ひなげしホイール

杉田うに

第1話(1)「皆ただ静かにそこにいる」




「観覧車って、英語でなんていうか知ってる?」

 腰まで伸びた、長く艶のある黒髪の毛先を小指にくるくると巻きつけながら、ヒナはそんなことを言った。

 唐突で、脈絡がなく、しかしひとたび放たれると頭の片隅に絡みつき、ほどけない蔓。そんな言葉をこいつはたくさん持っている。

 俺は遊園地の定番アトラクションの数々を思い浮かべる。

 メリーゴーラウンド。コーヒーカップ。ゴーカート。ジェットコースターはいわゆる和製英語で、正しくはローラーコースターと呼ぶことも知っている。

 どれも訳すまでもなく英語だ。そもそも観覧車の他に日本語で呼ばれてるアトラクションって、なんかあったっけ。メリーゴーランドは回転木馬ではあるが、テニスやゴルフを庭球や孔球と呼ぶ奴には会ったことがない。

 そうそうお化け屋敷があった。これはおそらくゴーストハウスとかホラーハウスとかスリラーハウスとかそんな感じなのではないだろうか。

 しかし観覧車に関してはそんな予想すら思い浮かばない……そもそも観覧って英語でなんだっけ?

 わかりそうでわからん。大脳皮質と頭蓋骨の隙間を泳ぐ小骨。モヤモヤする。ヒナは俺を見てニヤニヤしている。

 コートのポケットに手を入れる。焼肉屋でもらったミントガムが二枚、駅前でもらったサラ金の広告入りのティッシュ、そしてあっちこっち擦過傷が目立つ、古い機種の二つ折りの携帯電話が入っている。

 取り出した携帯電話を開いて、インターネットのブラウザを起動するボタンを押したのと同時にヒナの手が伸びてきて、手刀で携帯電話が叩き落とされる。

「ググるな」

 尖らせた唇から発せられた低い声が、持ち上げた額に突き刺さった。

 俺はまた一つ新しい傷の増えた携帯電話を拾って、再びコートのポケットにしまった。

「じゃ、なんなんだよ」

「教えない!」

 イラっとした感情に呼応するように、強風で床が揺れた。観覧車のゴンドラが軋む不協和音と、枯葉が舞い上がる乾いた音が重なる。秋の錆びる音だ。

 結露で曇った窓ガラスに人差し指で触れて、円を描いて、そのまま渦を巻くようにして塗り潰す。指先の湿りをコートの裾で拭う。直径十センチほどの穴からは満月が見えた。

「……ガム食う?」

 思いついて、ガムをポケットから取り出してヒナに差し出した。

「わーい食うぞ食うぞ……ってなんだ、ミント味かよ」しかしヒナは一旦は伸ばしかけた手を引っ込めた。「ガムは好きだがミント味はきらいだ。他にないの? ベリーっぽいのとかさ」

「ねえよ」

 贈賄失敗。俺は嘆息して、門前払いに遭った賄賂をポケットに戻さず、包みを解いて、自分の口に放り込んだ。甘辛い。実は俺もミント味はあまり好きじゃない。

 ひと噛みごとにツンとした香りが咥内から鼻腔へと競り上がってきて、焦げ緑色の空気が頭の中に充満してゆく。そういえばミントは口臭予防の他に眠気覚ましの効果があるんだっけ。眠くなってきた。

 矛盾した思考が交錯し、全身を浮遊感が覆い始める。瞼は開いたまま眼球の裏側が明滅する。意識と身体が分離する感覚。

 窓枠に肘を付くヒナの横顔、ごわごわした寝袋の感触、断続的に吹く強い風の音、結局観覧車って英語でなんなんだ。世界は穴の空いたゴムボールみたいに裏返り、廻って廻って弾けて飛んだ。


 ■


 径何十尺の円を描いて、周囲に鉄の格子を嵌めた箱を幾何となく下げる。

 運命の玩弄児はわれ先にとこの箱に這入る。

 円は廻り出す。この箱に居るものが青空へ近く昇る時、あの箱に居るものは、凡てを吸い尽くす大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。

「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。

 運命の車で降りるものが、昇るものに出会うと自然に機嫌がよくなる。


                      ――夏目漱石「虞美人草」



(1)

 戦隊ヒーローのリーダーだろうか。真っ赤なマスクと全身タイツで身を包み、誇らしげにポーズを決める、十センチにも満たないビニール製の人形が墓前に転がっていた。

 俺はその小さな守護者を拾い上げると、再び倒れないように、墓石の土台の淵に寄りかけるようにして立たせ、ついでにブルゾンのポケットから飴を取り出して横に置いた。ミルキーはママの味。

 おそらくこの墓には男の子が埋葬されているのだろう。不幸にも幼い命を散らし、永く静かな眠りについているのだろう。マジ羨ましい。俺もこんな場所で誰にも邪魔されずにゆっくり眠りたい。冷たく固い土に包まれて、深く深く深く地の底まで沈んで、骨の芯まで溶けて分解されてしまいたい。極度の睡魔は脳味噌を腐らせゴミクズな思考を醗酵させる。その結果がこの現状だ。 俺は今、墓地でリュックを枕に、雲の隙間から顔を出す三日月を見ている。

 この数ヶ月のあいだ、俺は熟し過ぎて果実がドロドロになったメロンみたいな頭を抱えながら、夜を彷徨っていた。

 理由は簡単だ。眠る場所がないのだ。

家はある。築十五年のマンションの3LDK。コンビニは目の前にあるし駅まで徒歩五分かからない。通っている高校にもチャリで五分。わりといい物件だと思う。もちろんゴミ屋敷でもないし近所に騒音を撒き散らす工事もおばさんもないしアレルギーの対象になるペットもない。家族仲は良好だ。風水的にも問題ない。たぶん霊障もない。俺の部屋は日当たりのいい八畳間で、暖かい布団と柔らかい枕を備えたベッドがある。あるのだが、その部屋に俺の眠れる場所はないのだった。これには至極単純な、しかし他人に相談するのは憚られる、少々めんどうくさい事情が存在する。

 午後の十時過ぎくらいに自宅を抜け出して、ディスカウントショップで購入した安物の寝袋が入ったリュックを背負い、「条件」に該当する宿を探す。安眠の地を求めてチャリで市内を走り回る。

 しかし「条件」に該当する場所は容易には見つからない。仮に見つかっても、橋の下や公園の一角、街外れに建つ給水塔や送電塔など、風雨を凌げるうえに静かで人気がない、そんな場所は大抵の場合ロジョーズ≪路上生活者≫、もしくはヤンキーとの遭遇率が高いのだった。なので当初は日替わりで人気のない神社を選んで巡回していたのだが、しばらくすると神主コミュニティで噂でも立ったのかポリスが現れるようになった。そう、高校生が野宿するに当たって一番の敵はこいつだ。

 補導は困る。結局、最もお世話になった就寝場所は山林の中だった。つらい。雨が降ればさらにつらい。つらいのでまともな宿場を探そうとするわけだが、まともであればあるほど短期間で何かしらの闖入者がやってきて安眠を妨害される。その繰り返しだった。

 グルグルグルグルグルグルグル。

 そんな放浪の日々の末に俺は風雨を凌げて、ポリスがこない、ロジョーズもヤンキーもいない、セコムされない、近隣住民に通報されない、静かに眠れる場所をついに発見した。

 それがこの墓地だ。

 三津由園市は東西南北四方が山に囲まれている、いわゆる盆地で、車でちょっと走ればすぐ山にぶつかる。特に北部に位置する市街地は山に近い。

山際の国道沿いに建つ老人ホームと保育園の狭間の細い横道に入り、山に向かってゆるやかな斜面を歩いてゆく。坂が多い以外はありきたりな住宅街が、二百メートルも直進すると建物が減り始め、やがて視界に入る景色が木と草ばかりになり、道の斜度がきつくなり、もう引き帰そうかなと思った頃に「ロイヤルシティホール・ノザキ」が現われる。片仮名でオブラートに包んでいるが要は斎場……火葬場兼葬儀場だ。

 その高貴で都会的なノザキ家の駐車場の横の、砂利と雑草が混じった小道をさらに五、六分ほど歩いた先、棚田のような形で斜面を切り崩した三十平方メートルほどの空間に、その墓地はあった。

 某大手検索サイトの地図機能にも表示されない、周囲を山林に囲まれた僻地。ポツポツと並ぶ十字碑の姿から、遠目にも洋式の墓地だとわかる。しかし近寄ってみると碑面に刻まれている文字は日本語が多い。墓前には香炉が設置してある。なかには見慣れた長方形の墓石も数基あって……と思えば十字架とアルファベットが刻んであったりする。どっちやねん。

 まあ死人の住宅センスはどうでもいい。重要なのは生きている人間の住み心地である。墓地のすみっこには用途のわからない小さいプレハブが建っており、ドアには鍵がかかっていて中に入ることはできないが、畳を2×2で四枚並べた程度の広さの軒下があり、そこで風雨を凌ぐことができた。水道もある。到りつくせりだ。加えて何より人気がなく、夜は自分以外死人しかいない。ついに辿り着いた安眠の地。

 怖い、不気味、罰当たり。そんな気持ちもなかったわけではない。しかし坊主だって餓えれば墓前に供えられた大福に手を伸ばすだろう。それと同じだ。俺は睡眠に飢えていた。だから寝ます。容赦なく寝ますよ。最初はちょっとビビってたけどすぐ慣れた。むしろ数夜を過ごしてもこれといって怪奇で心霊な現象も発生しないので、オバケなんてないさ、オバケなんてウソさと確信を深めることとなった。一泊の礼として飴やガムを墓前に供えたり、汚れた墓石を拭き、雑草をむしったりと、荒れ放題だった墓地内を軽く清掃することで、むしろ俺いいことしているよねという尊大な気分でいたりした。

 しかし愉快で快適な墓地ライフの終焉は思いのほか早かった。墓地で眠り始めて三週間ほど経った頃に、気付いた。

 俺が寝てる間に誰か来てね?

 その夜、俺は駅前の市街地で羆に追いかけられる夢を見ていた。必死にチャリのペダルを踏んで逃げる俺。しかし羆はどこまでも追尾してきて振り切れない。俺はあるマンションの前でチャリを乗り捨てると、ベランダと排水パイプを伝って壁をよじ登った。そうしてマンションの五階部分まで辿り着いてこれで助かった……と思ったら羆が蜘蛛みたいに壁に張り付いて四肢を動かして登ってきたのを見て、背筋を凍らせた冷気が勢い余って頭まで届いてピンときた。もしかしてこれ夢なんじゃね? どう考えても夢だな。起きろ起きろ起きろ。おーーきーーろーー! 

 視界がいつもの墓地の風景に切り替わる。あービビった。明晰夢の分際で調子に乗りやがって。額の冷や汗を拭おうと寝袋から右腕を出し、仰向けから半身になった瞬間、覚醒したばかりで靄のかかった意識がその影を捉えた。

 二十メートルほど離れた場所で、大きな影がうごめいていた。それは先ほどまで俺が逃げ回っていた羆のような。おいおいまだ夢の中なのかよ。しかし周囲の風景は見慣れたいつもの夜の墓地である。頭上には俺がプレハブの雨樋に吊るした、凛々しい顔立ちと白いマントがチャーミングな照彦君がぶら下がっている。んん? 寝起きで胡乱な思考がまとまる前に、影は消えてしまった。

 その後も巨影はしばしば深夜の墓地に出現し、しばらくモワモワフワフワ漂い、そして姿を消した。ついに幽霊デターとビビるところなのかもしれないが、数ヶ月に及ぶ放浪生活で培った勘と経験があの気配は人間のものだという確信を俺に与えていた。

 闖入者は小屋の軒下で寝ている俺の存在に気付いていないのだろうか。暗がりでは寝袋で転がっている俺はゴミ袋か何かにしか見えないのかもしれない。それとも気付いていて無視しているのだろうか。通報されてポリスがやって来た場合の言い訳を用意していたが、結局そういう展開にはならなかった。

 影の出現から二週間ほどが経ち、あいつは俺の存在に気付いてはいるが、干渉するつもりも危害を加える意図もないらしい、ということをなんとなく察知した。正直そこに存在すること自体がけっこう困るのだが、一人で、毎晩ではなく、一時間に満たない程度なら、我慢できないこともない。

 とはいえ万が一芋虫状態のところを襲われたらイチコロだ。敵意がないのならば尚更のこと正体を確認しておくべきではないだろうか。そう思い、その夜は横にならずに小屋の軒下で胡坐を組んで待ち構えていたら、向こうから話しかけてきた。お互い機会を窺っていたというわけだ。

「こんなところで何をしているんだ、お前は?」

 剥げ上がり気味の白髪に、岩石のような巨躯。色の入った眼鏡。暗がりでジャケットの色はよくわからないが、全身に纏った張り詰めた空気は「監督」を想起させた。映画でもサッカーでも土木施工管理技士でもなんでもいい。

「おじさんこそ何してんすかこんなところで」

 質問を質問で返す。正直おじさんよりはジジイという印象だったが、老人が気分を損なわないよう気遣う程度に空気を読む力はあっだ。年齢は七十前後といった感じだが、身長は百九十近い。殴り合いになったら勝てる気がしない。

「呼吸を聴いているんだ」

「コキュー?」

「夜たちの声を聴いている」

 意味わかんねーこと言い出した。どうやらガイキチのようだ。こんな深夜に山の中の墓地に遊びに来るくらいだからそりゃまあそうか。他人のこと言えないけどよ。

「最近毎晩ここで寝ているようだが、なんなんだ、帰る家がないのか? 泊めてもらう友達がいないのか? 金がないのか?」

「家はあるし、友達や金がないわけでもないですけど、それ全部ダメなんですよね」

「なぜ」

「人が多い場所では眠れないからです」

 嘘のない、正直な、しかしそれゆえに不誠実な、受話者に自分の言葉が正しく理解されることを期待していない回答だった。深夜の墓場に現われた怪しいジジイ。重要な真実とは時としてそういうどうでもいい、親兄弟でも親友でも恋人でも恩師でもない、自分の人生と全くの無関係な人物にこそ話せるものだ。遠い異国の教会の懺悔室。古井戸の底に棲む蛙。しかしジジイの反応は予想外のものだった。

「なんだ、お前も彼らと同じなのか」

「はあ?」

「一般的に、彼らは死んだ場所や、遺骸がある場所に現れると思われている。しかしそういったところに必ずしも彼らはいない。人が多すぎては駄目なんだ」

なにいってんだこいつ。しかし相手はガイキチなので、こちらが意図を理解しようとしまいと構わずベラベラ一方的に喋り始める。俺は目の前のジジイに接触を試みたことを後悔し始める。もうここは駄目ですな。明日からどこで寝よう。

「にぎやかすぎては駄目なんだ。そんな場所では、彼らは安らかに眠れない。だからみんなそれそれ違うところに行っている。深海魚のように浅瀬を避けて、深い、深いところに。その点、ここはいい。皆ただ静かにそこにいる」

 俺はハア、ハアと適当に相槌を打ちながらキチガイの言葉を右の耳から左の耳へ、東から西へと聞き流す。ああ眠い眠い眠い。ヒヒ~ン。

「その制服は」ジジイは俺が皺にならないよう雑に畳んでリュックの上に置いておいたブレザーに視線をやった。「南高だな?」

「あーはい。そっすね」

 このへんでは俺の通っている県立三津由園南高校を南高と略して呼ぶ。老若男女みんなそう呼ぶ。東高と西高もあるが北だけはない。その北部とは今まさに俺がジジイに絡まれているこの場所だ。市民にとって「北」は三津由園駅の以北を指すが、それはほぼ山間部に等しい。

「名前は?」

「鏡公彦」

 もちろん偽名。携帯電話を取り出し、いじくり出すジジイ。俺が保有しているガラパゴス二つ折りケータイよりさらに古い、ストレートタイプの携帯電話だ。年寄りは物持ちがいいですね。

 電話をかけるジジイ。通話相手の声は聞こえないのでいまいち要領が掴めなかったが、俺がさっきジジイに教えた偽名が告げられていたことだけは分かった。通話を終えたジジイは携帯電話をしまって、俺に言った。

「明日、夕方五時に学校の裏門に行け」

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