第8話
アヴェロンの話
その日その夜その時は。
異界と通ずる扉が開く。
この世界のこの国の、古よりの暦では、そういうことになっていた。
だから、アヴェロンは、扉を開いた。
リセルティンには、三つの宮殿がある。
セルティニクシア王家のものが住まう『翡翠宮』。
エルネストーリア家のものが住まう『琥珀宮』。
ローディニア家のものが住まう『瑠璃宮』。
翡翠の王家と、琥珀と瑠璃の両宰相家。
その三者によって、リセルティンは治められている。
その宮殿の名と同じく、セルティニクシア王家に連なるものは翡翠色の瞳を、エルネストーリア家に連なるものは琥珀色の瞳を、ローディニア家に連なるものは瑠璃色の瞳を、それぞれ持って生まれてくる。
世界の全てを見はるかす『はてを見はるかす翡翠の玉眼』の血をつたえるセルティニクシア王家。
人の世が平らかに定まり、異界からの客人、『まろうど』達があらわれでることが絶えて久しい今では、その言葉の本当の意味を、もはや忘れられかけている『琥珀の破邪眼』の血をつたえるエルネストーリア家。
他家の――琥珀の血と交わることによりその力を抑制しなければ、その力がやがて持ち主を狂気に追いやるであろうと言われている――いや、事実、その力により狂気に追いやられたものが過去何人もいる『瑠璃の夢見の瞳』の血をつたえるローディニア家。
リセルティン王族、セルティニクシア王家とは、ほんとうは、瑠璃の血を琥珀の血で薄め、夢の狂気を抑制し、はてを見はるかす力だけを抽出するためにつくりだされた血統だ。
つまり。
琥珀と瑠璃が、エルネストーリア家のものとローディニア家の者とが血を交わらせれば。
そこに『翡翠の玉眼』が生まれる。
王族ではないのに、王たる資格を持つものが生まれてきてしまう。
王族ではないのに、はてを見はるかすことのできるものが生まれてきてしまう。
だから。
琥珀と瑠璃が――エルネストーリア家とローディニア家のものとが血を交わらせることは、リセルティンにおける最大の禁忌なのだ。
翡翠宮の者は、琥珀宮と瑠璃宮からその伴侶を見つける。
それを何百年と繰り返すことで。
翡翠と琥珀と瑠璃は、リセルティンに君臨を続けている。
リセルティン王の名は、ナルガ・リィン・セルティニクシア。
比翼宰相の片割れ、琥珀の宰相、琥珀卿の名は、アヴェロン・ティン・エルネストーリア。
比翼宰相のもう一方の片割れ、瑠璃の宰相、瑠璃の君の名は、リリエラ・ティ・ローディニア。
リセルティンにおける、最も高貴な三家の長達は、三者三様に、それぞれ悩みを抱えていた。
いや――琥珀卿アヴェロンに限っては、それは悩みではなく、正体のつかめぬ苛立ちであり、そして苦しみであった。
翡翠の王ナルガの悩みは、ディンの新月イズのこと。物ごころついたころから愛し続けてきた幼なじみと、どうやったら一生をともに出来るのかという悩み。
瑠璃の君リリエラの悩みは、孫娘アウラのこと。その身に流れる瑠璃の血が濃すぎて、夢見の力を持って生まれてしまった孫娘を、どうやって狂気から守ってやればいいのかという悩み。
――琥珀卿アヴェロンの悩みは。
自分が幸せではないこと。
愚かな悩みだと、アヴェロン自身わかっている。位人臣を極める比翼宰相の片割れ、琥珀の宰相となり、ただ一人の肉親、妹姫のジェニアはこの上なく健やかな、聡明で優しい、可愛らしい少女で、祖国リセルティンは平穏な繁栄の中にあり、その地位を脅かすものもなく。
なのになぜ、自分は幸せではないのか。
思いおこせば、自分に幸せだったことなどあるのだろうか。
琥珀卿アヴェロンの、ささやかにして唯一の喜びは。
幸せを感じられる瞬間は。
妹のジェニアが、自分に微笑みかけてくれる時。
その時だけは、その瞬間だけは。
凍えた心にぬくもりが宿る。
アヴェロンの夢――いや、目標は。
ジェニアを王に嫁がせること。
ジェニアを王の伴侶、リセルティンの宝玉様にすること。
なのに――王の心の中には、たった一人の女しかいない。
ああ、そう――もしかしたら、それが悩みなのかもしれない。
愛なき結婚など無数に存在する。
けれども。
アヴェロンは、ジェニアだけは不幸にしたくなかった。
ジェニアだけは幸せにしたかった。
自分の最も愛するものに、最大最高の幸せを送ってやりたかった。
ああ――だが。
最後の一人とはいえ――いや、最後の一人だからこそ。
この国の古の支配者の末裔、イズ・アル・ヨーディンの命を、あえて縮めようとする者などいようはずがない。『王殺し』という最大の禁忌を、口にするも恐ろしきその呪いを、我が身に引き受けようとする者などいようはずがない。
そう――。
それが人間ならば。
「――」
アヴェロンの唇に、冷たく歪んだ笑みが浮かぶ。
魔を払う琥珀の破邪眼の持ち主が。
琥珀の宰相、琥珀卿と呼ばれる男が。
ただ、妹の幸せだけを願って。
もしかしたら、幸せではない、幸せではなかった自分自身の人生に対する呪いをも込めて。
異界への扉を、その手で開いた。
「――次元座標確認、環境設定開始、ファイアウォール構築」
「――」
琥珀卿アヴェロンが眉をひそめたのは、それが自分には理解できない言葉だったからではない。
白くまばゆい光。どこまでもどこまでも清浄であることがなぜだかわかる、白くまばゆい光。
いったいぜんたい、仮にも悪魔と呼ばれる存在が、このような清浄なる光の中から出現したりするのだろうか。
「――実体化完了。――こんにちは、初めまして」
「――」
うかつに口を聞いていいものかどうかわからず、アヴェロンは光の中から現れ出た存在をにらみつけた。
それは一人の少女だった。一転の曇りもしみもない、白くまばゆい、どこかの組織のお仕着せであろうことが容易に想像できる奇妙な服を着込み、恐ろしいほどまっすぐなまなざしで、位人臣を極めた、眉をあげるだけで人の首をとばせるとまで言われた男を、全く恐れ気なく見つめてくる、ちっぽけな、一人の少女。
「それで――次元撹乱者達は、いったいどこでしょう?」
「――おまえは何を言っているんだ?」
アヴェロンは顔をしかめた。
「一つ聞くが――おまえは悪魔ではないのか?」
「あ、悪魔!? と、とんでもない!!」
少女は、ひどく驚いたような顔をした。
「わ、わたしは、ゾラ・タッカー。次元管理人の一人です。ああ、もしかしたら、あなたがたには『天使』といったほうが、わかってもらえるのでしょうか?」
「――」
アヴェロンは、ますます顔をしかめた。
なぜなら。
リセルティンには――いや、この世界には。
『天使』という概念が、存在していなかったからだ。
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