あり得ないのに。

 もしかしたら、最後に聞いたアナトールの叫びが、無意識に頭の中でこだましているだけかもしれない。

 エヴァは顔を上げ、木の葉の隙間から落ちてくる水滴を頬に感じながら、これからどうするべきか考えた。雨が止むまで……少なくとも雷鳴がおさまるまで、森からは出ないほうがいいだろう。

 雨でぬかるんだ地面を馬に走らせるのは利口ではないし、開けた土地は落雷の危険がある。

 今いる場所からもう少し深く森に入った場所に、いくつか開拓時代に掘られた小さな洞窟があったはずだ。とっくの昔に使われなくなっていて廃れているはずだが、数時間雨宿りするくらいは、できるかもしれない。

 エヴァはまだ興奮に鼻息を荒くしているサタンをなだめながら、記憶を頼りにその方向へ向かいはじめた。

 ──するとまた、誰かがエヴァの名を叫んでいる声が聞こえた。

 エヴァは振り返って周囲を見渡した。

 重い雨がじっとりと森を濡らしている。時々遠くから響く雷鳴と雨の音、そしてサタンの荒い息づかい以外、聞こえる物音はなかった。

 でも……。

 手綱を持つエヴァの手が、緊張に固くなった。


 こんな激しい雨の中で、来てくれるはずがない。だってわたしはヴィヴィアンじゃないんだもの。

 でも、どうしてこんなにはっきりと、あなたの声が聞こえるの?


 しかし、空耳かと思っていた声が、どんどん現実味を帯びたはっきりした声になるにしたがって、エヴァはまた周囲を見回しはじめた。

「アナトール?」

 エヴァは呟いていた。

「アナトールなの……?」

 気が付くと、エヴァの疑問は確信へと変わっていっていた。間違いない、これはアナトールの声だ。

 エヴァ。

 どこにいる、エヴァ。

 雨の森は晴れているときのよりも音が響きにくいらしかった。重い、重圧な声が背後から小さく聞こえるだけだ。

 いくらエヴァが合図をしても、サタンは止まってくれないので、エヴァは馬上で手綱を持ったまま後ろを振り向き、自分を呼ぶ叫びに声の限りで答えた。

「ここよ、アナトール!」

 すると遠くから馬のいななきが響いた。

 エヴァはまた繰り返しアナトールの名を叫び、彼に居場所を伝えようと努力した。もう、エヴァを呼ぶ声は聞こえない。そのかわり、雨道を走るサタン以外の蹄の音が、少しずつ近づいてくるのが分かった。

「アナトール!」

 エヴァは最後に大きく声を上げて、アナトールの返事を待った。

 濡れそぼった服が身体に張りつき、身体を回転させようとすると腰回りが痛んだが、エヴァはそれでもアナトールの存在を探さずにはいられなかった。

 蹄の音がしだいにはっきりしてきて、エヴァはその方角にじっと目を凝らした。すると、エヴァと同じくらい雨に濡れている影が、立ち塞がる木々の間を抜けるように現れた。

 ──アナトールは厩舎にいた馬に乗っていた。

 どれだけ急いだのだろう。どれだけ焦っていたのだろう。

 アナトールの顔は蒼白といっていいほど真っ青で、彼の表情はなにかに憑かれたような気迫に満ち満ちていた。

 でもなにが、どうして、これほどまでに彼を奮い立たせているの?

 近づいてくるアナトールにどんな声を掛けていいのか分からなくて、エヴァはじっと黙って待っていた。アナトールが乗った馬は、すぐにサタンの横まで近づいてくる。

「エヴァ」

 と呟いたアナトールの声は、安堵と興奮が混ざっていて、エヴァの背筋に不思議なしびれを与えた。

「くそ、エヴァ。よかった。怪我はないか?」

 エヴァはなんとかうなづいてみせた。

 アナトールが現れたことで、サタンはだいぶ歩みを緩めて、ゆっくりと足を動かしはじめた。アナトールの馬はぴったりとサタンの横に付き、同じ速度で歩きはじめる。

 アナトールはエヴァをじっくりと見つめ、なにかエヴァには聞こえない声で一言、二言呟いたと思うと、静かになった。

 しかし彼の呼吸は早く、激しかった。

 エヴァはごくりと息を呑んだ。

「この先に……小さな洞窟があるはずなの。そこで、雨が止むまで待った方がいいわよね?」

 なぜかエヴァはアナトールに質問していた。

 彼らが乗っている馬のオーナーもエヴァなら、この土地に生まれた時から住んでいるのもエヴァなのに、今はなぜか、アナトールがこの場を支配しているような気がしたのだ。

 アナトールは無言でうなづいて、エヴァが示した方向を睨むように見る。

 二人はそのまま洞窟に向かった。


 葉が雨を受けて枝が重くしなっている木々に隠れるように、古い洞窟はひっそりとたたずんでいた。

 入り口には苔がむし、地面は古い枯れ葉に覆われて盛り上がっている。

 すっかり目立たなくなっているそこを、先に見つけたのはアナトールだった。

「戦場にいると、」

 エヴァの視線を受けて、アナトールはどこか言い訳っぽく呟いた。「こういう場所を見つけるのが得意になる」

 二人はそれ以上、互いの馬に声を掛ける以外なにも語らず、静かに馬から下りて周囲を見渡した。

 サタンとアナトールの馬を雨に濡らさず留めておける木を見つけたので、そこに二頭の手綱を結び、二人は洞窟の中に入った。

 洞窟とは言っても、実際の深さは大人が数人入って雨宿りできる程度のもので、大きくはない。ただ、岩が器用にくりぬかれていて、一方の端がベンチのようになっていて座れた。

 アナトールはその岩のベンチの上に積もった葉や木の実をどけてエヴァが座りやすいように整えると、自身は洞窟の入り口まで行き、そこでシャツを脱いだ。

 日に焼けたたくましい肉体があらわになり、エヴァはつい羞恥に目を離し、ありもしないベンチの上の汚れをはたくふりをしてやり過ごした。アナトールが勢いよくシャツを絞ると、大量の水が滴り落ちる。

 エヴァはきゅっと唇を噛みしめた。

 エヴァの中には間違いなく、目の前のアナトールの背中に抱きついてしまいたい欲求があって、駄目だと思おうとすればするほど、その渇望は膨らんだ。

「座らないのかい?」

 アナトールが肩越しに振り返ってそう問うので、エヴァはうなづきながら無言でベンチに座った。喉が渇いて、声が出ないような感覚だった。

「火がいる……が、この湿り気じゃ、火の種になるようなものがないな」

 周囲に注意深く視線をめぐらせながら、アナトールは諦め気味にそう言って、エヴァのほうへ振り返った。

 アナトールは最初、いつものように熱い視線をじっとエヴァに降り注いだ。

 しかしその後、彼の視線がだんだんと下に下がって行くと、彼の表情にわずかな変化が起った。アナトールは眉を上げ、まるでどこかがひどく痛むのを我慢するかのように、口をぎゅっと一文字に結ぶ。

「?」

 エヴァはアナトールに見られている部分に目を降ろし、そして、その時やっと自分の格好に気が付いて、急激に頬を赤くした。

「悪い」

 両手で上半身を覆うように隠すエヴァに、アナトールはそう呟いたが、少し顔を横に向けただけで背を向けることはなかった。

 エチケット本に書いてあることに従えば、エヴァはここで背を向けてくれなかったアナトールを怒るべきなのだろう。

 しかし、エヴァは怒る気にはなれなかった。

 逆に、今アナトールに背を向けられたら、エヴァはきっと傷つく。

 アナトールは横を向いたまま、きつく絞ったシャツをはたいて広げると、それをエヴァの膝元に投げてよこした。シャツはすとんとエヴァの膝に乗った。

「多分、なにもないよりはいいだろう」

 エヴァはまたアナトールの言葉にうなづいたが、アナトールの香りのするシャツを羽織いながら、上半身裸の彼と洞窟で二人きりになるのが正しい選択かどうかは……確信が持てなかった。

 それでも、やはり、アナトールに反抗する気にはなれない。

 エヴァは急いでアナトールのシャツの袖に腕を通し、前のボタンをいくつか留めた。いくら絞ったとはいえ、完全に乾いているわけではないのに、シャツ一枚でエヴァの身体は急に暖かくなった気がした。

 そして、少なくとも、濡れて身体にぴたりと張りついた自分のシャツを隠すのは成功している。

 エヴァがほっと一息つくと、アナトールも同じように深く息を吐いた。


 しばらく二人は、ひっそりとした沈黙の中にいた。

 聞こえるのは雨の音だけで、エヴァはまた、スカートの上の見えない皺を伸ばすことに集中してみたりしたが、逸る鼓動はどうにもならない。

 アナトールは立ったままで、彼もまた、単調な洞窟の岩の模様を観察するふりをしている。

 いつの間にか外の雨は少し勢いを失ったようで、雷鳴もかなり遠くなってくる。

 時々サタンが、俺を忘れるなと警告するような声でいななくのが聞こえた。


 アナトールがなにかを言いたがっているのは分かった。

 もしくは、なにかを聞きたがっているのを。

 エヴァはスカートから顔を上げてアナトールを見つめた。するとアナトールも振り返り、エヴァを見つめ返した。二人の視線が絡まると、外の雨にも関わらず、小さな花火が弾けたような衝撃が二人の間に走る。

 エヴァはもう黙ってはいられなくなった。

 今、ずっと言いたくて言えなかったことを、伝えなくてはいけない気がした。

「アナトール……わたし、あなたに言わなくちゃいけないことがあるの」

 声と一緒に、エヴァの指先が震える。

 しかしエヴァは勇気をふりしぼってベンチから立ち上がった。

 二人以外、ここには誰もいない。

 エヴァはアナトールのシャツを着ていて、アナトールはズボン以外裸同然の姿で、深い森の中で二人きり、言葉にならないほどの熱い視線を交わし合っている。

 今、言えなかったら、きっと永遠に言えない。そう思うと、エヴァはもう堪えられなかった。

「あなたへの手紙……ヴィヴィアンから届いたあなたへの手紙……あれを書いていたのは、わたしなの」

 緊張にエヴァの膝が震えた。

 吐き気までしてきて、立っているのがやっとだった。

 しかし、アナトールは変わらない表情でじっとエヴァを見つめていて、一言も返事をしてくれなかった。まるで、エヴァの声が聞こえていないようにさえ見えた。

「アナトール……?」

 エヴァは、無意識に一歩前に進もうとした──そのとき。

 突然、アナトールの表情が険しくなった。

 怒りに燃え上がったように目を見開き、全身を固くしてエヴァの顔から視線をそらす。そして両手を開いて仁王立ちしたアナトールに、エヴァは驚き、身震いした。

 怒られる。

 ののしられる。

 分かっていたはずなのに、陰険に眉間に皺を寄せているアナトールの迫力を前に、エヴァは泣き出したくなるのを止められなかった。

「ア、アナトー……」

「動くな」

 アナトールは一切表情を変えず、口だけ動かしながらそう命令した。

「え」

 とっさにエヴァはアナトールが睨んでいる足下に視線を泳がせた。

 そして、硬直した。

 枯れ葉の間から半身をのぞかせた大きな蛇が、シャーッと音を立てながら長い舌を外に出して威嚇しているところだった。

 蛇の顔はエヴァから一フィートも離れていないところにある。

 黒い鱗が重なったような不気味な肌に、小さな切れ長の瞳と、攻撃的な鳴き声……毒蛇だ。それも、一噛みで自分より大きい生き物を殺せるような、強い毒を持った毒蛇。

 エヴァは真っ青になってアナトールへ視線を戻した。

 彼は毒蛇に向けて恐ろしい形相を見せていた。今までの彼からは想像もつかないほど険しい表情だった。

 エヴァはごくりと息を呑み、もしかしたら戦場のアナトールは、ずっとこんな顔をしていたのかもしれないと意識の底で考えた。

 じゃりっと音を立て、アナトールが小さく一歩踏み出すと、蛇の顔はエヴァからアナトールに向けられた。

 その瞬間、アナトールが少し微笑んだのを見て、エヴァはますます蒼白になった。彼はエヴァを救うために蛇の関心を彼自身に向けようとしたのだ。

 そして成功した。

「だめ……っ」

 と、エヴァが叫ぼうとした瞬間、アナトールの腕が獣を狩る野獣のような素早い動きで蛇の首へ伸びた。

 蛇は口を大きく開き、とがった鋭い歯を光らせ、アナトールと戦う構えを見せた。


 エヴァの世界が、大きな音をたてて崩れた瞬間だった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る