Nicht vorhanden
如月ユキノリ
プロローグ
夜の秋風が高層ビル群の隙間をすり抜け、男の頬を優しく撫でる。寒くもなければ暑くもない、今の季節がその男、
「エフマル、こちらエフサン。現時点での異常は無し」
『エフサン、こちらエフマル。現時点で異常無しの件了解』
夏も冬もいい思い出が無い。
幼い頃に父親に連れられていった海で水母に刺され、幾日か高熱でうなされたのは夏。自由研究で必死に育てていたメダカも、母親がコンセントを抜いたままにしたせいで全滅してしまった。それも夏。
そして何より、そんな大好きだった両親が事故で亡くなったのは冬。飲酒運転の車が暴走し、記念日で旅行に行っていた両親を撥ねた。二人は即死。だが車を運転していた男は無期懲役で済んだ。事故からもう20年近い。もしかしたらその男はもう出所しているかもしれない。知ろうとも思わなかったし、知りたくもなかった。
「まったく、呑気なもんだぜ」
「表の顔はあくまで実業家ですからね、まぁ実業家って言ってもあまり大きな声じゃ言えませんけど」
高良は隣に居た
「お前、煙草辞めたんじゃなかったのか」
浦部もそんな高良の姿を見て、自らも煙草に火をつける。
「女にでも振られたのか、なんなら俺が相談に乗るぞ」
「そんなんじゃありませんよ、そもそもこんな職業で彼女なんてできませんって」
休みと言えば週に一度あるかないかという程度。その休みも監視対象の行動によって変わってしまう。勤務時間も酷いもので、日に20時間を超えることもしばしばだった。
それでいて給料は他の公務員と変わらない。常に危険と隣り合わせという割にはあまりにも待遇は良くなかった。
「職業のせいにするなよ、お前は元が問題なんだからな」
浦部は煙草を吸うのが早い。ひとつふたつ会話をする間に12mmの煙草はほとんど灰に変わっていた。
「そんなの浦部さんも同じじゃないですか、奥さんに逃げられたんだから」
「言うようになったじゃねぇか」
浦部は笑いながら高良の背中をバンと叩いた。
『各員、こちらエフマル。対象が動いた』
二人の緊張感は高まる。さっきまでの様子が嘘のように、自動販売機の影に隠れ、そして気配を殺す。
『対象は外苑西通りを広尾橋から天現寺橋交差点方向。エフロク、エフナナが監視に入る。各員にあっては秘匿追尾に移行されたい』
「エフニ、エフサン了解」
その男は黒のスーツを着ていて、見た目には良いサラリーマンという雰囲気だった。だが二人はその男が何者で、裏で何をしているのかわかっている。
「
「ケープと言えば泣く子も黙る通販会社ですからね、あの年齢でとんでもないですよ。聞きました?年収」
「そりゃ聞いたよ、俺たちの何十倍だ」
株式会社ケープと言えば、今若い女性の間では使ったことがない人の方が少ないと言われるほどの通販会社だった。服から小物、可愛いものから綺麗なものまで、若い女性が好きそうなものは大抵揃う。それがその会社の売りであり、岬は会社を興してからたった8年でここまで大きくした言わば青年実業家という人間だった。
販売するものはほとんどが自社製品。海外に生産拠点をいくつも持ち、その工場で働く工員の就業状況の改善にも力を入れている。テレビの経済番組でも引っ張りだこの人間だ。
「人と人のつながりってのは恐ろしいもんだよな、どこで誰が誰と繋がってるかわかったもんじゃねぇ」
岬竜二、そして彼の経営する株式会社ケープに疑いがかかったのは数か月前のことだった。とあるテロ集団に資金面での援助をしている可能性が浮上したのだ。よく調べてみれば、海外の生産拠点経由でも同じようなことをしていて、国内の暴力団との繋がりも予想できた。
「ハムも奴を挙げたかったらしいが、残念ながら俺達の方が唾をつけたのが早かったな」
ハムは警視庁公安部のことを差す隠語であったが、警察でもなければ防衛省の情報本部でもない彼らにとって、どこかの機嫌を窺って捜査を行う必要はまるでなかったのだ。
「ゼロも動いているらしい。さっきからゼロの乗用車が一台いる。一応本部に連絡しておけ」
「了解」
高良は浦部が目で差した方向を横目で見た。確かに黒い乗用車が路肩にハザードランプを点けて止まっている。ガラスはスモークが貼られ、中が暗いためにどんな人間が乗っているかまではわからなかった。
「ったく、だから公安は嫌いなんだよ。そんな車乗ってっから性格まで暗くなるんじゃねぇのか」
「エフマル、こちらエフサン。対象監視行動にある乗用車を発見。ナンバーから見ておそらくゼロだと思われる。送れ」
『エフサン、こちらエフマル了解。こちらでも確認した』
高良は警視庁公安部が使用している車のナンバーをほとんど覚えている。高良だけではない。「F」の捜査員は全員がそれを記憶していた。
「ゼロが食いついてきたってことは一筋縄じゃいかないな」
ゼロは警視庁公安部の非合法組織であり、公安警察という組織の裏の顔だった。「秘密」を扱う組織としては「F」よりも歴史は長い。
『各員へ、こちらエフマル。対象は外苑西通り天現寺橋交差点を左折、明治通りを光林寺方向。尚、ゼロが追尾行動にある。十分に注意せよ』
岬は車には乗らず、徒歩で明治通りを南麻布寄りで歩いている。丁度各国の大使館が集まっているエリアだった。
「俺達が大使館にびびってると思ったら大間違いだ、ゼロは気にしてるかもしれんがな」
Fは公安と違い、どこかの省庁に属しているわけではない。外国の大使館としてみれば怪しい乗用車が付近をうろついていれば真っ先に公安警察を疑うのだ。ゼロにしてみても例外ではない。
『各員へ、こちらエフマル。車両を回す。所定の行動に移れ』
エフマル。つまりFの本部が言った所定の行動とは、岬を車両に乗せ拉致することであった。
存在自体が秘匿事項のFにとって、それは特別なことではなく、高良自身もこれまでに幾度か、その作戦をこなしてきていた。
実は、ゼロが動き出したというのは今わかったことではなかった。だからセロよりも早く、岬を確保することが必要になったということだ。
『車両班へ、対象は明治通りを光林寺方向変わらず』
『車両班了解、現在広尾五丁目交差点通過、接触まであと二分』
その時だった。
ドンという腹に響く強烈な振動を感じ、高良は自分の眼を疑った。
「あれは…!」
「くそっ…どうなってやがる…!」
二人は100メートルと離れていない場所で小さな爆発を目にした。そしてその爆発は甘ったるい匂いを漂わせながら、黒い煙を吐き出した。
『各員へ、状況を知らせ!』
『エフマル!こちらエフロク、対象が爆発に巻き込まれた、生死は不明!繰り返す!対象が爆発に巻き込まれ生死不明!』
「くそっ…!高良着いてこい!」
浦部はゼロが見ていることも忘れ、岬の歩いていた場所へ走る。高良もその後に続いた。
夜と言ってもまだ8時過ぎ、ただでさえ明治通りは人の往来が多く、車も多い。混乱状態となった周辺は、携帯で写真を撮る者、そして恐怖で泣きわめく者。まさに阿鼻叫喚だった。
血だらけのまま歩いてくる若い女性にぶつかりそうになり、高良は身をひねって避けた。足元には誰のものかわからない足首が転がり、爆発の場所に近づくにつれて甘い香りも強くなっていった。
この甘い香りはセムテックス爆薬だと高良は一瞬で気づいた。そしてその爆発力をあの距離で受ければ、彼がもうこの世に存在しないだろうというのも感じていた。
『各員へ、直ちに現場から退避せよ!繰り返す!直ちに現場から退避せよ!』
「くそ…!」
浦部は立ち止まり拳を握りしめた。
岬が歩いていた場所、そして爆発の起きたカフェの一階は粉々に吹き飛んでいる。周りには意識の無い人間や、人間であった何かが散乱している。
すこし遠くから警察と消防のサイレンが聞こえた。
存在が秘匿事項のFにとって、警察、消防との接触はできるだけ避けなければいけない。時に彼らが敵になることもあるからだ。
『エフニ、エフサン、こちらエフマル!車両班が到着する。現場から退避せよ!』
「エフニ、エフサン了解。車両班到着とともに現場から退避する。対象については失尾!繰り返す、対象にあっては失尾…!」
高良はあえて「失尾」と言った。まだ岬が死亡したとは言い切れなかったからだ。だが、生存の可能性は極めて低い。拳を握りしめた浦部の背中もそう言っていた。
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