第2話(1)「ずっと起きたまま夢をみていた」

 

 これといって有名な観光名所も、特産物もない、人口は十万人に満たない、小さな地方都市。そんな三津由園市の名前が全国に知れ渡ったのは、戦後しばらくして活発化した葡萄の栽培がきっかけだった。

 一九五十年代末。三津由園の葡萄農家が独自に品種改良した紫麓しろくが誕生。紫色の山麓を意味するこの葡萄は、酸味を抑えた甘さと粒の大きさから県内外で好評を博した。

 この紫麓の成功によって市内の葡萄畑は急速に拡大。日照と水捌けがよい、葡萄栽培に適した山寄りの北東部は、斜面も平地も次々と葡萄畑へと変わった。葡萄産業は瞬く間に三津由園の基幹産業となり、現在も市のホームページを閲覧すると、トップページには丸みのある明朝体の「三津由園」の文字の横に、葡萄のイラストが添えられている。

 とはいえ古来より葡萄を育て、共に生きてきたことで、その紫色の果実が土地の代名詞のようになっている市町村は、すでに日本全国に多々存在していた。三津由園がそれら古参産地の間に割って入り、「葡萄といえば三津由園」というイメージを獲得するのは容易ではなかった。

 決め手になったのは並行して行われていたワインの醸造だった。七十年代以降に散発的に勃発したワインブームによって「三津由園ワイン」は新たな形の地酒として一躍脚光を浴び、やがてブランド化していった。このワインの好評に比例するように、葡萄産地としての知名度も増していった。

 そしてこれに続くもう一つの波が、「そのドリ」のテレビコマーシャルで三津由園という地名が主に近隣の都県を中心に、全国のお茶の間に流れていた時代である。

 当時国内ではまだ珍しかった大型遊園地『みつゆそのドリームランド』――通称「そのドリ」は、もともと葡萄園の経営者がワイナリーやスイーツなど、自家製の食料品を直売する施設の横に併設した庭園だった。小型ながら園内に設置されていた観覧車やメリーゴーラウンド、さらには雇われの楽団や大道芸人が訪れた観光客を楽しませており、当初はグレープパークと呼ばれていた。

 六十年代末、その葡萄園経営者が県内に三津由園を跨ぐ新路線の敷設工事中だった鉄道会社を誘致、共同経営する形で新会社を設立し、グレープパークを市の南部へと移設。敷地面積とアトラクションを大幅に拡充したうえで『みつゆそのドリームランド』に名前を改め新装開店。オープンするやいなや大人気を博し、最盛期には年間百五十万人以上の入場者数を記録した。

 葡萄とそのドリ。この二つの大波によって三津由園は活況に沸いた。休日には県外から訪れた自動車で市内の道路が渋滞。周囲の宿泊施設や飲食店もその恩恵を受け、どこもかしこも満員御礼。市はかつてない富と人で溢れた。

 とはいえ波は押し寄せた後に引き退くもの。それが巨大なものであれば、同時に陸地を抉り取って行きすらする。西暦が変わる頃にはそのドリを報じる言葉は来場客減による経営難を伝える記事へと変わった。三津由園ワインのブランドは今もなお健在ではあるが、最盛期には国産ワイン消費量の十パーセント近くに及んでいたシェアはその五分の一以下に落ち込んでおり、黎明期にはフランスから専門家を招聘して教えを請いていた葡萄農家は、現在は南米や東南アジアからやってきた外国人労働者に仕事を教えている。地元の若者は低賃金重労働の農業に従事したがらず、市では慢性的な人出不足が叫ばれている。

 九十年代も終わりに差し掛かると、持続的な経済成長を前提にした都市計画の破綻が決定的となり、好景気時に建設された公共施設やインフラの維持費などが三津由園市の財政を圧迫し始めていた。大幅な市民増を見込んで建てられた学校。渋滞を解消するための広い道路。葡萄農業や観光産業のために、役所に設置された様々な課。配属された職員。それらはもはや余剰物でしかなかった。

 そんな折、平成十一年に政府が施行した特別法案による影響で、三津由園にも周囲の町村から合併の話が持ち掛けられた。全国の市町村数が統廃合により十年間で半減することになる――俗に言う「平成の大合併」である。政府の掲げていた名目は自治体の広域化による行政基盤の強化と地方分権の推進だったが、その実態は膨れ上がった地方財政のコスト削減が主要な目的であり、そして各自治体の狙いは地方交付税減額の優遇措置と、特別予算の奪い合いだった。

 それは三津由園にとって衰え爛れた贅肉を削ぎ落とす、丁度いい機会であるかのように思えた。しかし三津由園の市議会はその提案を固辞した。反対票を投じたのは主に市の黄金時代を知る、古株の議員たちだった。

 三津由園市が独立王国のプライドを守った数ヶ月後、このまま人口が減少し続けると半世紀後には市の人口は現在の半分以下になる、という試算が地元新聞の紙面に踊った。記事が掲載された数日後、ある市議は講演会でその新聞を掲げながら「この十年で、三津由園市で最も成長した産業は奴隷産業と性産業だ」と皮肉たっぷりに語った。

 この発言は市議にあるまじき、極めて差別的で不謹慎なものだと抗議を受け、やがて辞職騒ぎへと発展した。とはいえ市の産業が今や外国人労働者に支えられていること、三津由園駅前のアーケード街が活気を失い、シャッターを下ろしたテナントが次々とピンクのネオンに侵食されていることはまぎれもない事実だった。騒動について地元テレビ局からインタビューを受けた果物店の老主人はカメラの前で言った。「そもそもさ、おれがジャリの頃はこんなアーケードはなかったし、この店もこんな風に葡萄ばっか何種類も並べちゃいなかったんだよな。三津由園は葡萄と遊園地の町でもなんでもなかった。結局さ、生きるってことは変わり続けるってことなんだよなあ、人も町もさ」。


(1)

 俺がテアトル三津由園のバイト君だった期間、最も多くの言葉を交わした人間は久郎で間違いないが、二番目はおそらく常連客の一人、ユマちゃんだったと思う。

 茶焦げた錦糸卵みたいな髪。冬だというのに胸元が開いたシャツに短いスカート。そのへんのホームセンターのワゴンで山積みになってそうな安っぽいサンダルと、それに不釣合いな高級ブランドのハンドバック。その中からまた別の高級ブランドのポーチ。いつも笑顔を絶やさず愛想がよく口数が多いが語彙は少なく舌足らず。「あ、これはそういう人では?」。俺はなんとなく察した。人を外見や雰囲気で決めつけるのはよくないぞ。しかし実際その通りだった。ユマちゃんの職場は三津由園駅の南口から徒歩十分の歓楽街の一角の、東欧某国の某有名都市名をほんのりパクったような名前の店で、初対面時にやたらカラフルでテカテカした名刺をもらった。

 ユマちゃんはテアトル三津由園を取り囲む葡萄畑に隣接した、大した交通量もないのに無駄に広い国道沿いのマンション……いや団地? 微妙なラインだ。まあどっちでもいいや。六階建ての集合住宅に住んでいて、必ずしも映画を見るわけでもなくふらりとやってきて、ロビーの硬いソファーでスマホをいじっていたり、他の常連客と会話をしたり、ソロンズさんと戯れたりしてよく長居をしていた。

「ああいうのに比べるとユマちゃんはメイク控えめですよね。お仕事のわりに」

 化粧と髪型と服装が肥満気味の寸胴体型とコラボしておしゃれカフェのパンケーキみたいになっている女性とユマちゃんがロビーで談笑している様子を見ながら、まだバイトを始めて二週間で敬語が抜け切っていない俺がそう言うと、久郎は「キャバ嬢と風俗嬢の違いがわかってねえな新人」とせせら笑った。

「風俗嬢は服装に冠しては個人差があるが、仕事柄、髪の毛はキャバ嬢のように巻いたり盛ったりはしないし、メイクも厚くない。ネイルもあまりしない。それとポイントは匂いだな。覚えとけ童貞」

 なるほど久郎先輩の言う通り同じ金色でも天然もののウミメシ先生とは違う、人工的なくすんだ色の髪が鼻先をかすめるたび、独特な匂いがした。薔薇と石鹸と消毒液。それがユマちゃんの匂いだった

「コーちゃんさー、お墓で寝ぇてたところをスカウトされたってほんとー?」

 そのユマちゃんがある日、酔っ払いが和式便器に吐きかけたゲロの後始末を終え、男子便所から出てきた俺に訊いてきた。

「あーそれ、誰から訊いたんすか」

 曖昧な笑みを浮かべながら質問を質問で返す。いつもよりメイクがやや濃い目で、珍しくネイルに色とビーズなどが付着しているのを見て、あれ今日はお仕事がなかったんだろうか、どこかで遊んできた帰りかな、と思った。

「アンナちゃんにきぃーた」

 アンナ・チャン? 一瞬どこの中国人アルかと思ったが、俺をこの映画館に連れてきた人物の下の名前だ。ユマちゃんはウミメシ先生と知り合いのようだ。そういや歳同じくらいかこの二人。にしても意外と口の軽いウミメシ先生。教師なのに生徒のプライベートをペラペラと他人に、まったくけしからんですね。俺内人間評価を下方修正しておくアルよ。

「でぇー、それほんとなの?」

「概ね事実だと申して差し支えありません」

「ほんとなぁんだー。なんでそんなとぉこで寝てたの?」

 テアトル三津由園のバイト君に転職して二ヶ月、ついに出たよこの質問。俺はマスカラで強化された瞳から視線を逸らしながら、言った。

「天体観測が趣味なんす。その墓地は山の中にあってですね。街の光が届かないから、星がよく見えるんですよ」

 カウンター奥の壁に寄りかかり、スマホをいじっていた久郎が嘲るように小さく鼻を鳴らした。もう少しマシな嘘は出てこねえのかという顔だ。

「へぇ~そうなんだぁ~」

 しかしユマちゃんは人の言葉を疑うことを知らない子だった。性と若さを切り売りできない年齢になったら生きていけるのか心配になってしまう。

「じゃあさ、じゃあさ、ユーレイとか出たぁ?」

 ユマちゃんは劇場の入り口に置かれた、四足の立て看板に目をやった。表には古いホラー映画のポスターが、裏にはグラフィティっぽいフォントで「FEAR FAIR」と書かれたポスターが貼られている。これと同じデザインのA4のフライヤーがカウンターにも置いてある。

 今週からテアトル三津由園では冬の恐怖強化月間とかで毎日一本、ホラー映画を上映していた。ドイツ語で心霊現象を意味するタイトルを冠された有名シリーズの第三作目にあたるその映画を、久郎は「ザ・低俗」の一言で切り捨てていたが、日本ではわりと最近まで円盤になってなかった作品ということで、常連客の一人からリクエストがあったとかなんとか。

「いや出ませんね。虫と老人しか出ませんでしたよ」

「えー、つぅまんなーい。コーちゃんに霊感がないんじゃないだけじゃないの?」

 うーんそれはたぶん当たっている。いわゆる霊感には二通りあって、一つが文字通りに霊的なものを感じ取る力……モノホンの第六感≪シックスセンス≫だとしたら、もう一つはなんでもない現象をゴースティックに解釈、もしくは錯覚する認識の力だ。そしてそのどちらも俺は持ってない。

「そうなんですよねー。俺鈍いんすよハハハ」

 夜の遊歩者だった俺は夜の墓場に瀰漫する気配……月明かりの映し出す枝葉の陰が、風で雨樋が軋む音が、「そうでないもの」だとわかってしまう。枯れ尾花を枯れ尾花ではない他の何かに見誤る力に欠ける、面白味のない人間なのだ。

 久郎がスマホをズボンのポケットに入れて、立ち上がった。両手を組んで身体を伸ばしながら、映写室へと消える。これは上映開始が近いことを意味している。その姿を見て、ユマちゃんも劇場に入って行く。

 上映中を示すランプが点灯する。しばらくして映写室から出てきた久郎は、欠伸をしながらドリンクサーバーのボタンを押した。紙コップに黒い液体が注がれて、湯気が立ち上る。

 久郎はコーヒーを啜りながら、「光が届かないくらい山の中ってことは、もしかして城山教会の近くのか。その墓地」と呟いた。

 この手の、俺のプライベートに関する話題を久郎が振ってくるのは初めてだった。一瞬驚かされたが、興味はすぐに質問の内容へと移った。

 教会なんてあったっけな?

 あの墓地とは一ヶ月ほどの付き合いだったが、辿り着いたのはほとんど偶然……山の中で寝ようとしたら発見しただけに過ぎず、周囲を散策したこともなく、視界が悪い夜中に大半の時間を過ごしている。周囲に何があるとかさっぱりわからん。

「斎場ならあったけど」

「じゃ、そうだ。その斎場に向かう一本道があるだろう。長い坂道。その道に入るちょっと手前にアパートがあって、城山教会はその裏手だ。墓地に埋葬されてるのは大体そこの信者か親族だ」

「そいやキリストチックな十字碑がニョキニョキと」

「生えてただろ。あのへんは外国から来た労働者や、移民の二世三世が多く住んでるんだ。だから教会の信者の国籍も多種多様で……」

 久郎の話を聞きながら、なるほどと納得する。墓碑の和洋折衷の謎が解けた。おそらく家族間で信仰が異なり、けれど死んだら同じ墓に入りたい……となると、ああいった形になったりするのだろう。

 そういえば出会ってから次の展開がスピーディだっただけにあまり気にしていなかったが、もしかしてあの墓地にはジジイの親族、もしくは友人が埋葬されているのだろうか。移民の二世三世が多いということは、ウミメシ先生も何か関係があるのかもしれない。

 いろんな疑問が頭に浮かぶ。。

 カウンターの端に転がっていたポップコーンのかけらが目に入った。

 それを拾って、口に入れる。

 うーんゲロマズい。でもこれでいい。

 結局久郎の話の内容もあくまでその教会の周辺地域の歴史的背景に終始しており、俺やジジイやウミメシ先生といった映画館の人間関係の方面には発展しないまま、やがて会話は途切れた。

 三杯目のコーヒーを手にした久郎が再び映写室に入ってゆく。映画が終わり、観客がまばらに劇場から出てくる。ユマちゃんも出てくる。どんなもんでしたかと訊ねると、「すげぇーおもしろかった」と言った。ユマちゃんの映画評は毎回これだ。

「主役の女の子がかわいかった」

「ああ、あの子ね」

 立て看板の表側のポスターの、ビルを見上げる金髪の女の子。久郎によると「あの女の子撮影の終盤に病気で死んだ。享年十二歳」とのことだが、ユマちゃんには言わないでおこう。

 暗闇に映し出される、フィルムに焼き付けられた少女の痕跡。銀幕の上で踊る彼女はまさしく幽霊なのかもしれない。

「あーそうそぅ。そーだ。ユーレイといえばさぁ、これこないだ聞いた話なんだけどぉ」

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