怪人二人

井川省みる

第1話

 小さかった頃、私は大きくなっても今みたいに家族がいて、友達がいて、普通に進学して普通に就職して普通に結婚して、普通に子供が出来て、普通に幸せな生活を贈るものだとぼんやりと思っていた。

 そういうものだと、思い込んでいた。


 ** **


 頭が痛い。じくじくするような鈍い痛みを感じる。

「う……ぅぅ……ん……」

 重い瞼を開ける。まだ頭がクラクラする。貧血を経験したことは無いが、もしかしたらこの感触がそうなのだろうか。

 視界に入ったのは見慣れない薄汚い天井だった。

 羽織られていた毛布を除け、胴体を起こす。体が軋むかのような痛みと気怠さと重さを感じた。何年も動かしていない玩具を久々に動かしてみるのって、玩具にしてみればこういう感触なんだろうか。

 次に首を左右に回してみる。目の前に壁があるような、狭く殺風景な場所のようだった。空気も床も冷たい。

 電球の灯りはあるが光は鈍く、まるで何年も取り替えていないような古さを感じさせた。

 ベッドのすぐ側にはドアがあった。ノブにはサビがあちこち付いていて、手入れが行き届いていないように見える。

早速回してみるものの、鍵がかかっているようだった。

訳が分からなかった。到底、まともな場所とは思えない。

『監禁』。そう呼ぶのが相応しいと感じた。

「ここ……どこ……?」

 まだ意識がハッキリとしない。

まず、自分の身に何が起こったのか記憶の確認と情報の整理をする。

私の名前は須藤羽矢すどうはや。住んでいた街の近くの学校に通う女子校生。

 確か、学校のテニス部の地区大会予選に出るためにバスに乗っていたはず。

 高速道路を走っている時にバスの中でみんな遊んだり、相談したり、お菓子食べたりしてて、そうしていたらバスが突然大きく揺れだして…。

 そこから先がどうにも思い出せない。

 ひとつ確実に言えることは、自分の乗っていたバスが事故に遭い、そして自分は現場から連れ出された事だ。

 でも何で自分が? なぜ、それも何のために?

 考えれば考えるほど、疑念が尽きなかった。

 そういえば、さっきから少し肌寒く感じる。確かに殺風景だけど空調も悪いのだろうか……


「……!?」


 今になって自分が衣服を一切何も身につけていない生まれたままの姿―裸であることに気がついた。

 何!? 何で!? 何がどうして!? 私何かされちゃったの!?

 急いで毛布を身体にかける。誰にも見られていないのに急激に恥ずかしく感じてきた。

 いや、そこは問題じゃない。経験も出会いも何もしてきていないのに、何者かに何かされてしまったのが一番の問題だった。

 「け…汚された…」

頭の中が真っ白になっていく感じがした。

 ああ、こんな非常事態に何を貞操の心配を考えているんだろう私は……。

「あれ……? ……なんだろう……コレ?」

 ふと目線を下には向けてみると、胸元からお腹にかけて縦長の傷があった。手術の痕のようにも見えた。

バスの事故から連れ出されたあと、手術を受けたのだろうか。それにしては場所がおかしいような気がする。この場合、腕か足なのではないだろうか。内臓にダメージでも負ったのだろうか。

 と、するとここは病院? いや、こんな暗くて狭くて不潔そうな病院があるわけがない。

 こんな所にいたら、病気がますます悪化するのは明白だ。

……随分と自分の頭の切り替えが早い事に気がついた。あまりにも非常識な事ばかりで頭が麻痺してしまったのだろうか。

 他に何かされてないかどうか、四肢を動かしつつ自分の身体を見回してみる。結果は胴以外にも手首や脚、額など至る箇所に手術痕が見られた。服を着ていれば目立ちにくい箇所ばかりだが、これが何を意味しているのか現状では解らなかった。


 その後、結局ここでどうすればいいのかわからず、そのままベッドで不貞寝してしまった。

 時計が無いため時間は分からないが二、三時間ほどが過ぎただろう。

 考える時間だけはあった。暇なので天井を眺めながら、父親や友人、部活仲間やクラスメイトの事について考えていた。

 多分、私は周りでは死んだと思われてるのかもしれない。みんな、今何やってるんだろう。

 私が死んだと知って悲しんでくれたのかな。先輩や先生は泣いたのかな。一年で泣き虫の中島はビェンビェン泣いてたりして。

 それとも、死亡じゃなく行方不明扱いで捜索願いが出されてて駅前でビラとか配ってたりしてるのかな。

 親切な人が協力したり、通りすがりの人が無関心そうにビラを持っていくだけ持ってってみたり、警察では創作本部が立てられて今も全力で探してたりとか……。

 はたまた、これはドッキリカメラの一種で私がこう過ごしていくうちに周りの壁がガラガラと崩れてカメラマンが『はい、撮影終了でーす。お疲れ様でしたー』と呑気に言いつつ『ドッキリ大成功』とデカデカと書かれた看板を掲げて周囲から笑い声と拍手の音が鳴ったりして……。

「……寂しい」

 考えれば考えるほど、虚しさと寂しさが一層深くなっていった。

 当たり前だ、所詮これらは私の願望だ。寂しさを紛らわせるための妄想に過ぎないのだ。

「私、これからどうなるんだろう……?」

 目から涙も溢れそうだった。

 

そう思った直後、天井に設置されたダクトの排気口から音が鳴った。

 さらに続けて大きな何かがホコリと共にズシンと崩れ落ちてきた。

「っ痛~~~~…」

 それは人だった。見たところ、自分と同じくらいの少女だった。

「くそっ! このボロダクトめ! あたしが重くなったとでも言いたいのか!?」

 彼女は立ち上がり、早々に悪態をつく。

背丈は自分よりも少し高くスラッとしている。

格好は黒髪を後ろに二つ縛ったツーテールで、「病院で入院してる人がよく着てるパジャマみたいなアレ」を着ていた。

「……ん?」

 彼女は私に気がつき、じろじろと身体を見回し始めた。

「あ、あの……何?」

 正直、同性でもそんな目で見られると恥ずかしいことこの上ない……今の私、裸だし。隠してるところは隠してるけども。

「う~~~ん……」

 そう唸った直後、こう言ってきた。

「おい、お前」

「な、何……ですか?」

「今すぐここで私に殺されるか、私に協力するか。好きな方を選べ」

 彼女はイイ笑顔で私の方に指を差して、そう言った。

 脅迫であった。開いた口が塞がらなかった。


 ** **


訳が分からなかったものの、他に方法が見つからない上に、ここから出られるならと彼女の誘いに私は乗った。

 ……とは言うものの、ここがどこなのかも解らず結局その事を素直に打ち明けると「……じゃあいい。私のことは忘れろ」と、不機嫌そうな顔をされた上に彼女は天井のダクトへと戻ろうとした。

 私は慌てて止め、一緒に連れて行って欲しいと懇願し、渋々とだけど同行を許されたのだった。

 今、私達は一緒にダクトへと入り込み、共に中をズリズリと這いずり回っていた。

 ダクトの中は異臭が漂っていて、このまま臭いを嗅いでいたら気が滅入りそうだった。ホコリも多いし、汚れもひどい。当然狭い。ホフクの体勢でやっと動ける程度だ。

 昔チラッとだけ見た洋画にこういうシーンがあったけど、実際にやるとこんなに窮屈なんだなぁ。こんなところからは一刻も早く出たい。私はそう呑気な事を思っていた。

「どーでもいいけど、なんで毛布まで持ってきてんの?」

 ダクトに入ってから無言だった彼女が口を開く。

……言えるか、裸で恥ずかしいから服の代わりに持ってきたなんて。そして理由を言わせるつもりなのかこの人は。

「いいけどさ、別に。だいたい理由はわかるし」

 なら聞かないでよ……。

 そのままダクト内を動いて数分。

「……あの」

 ふと疑問について、彼女に問いかけてみる。

「何? 変な話だったらぶっ飛ばすよ」

「ここって一体何なんですか……? テレビとかで見る収容所って奴ですか……?」

「そんな堅苦しい言葉遣いじゃなくてもいいよ。で、収容所……ね。ま、確かに収容はしてるかな」

 彼女は鼻で笑いながら応える。

「この施設は表向きは発電所とか製薬会社の倉庫とか、実験場とかそう言われてるよ。実際、実験動物が今ここに二匹ほどいる」

 彼女は私の方を見ていた。

……確かに、何らかの実験がされたと思わしき箇所はある。

 彼女もやっぱり私と同じ境遇なんだろうか……?

「あと……他に聞きたいことがあるんだけど」

 続けて質問を言う。

「何?」

「なんでダクトから出るの?」

「ネズミだよ」

「ネズミ?」

「少し前に部屋で寝てた時にダクトからネズミが落ちてきたんだよ。で、その落ちたネズミを調べてみたんだけど、虫を食べてたみたいなんだ。それも、ハエよりもずっと大きなヤツ。たぶん、外のネズミがダクトから入ってきたんだと思う。それで、ダクトを通る事を思いついたんだよ。ま……正直言うと一か八かのヤケっぱちで、通れるかどうかはわからなかったんだけどさ」

「なんて行き当たりばったりな……」

「でも、こうして通れてるんだから結果オーライよ」

「それは確かにそうだけど……」

 私は彼女の楽観的な所に少し呆れてしまった。

 そう話し込んでいくうちに、前の方からかすかに明かりが見え始めた。

「もうちょっとだ。ペース上げるよ」

その言葉と共に、通路を這いずるスピードを上げる。

それに比例して、明かりも徐々に大きくなっていく。

やがて自分たちの脱走に気がついたのか、警報らしきベルの大きな音が鳴り出した。

「え、な、何何!?」

「来たか!」

 そう言うと、彼女は我先にと「出口」へ向かってスピードを上げる。

「あ、ちょ、ちょっと待ってよ……!」

彼女が出口から外へ出た後、続けて私も狭いダクトからやっと出た。

山の中にあるのか、辺りは木々に覆われていた。空には月明かりが射し込んでいる。

軽く伸びをし、開放感を味わうがそれもつかの間、彼女が腕を掴む。

「え、な、何!?」

「呑気してる暇なんてないよ。直ぐに見つかるから……ほら」

 足元を何かが掠める。

「え……!?」

映画や漫画で見るようなスナイパーライフルの弾。真っ先にそう解釈した。

「さぁ、早く」

 彼女がそうして私の腕を引っ張りつつ走り出すが、咄嗟のことで対応しきれず私はよろけてしまい、服代わりにしていた毛布がはだけてしまった。

「ちょ、ちょっと待って……!」

「死にたいの!? 立ち止まらずにこのまま走れ!!」

 彼女は鬼気迫る表情で私を見る。

「え、でも私ハダカで……」

「そんなのはどうだっていい!!」

「で、でも……」

 直後、また縦断が掠める。

「ほら! いーから走れ!」

銃弾。銃弾。銃弾の雨。

もはや、考える余地は無い。

一時の恥と生命、どちらが大切かと言われれば……生命。

恥辱を心の中のロードローラーで引き潰しながら私は全力で走り出した。


** **


施設から逃げ出した私たちは、そのまま数十分は森の中を走り続けた。

だが走っても走っても周りは森、森、森。一向に景色が変わる気配が見えなかった。

 変わったといえば、次第に銃弾が少なくなり、やがて完全に止まった事ぐらいか。

「疲れた……脚、痛い……もう歩きたくない……」

 走り疲れ、思わずゼェゼェと息を切らす。

身体を見ると、あちこちに擦り傷が出来ている。足の裏にはトゲも刺さっていた。勿論土で汚れていて見るからにバイキンが入っていそうだった。

「体力無いなぁ……あんた、最底辺とはいえそれでも「適合者」なの?」

「適合って……何の……こと……?」

「ありゃ、こりゃあ本当に何も知らないみたいだね……まぁ、落ち着いたら話したげるからさ。それよりも今は……」

「うるさい!!」

 思わず声を荒げてしまった。

しかし、勢いに任せてか口は滑るように動いていった。

「だいたいなんでこんな事になってるの!? つい最近まで普通に学校行って、勉強して、部活やって、ご飯食べて、テレビ見て寝て起きてまた学校行って……それが何!? どうして私は今貴方と一緒にこんなだだっ広い森の中を走り回ってるわけ!? それもスッパダカで!! すっごい恥ずかしいし、足痛いし身体汚れるし虫に刺されるしで最悪なんだけど!!」

 惨めだった。とても惨めで、情けなくて、意味がわからなくて、涙が流れ出ていた。

「そんな事、私に言われても困るよ……だいたい、ついてきたのはそっちだろ。なんだったら、あの『研究所』で利用されるだけされ続けて野垂れ死ぬか、あいつらの仲間にでもされるか、そっちの方が良かったとでも言うの?」

 彼女がまた楽観的な様子で喋り始める。

「……言わない。それよりも、そもそもなんで逃げてきたの? 何よりも、あなたは誰なの……?」

「私? 私は……」

 そう言った後、彼女は口元を歪め、

「元・人間」

 と、うっすらと気味の悪い笑みを浮かべた。

「……と、言って信じる?」

 さらに顔を緩めてそう言った。

「…うるさい、うるさいうるさい!」

 その挑発するかのような仕草に苛立ち、思わず手が動いてしまう。

 しかし、彼女は私の腕をすかさず掴み、握り締める。

「痛ッ…! ちょ、ちょっと痛いってば…!」

「そんな事より、あんたは何で私についてきたの? ま、その様子じゃ新しく入ってきた、それも目覚めたて奴みたいだけど……」

 彼女はそう言いつつ、腕を離す。

「なんでって……あんただってあそこから出ようとしてたじゃない。私もここから出たかったから……それだけだよ」

「ふぅん……まぁ、確かに私と同じように出たいって奴がいてもおかしくはないか」

「それよりも、さっきからあんたあんたってちょっと馴れ馴れしいよ。私には須藤羽矢って名前があるんだから」

「別に聞いてもないし、聞かれてもないし……まぁいいや。そんだったら、私にだって雨宮あめみやリウって名前があるし」

「……張り合ってるつもり?」

 いちいち返しがふてぶてしい。怒りというか、呆れを感じる。

「別に。それよりも少しは気が紛れた?」

「ん……」

 言われてみれば、心の突っかかりが少しは取れたような気がする。

「……確かに、少し落ち着いたかも……」

「でしょう。頭がグッチャグチャになった時は吐き出してみると魚の骨が取れたような気分になるものなんだよ」

 雨宮リウは口元を緩ませそう言った。初めて見る笑顔らしい笑顔だった。

「……ごめんなさい。急に当たり散らしちゃって」

「いいよいいよ」

 もしかして、そのつもりでわざと挑発的な態度をとったのだろうか……? だとすると、軽薄な態度とは裏腹に思慮深いのかもしれない。

「わかったんなら早く行くよ。あいつらだって暇じゃないんだ。無駄口言う暇あったら足動かせ足。見た感じ結構筋肉ついてそうだし、なんかスポーツとかやってたんじゃないの? もうちょっと気合出せばまだまだ走れるって」

 そう言ってリウは私の身体をペシペシと平手で叩く。

……やっぱり気のせいかな。

「それなら裸の私に一張羅あげてもいいでしょ……」

「やだ」

 …やっぱり気のせいだ、うん。やっぱりこの人…雨宮リウはふてぶてしい。

「ほら早く。恥ずかしがってる場合じゃないって。そうこうしてる間にすぐに追手が―」


 直後、つんざくような鋭い音と共に何かが私の頬をかすめていった。


「え……」

 思考が直ぐには追いつかない。気がついた時には二射目が放たれ足元に着弾した。

「ま…また銃弾!?」

「……どうやらもう来ちゃったみたいだね。ちと舐めてたか」

リウは冷や汗をかきつつ、後ろ側を向き構えを取る。

「……!!!? 痛ッ……!!」

直後、私の頭にジワりと焼き付くような妙な痛みが走った。

頭痛のような針を刺したような痛みとは違う感覚だった。激しくはないが、鈍く、長い、波が来るような妙な痛みだった。

額から脂汗が浮き出てくる。感じた事のない感覚に吐き気も感じ、戻してしまいそうな感覚にも襲われた。

「何なの……コレ……!? 痛くて……気持ち悪い……」

「……それが証拠さ。」

 そう呟いた彼女の目線の先には、追手と思わしき男が存在していた。

長身で痩せ型、無精髭を生やした線の細い体型の小汚い風貌で、いかにも貧弱そうに見える。銃器の類は持っていないようだった。

 では、あの銃弾は一体何なのか? この人とは別人が撃ったものなのか。

「ボーッとしてんじゃないよ」

 リウが私に注意する。

「見たくなくても今から見る事になるよ。私たちがあの施設の奴らに何をされたのか、あいつらは何なのか、その証拠をこれから沢山ね」

 リウがそう言った直後、男は周囲に鳴り響く雄叫びを挙げた。同時に男の身体が禍々しく変貌していく。

 頭が隆起し、胸や腕の筋肉は膨張し、顔は大きく崩れていく。

 数秒した後には、その男は人とは大きく離れた姿へと変わっていた。

強いて例えるなら『熊』。そう例えるのが相応しいように感じた。

「………!?」

「もやしがデカブツになったか。そう珍しい奴でもないか」

 直後、リウは力を込める。

「う……んん……ッ!!」

 その瞬間、右腕が徐々に盛り上がり、肌の色も変色し、雄々しくも禍々しい形へと変貌していった。

「これやるたびに体力使うんだよね…まだ慣れないわこの感覚……」

 リウの頬に一粒の汗がじわりと伝わり落ちていく。

「そこでじっと見てな。あいつ一人だけなら腕一本これだけで十分だし」

「う……うん……!」

 私はとっさに近くの木の後ろへと隠れる。

リウは右手の握り開きを繰り返し、『熊』の方へゆっくりと前進する。

 『熊』も大股を広げつつゆっくりと私たちの元へと歩いていく。

 そして互いに数歩ほど歩いた後、『熊』が突如宙を跳躍し、歪な大きさとなった両腕を振り降ろしてきた。

リウは僅かな動きで攻撃を避ける。『熊』は彼女の真横へと落ちていく。

そしてリウはその隙に右腕を瞬時に『熊』の横腹へと突き刺した。

「~~~~~~~~~~~~~ッッッッ!!!!!!!!」

 『熊』が激痛を感じたのか、長い長い雄叫び―いや悲鳴を挙げる。

リウは刺さった右腕を瞬時に抜いた。『熊』の胴からは血が流れ出るものの、量は少ない。深くは刺さっていないようだった。。

 怯みを見せるものの、『熊』はリウの顔に向けて拳を振り上げる。

彼女は両腕を組み合わせ、『熊』の攻撃を防ぐ。『熊』は続けて攻撃をするが、彼女は防御の姿勢を崩さない。そのまま『熊』は左右交互の腕でパンチを繰り出していった。

「ぐッ……! すごい響く……無事だけど……ずしりと来るわ……」

 目立つような傷は負っていないように見えるが、防戦一方であった。

 当然だ。体格に差がある。大柄な『熊』と小柄な少女。一方的なのは明白じゃないか。

今にも『熊』の力に押しつぶされそうで見ているんのが辛くなってきた。

逃げる事なんて、浅はかだったんだ。なんて愚かな選択をしてしまったんだろう……。こんな所で何も知らないまま、あんな奴に殺されてしまうんだ。

私は、施設から逃げた事を心の底から後悔していた。


 だが―


「パワーに、頼りすぎ……なんだよ!! 動きが遅くて、こっちがイライラする……!!」


 リウは身体を素早くしゃがませ、足払いをかける。『熊』はその動きに反応しきれず、バランスを崩した。

 私はその光景を見て思わず「……う……そ!?」と口を漏らしていた。

直後、リウは先程右腕を刺した胴の傷へと再び突き刺す。

「痛いか!? 痛いだろうなぁ!! もっともっと痛みを味わえ!! さっきまでのお返しだッ!!」

リウは動きつつ、そう叫ぶと共に『熊』の嗚咽とも悲鳴とも取れる長い声が辺りに木霊した。

先程まで『熊』の攻撃を受けていたのにも関わらず、リウは平然とした素振りであった。打って変わって、完全に形成が逆転したように見えた。

「な……何なの……!? 何なのよコレは……!?」

 私は呆気に取られ、目の前で起こっている光景を呆然と眺めてしまっていた。

 信じられなかった。二人の人間が異形へと変化し、殺し合いを、それも両者ともに『普通の人』だったら既に死んでいてもおかしくはない程の戦いをしている。

 自分の置かれた状況も狂っていたが、奴らも相当狂っている。どう言えばいいのかわからなかったが、そうとしか形容もできなかった。

 その間にもリウの猛攻は続き、攻撃をするたびに身体が鮮血で染まっていった。

「信じられなーい……って、顔してるのバレバレだよ!? もうちょっと表情を隠す練習もしたらどうかなァ!?」

 わらっていた。雨宮リウは哂っていた。弱い相手をあざけていたのか、戦いそのものへの快感なのか、両方なのか。どのようにも取れた。

やがて『熊』は苦し紛れなのか、口から何かを吐き出していく。

ひとつ、ふたつ、みっつ。次々と吐き出し、リウはそれらを避けつつ攻撃を続ける。それらは周りの木々に当たり、凹ませ傷を付けた。

私は恐る恐るその吐き出された何かを見る。

信じられなかった。最初は石のような硬い物を吐き出していたのだと思っていた。だが、これは『石』じゃない。『つば』だ。唾を吐いていたんだ。

先ほどの銃弾もあの『熊』が吐いた『唾』だったのかもしれない。唾がそこまでの強度になるなんて、あの『熊』は本当に人間―いや、生き物なのか。

 そう思案している間も戦いは続いた。

『熊』とリウが互いに右腕を振りかぶり、相手へ目掛けて刺して行く。

『熊』の腕はリウの頬をわずかに掠めた一方、リウの腕は『熊』のみぞおちへと入っていた。

―いや、「貫いていた」と表現するべきだった。

『熊』の口からは、血反吐がブクブクと泡立っていた。

「この様子じゃ、やっぱり痛いか……でも、それも終わり。今、楽にするから」

 リウが右腕を引き抜くと同時に左腕の手刀で『熊』の胴を薙いだ。直後、『熊』の傷口から血が勢いよく噴き出した。

「腕一本で充分だと言ったけど……ごめん。あんた思ったよりも強かったわ」

 リウは悪びれた様子でそう言い、『熊』の身体は崩れ落ちていった。当然『熊』は既に事切れていた。

あまりにもあっけない幕引きだった。あの怪物を簡単にあしらい倒してしまうなんて予想できなかった。

「フゥ……こんなもんで良かった、というべきかな。そんなに時間食わなかったし」

 リウの右腕は風船が萎んでいくかのように、徐々に元の形へと戻っていく。

 血染めで解りづらいけど、よく見ると彼女が身体に受けた傷からは、血が流れていない。

既に塞がったとでも言うのだろうか。だとしたら、あまりにも早すぎる。深い傷も結構あったハズなのに。

「あ、大丈夫だから。傷はもう全部くっついてるし、心配しなくていいよ」

 彼女は私の方を見ると、先程のようなあっけらかんとした態度で返す。

「し……心配って……こんなに血が出てるのに!?」

「だーかーら、大丈夫なんだって。あれくらいなら直ぐに治っちゃうから」

 そう言って左腕を右手の爪で強く引っかき、出血する程の傷をつける。肉が裂けていく様子は見るからに痛々しかった。

 が、その傷は瞬く間に塞いでいき、やがて血の一滴も流れない程に完全に塞がった。

「ね? ちょっと痛いけどね」

 彼女は冷静な声でそう応えた。

ふと、自分の身体を見てみると、身体中に出来ていた擦り傷が一切無くなっていた。足裏の刺し傷も無い。と、言うより『治っている』。

 背筋が寒くなった。先ほどの異様な光景もあり、私は恐る恐る質問をする。

「ねぇ……あの施設だと実験が行われていたって言ったよね……?」

「そうだけどそれが? もしかして忘れてたの?」

 私は『熊』の死体を恐る恐る見ながら指を指す。

「もしかして……私も……あ、あいつみたいに……あんな風になってしまうの?」

「そーだよ」

 即答された。されてしまった。

 信じたくなかった。そうでないと思いたかった。夢なら覚めて欲しい。覚めて欲しかった。

でも、肯定された。つまり、これは現実なのだ。

「受け入れた方が楽だよ。私も最初はあんたみたいに戸惑ってたけどさ……慣れてみたらこれはこれで便利だし、ね」

 便利? 何を言っているんだこの人は。本気で訳がわからない。

「何なのよ……便利って……こんなのが良いって言うの……?」

 頭がまるで煮込んだシチューのようにグツグツに煮えていく。目元から恐怖と混乱でまた涙が溢れていた。今この場に長くいたら、余計に気がおかしくなってしまいそうだった。

「本当マジで訳わかんないよ! 何なのコレ!? その腕どうやったの!? あの怪物は何なの!? 『研究所』って何なの!? 『実験』って何なのよ!!」

 私は思わず感情的な大声で喚きだしてしまった。

しばしの沈黙の後、彼女―雨宮リウが口を開く。

「そうだよ。これが、奴等の所業さ」

リウはそう言い放つと共に―

「もう私たちは普通の人間じゃない。あいつらと同じ……怪物なんだよ」

 どこか寂しそうな顔で、そう言った。


 一話・了

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