第6話

 ――――幼い頃、兄がいた。

 歳が離れていた。十は上だったと思う。

 極年少の妹を、兄はいたく可愛がってくれた。厳しくもあったが、愛情に溢れていた。

 その兄と、何かに追われて、夜の故郷をひた走った記憶がある。

 一体何に追われていたのか――――その後どうなったのかは、覚えていない。

 ただ。家のベッドで目覚めたとき、どこにも兄はいなくて。いつも朗らかで優しかった祖母が、泣き腫らした目で、両親と兄の死を告げたのだった。



 滴る水の音が、真白の意識を沼底から引き揚げる。

 ゆっくりと目を開けて、まず、暗い、と思った。

 守護者として宛がわれた部屋どころか、元々寝泊りしていた寮、農村の実家では考えがたい暗さだ。起き上がろうとして、背中の痛みに顔を顰めた。

「……起きたの?」

「え?」

 いるはずのない、自分以外の人の声。錆びた機械のように軋んで痛みを訴える首を巡らしてみれば、そこには、

「っあなたは、夏の……!」

「こんにちは、お嬢ちゃん。真白ちゃん、だったかしら」

 夏の守護者が、地面に直に座り、優雅に足を組んでいた。

 ――――二枚の鉄格子と、その間に寝そべる廊下を挟んだ先に。

「…………ここ、は……」

 見慣れない、それどころか異様とも言える光景に、真白は周囲を見回した。

 錆び付いているのか元からその色なのか、黒くぬるりと光る鉄格子。その延長線上にある壁は自然のもので、ゴツゴツとした岩肌だ。手を触れればしっとりと濡れている。真白が寝かされていた床もやはりそれで、壁から欠け落ちたのだろうか、大小様々の石があちこち転がっている。こんなところで寝ていれば、成程体の節々が痛むに違いない。窓は無く、光源といえば牢の外、尽きかけた燭台の残火と、強い力を宿す夏の守護者の翡翠色の目くらいだ。

 廊下の先は、闇が立ち込めていて、何も見えない。伝わる音も、自分たちの息遣いと衣擦れ、天井から滴る雫と、火が空気を喰む咀嚼音のみだ。そして、寒い。今までに経験したことのない寒気が、肌を痛めつける。

 なぜ自分はこんなところにいるのだろう。しかも、夏の守護者とともに。

 彼女から最大限離れてから、記憶を探る。確か、夏の国に忍び込んで、クレナイを追いかけて、そうしたら、巨大な機械人形がいて……。

「機械人形」

「……アタシたちは、冬の機械人形に捕まったのよ」

 守護者は、悔しさからか、苦々しげにそう言った。

 あれだけの巨大な機械、冬の国しか作れまい。まして、秋ならまだしも、そういった科学技術を敬遠する夏にはまず無理な話だ。故に、あれが乱入してきた冬のものだというのは間違いが無い。

 だが、不可解だ。

「冬に? なぜ」

「知らないわよそんなこと。守護者を買収でもして、寝首掻こうってんじゃないの」

「…………」

 彼女にも見当がつかない――――というよりは、憤懣遣る方なくてどうでもいいというような態度だ。

 なぜ自分が捕まえられるのか。確かに、ミハシラを捕まえ監禁するなどというのは現実的ではない。だからといって、何の力も、権限もない守護者を捕まえたところで益などあるのだろうか。

 成る程彼女の言うように、敵の側近をこちら側のスパイにしてしまうというのが、思いつく限り最も自然ではあるが――それでも胡乱なことに変わりは無かった。

「……分からないな」

 考えても仕方が無い。いずれ分かる事だ。それよりも気になるのは、クレナイの安否だ。あの時、クレナイは冬の攻撃をまともに受けた。大事には至らないようだったが、あの場には夏のミハシラもいた。つまり、敵地にいたのだ。

 わずかでも怪我を負った相手を、突然の闖入者がいたとはいえ、見逃すだろうか。

 無事でいるのだろうか。守護者といったって、何の力もない真白にはわからない。

 寒さに耐えるように、寂しさを堪えるように、……不安を隠すように膝を抱える。

 何より――――足を、引っ張ってしまったのだ。あれだけ威勢のいいことを言っておきながら、あっけなく捕まり、助けようとしてくれたクレナイに怪我を負わせ、こうして監禁されている。

 なんとも、情けない。くだらない。――救いようが無い。

 こんなにも役に立たないのなら、足手まといでしかないなら。いっそこのまま、寒さに凍えて、死んでしまった方が――――

「ねえ、お嬢ちゃん。貴方、炎でコレ、溶かせないの?」

「……?」

 沈む心に合わせて俯いていた顔を上げると、守護者は鉄格子を握り、力任せに揺すっていた。当然、それではびくともしない。黒い威圧感で聳え立つそれを恨めしそうに睨んでいる。

「わたしは普通の人間だ。そんなことできないよ。火なんか出せるわけがない」

「でも、秋の守護者でしょう」

「それとこれとは話が別だ……守護者だからって、特別な力が備わるわけじゃなし。まさか秋の国民が皆火が出せるだなんて思ってるわけじゃないだろうね」

 使えたら、そもそもこんな状況に陥ってなどいないだろうし、足手まとい扱いもされなかったろう。応えもどこか捨て鉢にもなる。

 しかし、守護者はその応えに訝しげに眉を顰め、鉄格子を越えんばかりに身を乗り出した。

「貴方、ここから出たくないの?」

「――出たいよ、それは、勿論」

 それは本心だ。けれど、出た後、どうすればいいのだろう。

 どんな顔で、帰ればいいのだろう。

「なら、ここは協力し合うべきだわ。ここはお互いにとって敵である冬の国。留まって死ぬだけなら、その方がマシでしょう」

「……協力」

 その言葉は、真白の胸に赤黒い煙を立たせた。

「その口で、よく言う。皆を……沙那を、殺したくせに……!」

 自分の喉からこんな声が出るのかと思うほど、怒りと憎しみに燻っている。だが、守護者は、長い髪を後ろへ追いやる動作で、射殺さんばかりの眼光をあっさりと受け流した。

「戦争だもの」

「――っ」

「そんなことより」

 その素っ気無さに、頭に血が上る。いっそ頭痛までしてきて、感情のままに口を開いた真白を、守護者が冷たく鋭い口調で遮った。

「ここを出る方法を考えるべきよ。協力という言い方が嫌なら、相互利用でいいわ。アタシは貴方の守護者としての力を、貴方はアタシの戦闘力を利用する。お互いの目的は同じなのだから、悪い話じゃあない……それとも、何か別の方策でもあるの?」

「……っわたしは、だけど……!」

 分かっている。何よりも自分の命を優先するなら、個人感情に囚われず彼女の言に従うべきだ。

 だけど。それでも。真白には、自分の大切な人々を殺した夏を、彼女を、許せない。

(自らの生命・身体を維持することにのみ)

 クレナイの命令。やはり、どうしても、承服できそうもない。

 上手く言葉が出てこなくて、ただ拒絶を示すために唇を引き結んだ真白に、守護者は、深くため息をついた。

「……アタシは千鶴。気が変わったら、言って頂戴」

 それだけ言って、彼女もまた、真白に背を向けた。



 ――――それから、どれくらい経ったろう。

 真白が千鶴の誘いを断ってから一度も破れなかった静寂を、乱すものがある。

 硬質な、およそ一定の音だ。それが靴の音だと気付いたのは、段々とこちらに近づいてくるからだった。

 靴音がほとんどすぐそこまで来てから、その中に密やかに別の足音が紛れているのが聞き取れた。

「……ミハシラ様。こちらです」

「御苦労」

 男の声と、女――少女の声。後者には聞き覚えがあった。

 あの時、機械人形の中から響いてきた声だ。つまり――――冬のミハシラだ。

 真白は預けていた壁から背を浮かし、太もものホルスターに手を伸ばして、思わず舌を打った。当然ながら、武器になるものは取り上げられている。向かいの千鶴も、気だるそうな表情を見せてはいるが、その目は鷹のように爛々と光っていた。

 ゆっくりと、少女が暗闇から進み出た。

 背は、真白より少し低いか、同じくらいだろうか。おしゃれというよりは伝統を思わせる化粧を施した相貌はまだ幼くあどけない。しかし真白が今まで見てきた誰よりも美しかった。

 まるで神話に謳う、童話に語る女神のようだ。すっと通った鼻梁も、さくらんぼのような唇も、陶器人形のように絶妙な位置に収まり、キリリと吊り上がった夏空の目は大きく、鼓動する光が意志の強さを感じさせる。手の平に収まるのではと錯覚させるほど小さな顔を象る髪は絹のようで、指で梳いてみたくなる。

 纏う衣装は布の量が多いものの一枚一枚が薄く、天女の羽衣のようだ。その袖から覗く腕や足は細く、透き通るように白い。額の金環や手首の腕輪は、その衣と同じ民族的な意味を持つのだろうか。少女は冴え冴えと輝く目で真白と千鶴を交互に見、厳かに口を開いた。

「吾は冬のミハシラ、セツ。これなるは吾が守護者、逆羽だ。外つ国の守護者らよ、吾が王国に歓迎する」

 冬の国は王制だと聞いている。豪雪と寒風に閉ざされた王国で、率直に言って生きにくい故か、その生活様式は機械に大きく頼っているという。そして、王とは、代々ミハシラが務めるのだ。

 つまり、目の前の美しい少女――実年齢を考えればその表現もおかしなものだが――は、この国の王。

 その立ち姿、振る舞い、言葉の発し方一つをとっても、王者の風格を感じさせた。

「これが冬の国の“歓迎”なわけね。最高だわ」

 酷薄な笑みで放たれた千鶴の皮肉に、セツは眉一つ動かさない。

「殺さず、害さず、縛せず。捕虜にしては破格の扱いであろう?」

「少なくとも、女性を入れる部屋ではないわね。寒くて仕方ないわ。知らない内に凍死していてもおかしくないわよ」

「――――ふむ。寒いか、これが」

 セツがぐるりと頭を巡らし独りごちる。理解できないとでも言いたげな様子に、千鶴は閉口した。

 さすがの真白も、絶句せざるを得ない。秋の国は暑くもなく、寒くもない過ごしやすい気候で、外国人に言わせれば「涼しい」とのことであるが、この地下牢、ひいては冬の寒さは尋常でなく想像を超えていた。既に手足の先から感覚が失せているし、耳が千切れるように痛んでいた。あれだけ暑い国に生まれ育った千鶴には耐え難いものがあるだろう。

 侍従する逆羽は、騎士を思わせるデザインの、分厚い布を何枚も重ねた暖かそうな服装をしている。対するセツは、布の薄さといい、露出度の高さといい、この寒さに耐え得るとは思い難い。

 彼女自身の性状か、はたまたミハシラとしての何かなのか。恐らく後者なのだろう。今実感する感覚を前に、いくら神とはいえ前者とは思えない――思いたくなかった。

「ミハシラ様」

 セツの耳に滑り込ませるように、それまで沈黙を保っていた逆羽が卒然密やかな声を発した。

「貴方様の国の寒さは、この地下牢のように御力で零度以上に保っていても、人には厳しいものです。まして外つ国の人間には、なおさら」

「……そうか」

 その上奏に、セツは鷹揚に頷く。もしや、部屋を変えてもらえるのだろうか。だとしたらありがたいが、捕虜にそこまでするとは思えない。

 せめて、何か羽織るものだけでも欲しいところだが、贅沢だろうか。

 期待と不安を織り交ぜた心境でセツを見上げた真白は、ふっと、彼女の目に、何の色もない、残酷な光が過ぎったのを見た。

「用が済みさえすれば、こやつらの生命に興味はない」

 ――温度を語るまでもなく。その声音には、何も無かった。

 何の前触れも無く、すうっと手を上げ千鶴の前に翳す彼女の動作は優美に過ぎて、見る者にその意味を考えることさえ忘れさせる。

 刹那、

「あああああっ!」

 千鶴の胸に光る紋章が浮かび上がり、呼応するように苦悶の声を上げる。仰け反らせた白い喉から弾ける絶叫に思わず息を呑んだ。

 その紋章には見覚えがある。否――正確には、似たものを知っている。

 守護者に任命された直後、ミハシラの寝所である聖池へ通ずる扉を開いたとき、クレナイが壁に刻んだ光の紋章と、よく似ていた。

「な、何を!」

 尋常ではない苦しみように、戦慄を覚える。縋るように格子を握り締め、何事が起こっているのかとセツを仰ぎ見た。

 その顔に、特筆すべき感情は無い。ただ無感動に、事象を観察するように千鶴を見下ろしている。

 しかし――――

「ぐっ……うう、あぐ……っ!」

 千鶴が何かをこらえるように胸元を握り締める。紋章の光が強くなるほど、苦しみもまた増しているようだった。

 セツの唇が、見開かれた双眸が喜悦に歪む。

(――引き剥がそうと、している?)

 あの、不可思議な紋章を、千鶴から。

 そうしてしまったら――どうなるのだろう。

 死ぬ――――?

「っ!」

 最悪の結果に考えが及んだ瞬間、感情も思索も何もかも吹き飛んで、咄嗟に掴んだ石を投げつけた。

「――――!」

 主への敵意を感じたのか、逆羽が素早く反応して腰の短刀を振るう。しかし刃は空を切った。

 いくら素人の一学生とはいえ、相手が手練か否かは判断が付く。ミハシラと守護者を前に、まっすぐな・・・・・攻撃が通用するなどとは端から思っていない。

 真白が天井に強く投げつけた石は、隆起した固い岩にぶつかって、過たずセツの腕に落ちた。

「つっ!」

「ミハシラ様!」

 セツの白い腕に赤く裂傷が出来る。痛みのためか不意の驚き故か、術式が途切れて光の紋様が消え失せ、力尽きたかのように千鶴は地面にぐったりと倒れ伏した。

 逆羽はセツの傷の具合を確かめ、大したことがないと知って安堵の息を漏らしたが、すぐに真白を睨みつけ、抜き放ったままの短刀を手に鉄格子に切迫した。

「貴様、覚悟はできているのだろうな」

 ――――殺される。

 よく磨かれた短刀のように鋭く凍てつく眼光に、呼吸が止まる。感覚の無かった末端に血の激流が巡り、耳元でドクドクと脈打つ。

 悲鳴すら出ない喉では、反駁も謝罪も命乞いも何もない。ただ小動物のように無様に震えて、狭い牢内を後退ることしかできなかった。

 上位者と下位者。その絶対的上下を、しかしくるりと返したのは、セツだった。

「よい、逆羽。大した怪我ではない」

「ミハシラ様、しかし」

「…………そなたは鼠のようだ」

 セツの目は真白を映していて、遅ればせて自分に向けられた言葉だと知る。意図を汲みかねて、だけど問い返すにはまだ震えが抜けきっていなかった。

 ニ、とセツが唇に笑みを敷く。その微笑は妖艶で、挑戦的で、およそ少女らしい相貌とそぐわずいっそ妙なる美しさを生んだ。

「気に入った」

「…………」

 それだけ言い置いて、セツは呆気なく身を翻し元来た道を戻っていく。逆羽は一度こちらを睨みつけて、その背を追いかけていった。

 足音が遠ざかるにつれ、段々と頭が冷えていく。脳が平生の回転速度を取り戻して、最初に浮かんだ言葉は“助かった”だった。

 やがて、何も聞こえなくなって、恐る恐る向かいの鉄格子を指先で叩いた。

「ねえ……大丈夫かい」

「――……おかげさまで」

 声に反応してか、千鶴がゆっくりと上半身を起こす。大事無いようで安心したが、その顔は土気色だ。大分体力を消耗したのだろう。

 ――安心? なぜ?

 自分の胸に生じた情動に戸惑う。それを知らず、千鶴は背を壁に預けて真白に向き直った。

「助けてもらっちゃったわね。礼を言うわ。ありがとう」

「……別に……」

 感謝の言葉は、砂の味がした。

 何故助けたのだろう。彼女は仇だ。沙那を殺した夏の人間だ。どうあろうが真白には関係ない、むしろ、死んでしまった方が――――。

「……お嬢ちゃん?」

「……なんでもない」

 それ以上は。どうしても、胸中でさえ、吐き出せない。

 何度も頭を振り、ただの気紛れと自身を納得させる。そうすることでしか胸の靄を消せなかった。

「さっきのは、一体何だったんだい」

「力を奪われそうになったのよ。何のためか知らないけど」

「力? 何か力を持っているの?」

「何か、って……」

 千鶴は目を白黒させると、徐に胸元をはだけ始めた。何事かと固まる真白の目の前で、布の下から鎖骨と豊満な谷間が現れる。

 自分の胸部と比べて、うらやましいなどという思考は生まれなかった。それよりも目を奪うものがあったのだ。

 千鶴は桜色の爪先で、それをなぞった。

「これは、夏の守護者としての証。貴方にもあるでしょう?」

 つい先ほど、苦しむ千鶴の胸で光っていたのと同じ紋様が、そこには刻まれていたのだ。

 まじまじと見入る真白の耳に、千鶴の声が届いて脳にしみこんだのは、実際に発せられた数秒後のことだった。

「守護者の、証?」

 そんなもの、見たこと無い。あることさえ知らない。襟から自分の同じ箇所を覗いてみるが、控えめに自己主張する膨らみがあるだけだ。

(……まだ16だし)

 胸部の成長は10代前半に決まると聞くが。

 遅ればせてやってきた詮無い憂鬱に囚われそうになって、慌てて頭を振る。今はそんなことを考えている場合ではない。

「無いよ、そんなもの。見たことない」

「……嘘でしょ? 背中とか、見えないところにあるんじゃないの? だって、契約したでしょう」

「契約って……書類上のこと、じゃないよね」

「――――」

 驚きのあまり、或いは呆れ返って、千鶴がぐるりと目を回す。しかし真白にしても、彼女の言う意味がよく分かっていないのだ。どうしようもない。

 千鶴は疲れたように頭を抱えて、深いため息をついた。

「……契約というのは、同じかどうか知らないけど、ミハシラ自身に明確に従属を誓い、力の分与を請うの。そうして初めて守護者は守護者たりえる。ミハシラの属性と同じ力を持ち、証として紋章が体のどこかに刻まれるのよ」

 さすがにちょっと風が出せたりするだけだけど、と付け加える。それだけでも、普通の人間には脅威に違いない。

「――知らない。そんなの、聞いたこともない」

「…………なるほどね」

 真白は愕然とした。それは、つまり、自分は正式な守護者にもなれていないということではないか。

 クレナイは知っているのだろうか。――知らないはずはない。昨日今日ミハシラになったのではないのだから。

「要するに、あの坊やは、守護者なんかいらないってことね」

「――――」

 千鶴の言葉が、最後通牒だった。

 そう、確かに、彼はそう言った。自分を守れるほど強い人はいないからいらないと言った。

 それを、人間側が、無理に付けさせたのだ。――全くもって彼に認められていなかった、お飾りでしかなかったという事実に眩暈がする。倒れないように鉄格子を握り締めると、冷たさを通り越した棘のような痛みが掌に突き刺さる。

 最初から、分かっていた。分かっていたことなのだ。

 なのに、どうして、こんなにも痛い。

「けど、戦地、まして相手の本拠地に連れて行くなら契約しておかなければ、自分の身も守れないじゃない。一体何を考えているのかしら」

「それは、わたしが、無理についてきたから…………実際、輸送機の傍で待機を命じられていたし……」

「……ふうん」

 ふ、と手に何かが触れる。千鶴が、真白の手に自分のそれを重ねていた。

「ショックを受けてる?」

「……っあなたには、関係ない」

「そんなことないわ。だって、アタシが余計な事言わなければ、お嬢ちゃんがそうやって今にも倒れそうな顔しなかったんだもの。責任くらいとるわよ」

「どうやって!」

 ぱっと手を払いのける。手の甲が格子にぶつかって、超音波のような震動が空気の色さえ変えた。

「これは……っわたしの問題だ。いずれ向き合う問題だったんだ。あなたは、関係ない」

「……分かってる? それ、優しさよ。突き放してるんじゃない。貴方はアタシのことが憎いはずなのに」

「それも、関係ない。それとこれとは別なんだ。わたしにとってあなたが仇だって、憎かったって、じゃああなたがどうやって解決できるっていうの? できないよ、そんなの。馬鹿にしないでくれ、少し考えれば分かる事だ」

「……賢いのね。賢すぎて、だから迷ってるんだわ」

 その声音は、憐憫の色をしていた。

 真白は座り込んだまま後退る。もう何も聞きたくない。立てた膝に額をつけ、両手で耳を塞いだ。

 何か、役に立てればよかった。身の回りのことだけでもいい。だが、それさえ許されなかった。

 ならば戦うしかないではないか。元よりそれが守護者としての役目なのだ。――“守護者”という肩書きが、真白がクレナイの傍にいるための免状になっていた。

 それもただの紙切れだ。薄っぺらい言葉だ。

 いいや、そうではない。それはもうとっくに分かっていたのだ。納得はできていなかったかもしれないが、既に一度飲み下していた事実で、だからこそ、しがみつこうと必死になっていたのだ。

 だから、今。真白の胸を侵蝕していくのは。

「……馬鹿みたいだ。あのとき、命令に従って、大人しくしていればよかったのに」

 自惚れて、一人で突っ込んで、挙句敵に捕まって。全く目も当てられない。お荷物にしかなっていない。

 ――生きることこそ、死を厭う彼の喜びなのかもしれない。

 自己の生命・身体を意地することにのみ尽力せよ。真白の行動は、その命令に大きく違反していた。

 怒っているだろう。呆れられているだろう。――――見捨て、られるだろう。

 それこそ、真白が何より恐れていたことだった。

 一度繋がれた手を離される、その喪失感が、真白は大嫌いだった。初めから無いのなら構わない、有った物を失うことには耐えられない。

 少なくとも、クレナイは、真白のことを嫌ってはいなかったはずだ。守ると言ってくれた、その言葉に偽りはなかったはずだ。

 あのとき、必死になって手を伸ばしてくれた彼の目には、確かに、真白が映っていたはずだ。

 あの暖かな手に、優しい目に、冷たく振り払われるなんて――――想像したくもない。

 もはや、否元より、真白の存在はクレナイにとって何の益にもならない。国益にも無い。こうなった今、損害でしかない。堅固な壁を築いた冬に攻め込むこと自体正気の沙汰ではない。

 見捨てられる。きっと――絶対に。

「……あのね、お嬢ちゃん」

 昏く黒く淀む思考。その中に、別の流れが生まれた。

「アタシはね、アオイ様が――――夏のミハシラ様のことが好きなの」

「…………え?」

 思いがけない告白に彼女を見ると、恥らうように、或いは懐かしむように目を伏せ、口元は淡く笑んでいる。

 その表情は、恋を知ったばかりの清らな少女おとめのようだった。

「実年齢は、多分同じくらいね。アタシが……まだ10代の頃よ、あの人がミハシラとして立ったのは。その頃は、あの人も戦い方なんか全然知らなくて。アタシの師匠は、国随一と言われるほどの有名な人だったから、あの人も師事した。弟弟子、というのかしら。もっとも、特別扱いだから、普通に過ごす分にはろくに関わらないんだけどね――――――」


 *


 元々、力ある部族の出だった。兄は家を継ぐことを定められ、それに従い厳格に育った。二人の弟は片や文人、片や武人として、部族長の近侍となった。

 娘の千鶴は、父としては、他家に嫁がせて自家の格を上げたかったのだろう。14にもなれば縁談も舞い込む。しかし如何せん、千鶴は武術にしか興味がなかった。そして幸か不幸か、才があった。

 夏で最高と謳われるほどの武道家に師事し、日々技を磨く。いつの間にか、同じ道場の中で千鶴と肩を並べる者はいなくなった。

 そんなある日のことだった。

 猫みたいな目をした少年が、その道場の門を叩いたのだ。

「アオイ様」

 師匠は彼をそう呼んだ。

「この子は千鶴。うちの一番弟子だ。千鶴、この方は」

「存じております。ミハシラ様でございましょう」

「ああ。アオイ様という。我が門下に入り、武道を学ばれるとのことだ。弟子である以上立場は同じだが、さすがにおおっぴらに同列に扱うのは体外的によくないらしい。千鶴、彼の世話を君に任せたいのだが」

 ミハシラのことは、物心付く前から聞かされている。神、救世主だ。

 武こそ根幹といえる夏の国で、その頂点となるミハシラとは、崇拝の対象だった。だからこそ、ミハシラは誕生すればすぐに全国民に知らされる。彼の容姿を知らない人間はまずいない。

 そのような存在の傍近くに侍り、伺候する。この上ない栄誉だ。一も二も無くその役目を拝領しようとしたとき、

「いいえ」

 少年特有の、声変わりして間もない不安定な声が、千鶴より先に否を示した。

「世話役は必要ありません」

「千鶴は優秀だ。護衛の意味もあるし、何より訓練の相手にもなれるだろう」

「不要です。……オレには」

 思わず、千鶴は反駁していた。天と地ほどの差異がある相手ながら、その容貌が千鶴に無礼を許したのかもしれない。

「ミハシラ様は、私を侮っておいでか。それなりに腕も立ちます。この国にそんな者がいるとは思えないが、賊から貴方を守る事など造作もない!」

 ――――しかし。アオイは、ただ、水面のように静かな目で、千鶴を見て、

「…………」

 何も言わず、視線を外した。

 これ以上ない屈辱だ、侮蔑だ。千鶴はカッと頭に血を上らせて、後先も立場も考えず、部屋を飛び出したのだった。



 ――アオイは、弱かった。

 そう有り体に言ってしまうのも可哀想かもしれない。彼はそもそも戦い方というものを知らなかった。筋はいいようで、師匠が付きっきりで訓練し、ごく短期間で見られるようにはなってきたものの、他には明らかに劣っていた。

 夏に生まれた者は、物心付く前から武道を学ぶ。男子ならば一生涯付き合うことになる。彼は見たところ千鶴より少し年嵩、15年は人として生きているのだ。通常、戦えないということはありえなかった。

 夏の人間ではない。そんな噂が流れるのも、道理だ。

(どうでもいい)

 出自がどうあれ、夏のミハシラであることに違いは無い。

 そして、国を任せることなどできないほどに弱いことも。

 千鶴は視界に彼が映る度、その名を耳にする度、言いも知れぬ苛立ちと焦燥を覚えた。

 武を尊ぶ夏にとって、ラグナロクは栄えある聖戦であり、国としての最終目標であり、勝利を約束すべきものだ。その中心人物たるミハシラが最弱などと、到底許される話ではない。

 ――――何故、彼なのか。

 古い文献によれば、既にこの国にミハシラはいた。しかし不慮の出来事により死亡し、新たに選出されたのがアオイというわけだ。 

 夏の国には強者が大勢いるではないか。四天王と呼ばれる、部族を越えて尊敬の念を全国民から注がれる最高峰の武人だったならば勝利は確実であったろうに、それが何故、戦闘技術も権威も何も無い無名の子どもが選ばれたのか。

 いや、年は関係ない。強ささえあればいい。強さとて、鍛錬すれば身に付くものなのだ。

 千鶴が何より許せないのは、彼が何事にも無関心であることだ。

 鍛錬には熱心だ。だが、夏の国を支える者としての気概が無い。勝利に固執していても、その後の栄光に興味が無い。

 目的に至るための鍛錬が、いっそ目的のようにさえ見える。その目的以外で人と関わろうとしない様は、まるで――――

「アオイ様は、夏の国なんかどうだっていいんですね」

「――――……」

 武道場の程近くにある清池のほとり、呆と佇む背に、そんな言葉を投げかけた。 

 本当なら敬語の粋を集めた堅苦しい物言いをしなければならないのだが、アオイ自身がそれを忌避したので、今のような崩れた口調となっている。

 千鶴としても目の前のこの男に、そんな言葉遣いをする労力がこの上なく惜しかった。

 人に聞かれれば問題になりそうな発言にも、アオイがろくに反応したことはない。だから、今回も、アオイは背を向けたまま無言を突っ返すのだと思っていた。

「……そうだな。どうでもいい」

「!」

 だから。内容よりも、返事をしたことに驚いてしまった。

 アオイはその冷たい瞳を湖面に投じたまま言葉の穂を継ぐ。

「オレは、オレが勝てればそれでいい」

「――っそうやって独善気取ってるから、誰もついてこないんです。王とは民ありきのもの、民あっての国です。知ってます? 皆、貴方のことこう呼んでるんですよ。“ハリボテの王”ってね!」

「――――ハ」

 ……そのとき、初めて。

 彼の“笑み”を見た。

「それでいいじゃないか」

「今度は負け惜しみ?」

「誰もオレに興味なんて無いだろ」

 それならハリボテで充分だ、と。彼は、とても冷たい笑みを見せた。

 ――違う。その目も、笑みも、冷たいのではない。どこまでも静かで――――静かな、諦めの色だ。

 民が求めたのは、ミハシラの彼で。そうではない彼では、ない。

 想いは返るものだ。民がハリボテを求めたから、彼はハリボテを立て後ろに隠れてみせた。

 ただ、それだけ。

「……じゃあ」

 千鶴は、どうしても、訊かずにはいられなかった。

「どうして、ミハシラになんてなったんです」

 アオイは、瞬きを一つ、

「逃げられなかった」

 それだけだ、と言った。


 *


「――――なんでかしらね。その諦めた横顔が、諦めてるのに強い決意を秘めた瞳が、どうしても忘れられなくて……いつしか、」

「好きに、なってた」

 消えていった言葉を繋ぐと、千鶴は照れたように肩をすくめてみせた。

 ……そうだ。たとえ今は敵でも、ラグナロクの前は友国だったのだ。彼らもまた、穏やかな時間を過ごしていたのだ。

 ともすれば、ラグナロクは次代におきていたかもしれない。――――そうであったならば。

 こうして、殺し殺されることも、

「…………」

 クレナイと、会うことも。

「アタシは、あの方が好きだから、守護者に選ばれるために努力した。ミハシラとして未熟なあの方を支えられるように、守れるように。アタシにとってのラグナロクは、ただ国の栄光のためだけなんかじゃない。あの方の生を守る戦い、あの方の傍にいるための戦いなの」

 そう語る千鶴の目に、迷いは一片もない。

 ひたすらに、口にする目標だけを見据えている。

「貴方は、言われたから、彼の傍にいたの?」

「……え?」

「命令だから、役目だから、彼の役に立ちたかったの?」

 千鶴の声が、すうっと頭に、心にしみこんでいく。

 ――認められたかった。自分で自分の身くらい守れると。彼の背は守れずとも、肩を支えることはできると。

 命令? 恩義? 同情? それはそう、だけどそのどれも一つに過ぎない。一が集って作り上げた全は、

「……わたしは、友達が少ないから。だから、一度でも手を繋いだ人とは、仲良くなりたくて。離したく、なくて。それが、人でも神でも」

 だから、守護者に選ばれたとき、戸惑いもあったけれど、嬉しかった。きっかけをくれたのだと思った。

「だけど、何もしなくていいと言われて」

 裏切られた。そう思った。何も求められないことの苦しさを知った。

 それは反面、求めて、返されなかった苦しみだ。

 ……接するうち、彼の心が見えなくなった。

「……仲良く、なりたかった」

 そう、たった、それだけのこと。それだけなのに、二人の間にはどうしようもない差がある。友となるのに、遠すぎる。

 ならば。寄りかかるのではなく、共に立てれば、異なってくるのではないかと。

「……なるほどね」

 千鶴は小さく頷いて、まるでまだそこに真白の手があるかのように、鉄格子に優しく手を添えた。

「人は、孤独ではいられないの。それは、神と成った彼らも同じ。元は人なのだもの。だけど――だからこそ、かしら。これ以上孤独を感じないように、孤独であろうとするのよ」

 それは、誰より孤独を厭う心。

 失うことを知らなければ、哀しみもまた無いのだから。

「隣に立つだけが、友達じゃないわ。いいえ、人と人との関係に『こうあるべき枠』なんてない。歩んでいるその在り方に後から名を与えるものなのだから。……多分、無事でいて、『おかえり』って言うだけで……ハリボテじゃない彼自身を見ることが、彼の役に立つということなんじゃないかしら」

「ハリボテ……」

 それは、夏のミハシラの言。

 同じなのだ。神という重荷を背負った者同士。

「それでももっと歩み寄りたいと思うなら、彼の殻をぶち壊すしかないわ。孤独を――喪失を恐れる臆病者の殻を」

「でも、そんなの無理だ」

「やってもみないで、どうして分かるのよ」

「だって、今わたしはこうして敵地にいる。運良く脱出できたとしても、もう……見捨てられてるよ。死んだものとして扱われてるかもしれない。わたしは、あなたと違って、弱いから」

「……真白ちゃん」

 千鶴のしなやかな指が格子を強く揺らした。

「思いは、返るものなの。必死になればなった分、強い思いが返ってくる。貴方の今までは、決して無意味なんかじゃない。無為になんかならない」

 大丈夫よ、と途端に明るく笑って、千鶴は一つウインクしてみせた。

「さっさとここから出て、国に帰って、一発ぶん殴ってやりなさい。あんまりわたしを侮らないでくれ、ってね!」

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