シーン2 仕掛け人が忘れ去っていた罠

 ……ここからが本番だ……。

 瑞希は、どこからか聞こえる声に、はっと身体を震わせた。

 傍らの女子中学生に鍼をつきつけ、自らの喉元にも鍼が迫っている。

 それなのに、その目は観客席やギャラリーにいる怪しげな女たちを見つめているのだった。

 舞台では、ジョン修道士とジュリエットの痴話喧嘩が頂点に達している。

 物語は進んでいるのに、瑞希は動くこともできないでいた。

 そのとき。

 会場の入り口から、けたたましい足音を立てて駆けこんできた者があった。

 稽古通りのキャスト一同ではない。

 客席に背を向けたまま瑞希に鍼をつきつけていたセーラー服の姿は、いつの間にか消えていた。

 客席にいた高等部の生徒も、うろうろ歩く中年女性も、ギャラリー上の女教師も、闖入者の出現と共にいなくなっていた。

 だが、それは稽古で予定されていた者共ではなかった。

 観客の視線を一身に集めながら現れたのは、くたびれた白装束の修道士でもなければ、思いのままの様々な衣装に身を包んだ意味不明の「その他大勢」でもない。

 襟や袖にフリルのついた派手な衣装で着飾った、どう見ても正気とは思えない2人の貴公子だったのである。

「ボンジュール!」

 挨拶も、なぜかフランス語だった。

 突然のことに凍りつくジョン修道士をフォローしたのは、ジュリエットだった。

「あら、下手なフランス語ですこと。どこの田舎紳士かしら?」

 田舎紳士は芝居っ気たっぷりに華麗なターンを披露する。

「ウィ、フランス語で話すワタクシは、フラ~ンスからやって参りましたオロントです、お久しぶりでございますセリメエヌ様」

 モリエール『ミザントロオプ』の登場人物に対して、シェイクスピアの創造物が、高らかにオホホ、と笑った。

「人違いじゃございませんこと、私、キャピュレット家のジュリエットと申します」

 オロントは構わずに懐から手紙を取りだし、はらりと開く。

「セリメエヌ様、ワタクシ本日は貴女がとある男性に送った手紙を持ってまいりました」

 手紙、という言葉に反応するジョン修道士だったが、それをオロントから取り上げるには少し根性が足りないようだった。

 ジュリエットがこれを受ける。

「あら、ロミオ様のことでしたかしら……でも私、家が厳しくてとても恋文など……」

 いいえ、とオロントは重々しい声で答える。

「中傷の手紙です。身に覚えがありませんか?」

 ジュリエットは毅然と答える。

「ございませんわ! ……だって、すべて本当のことですもの!」

 オロントとジュリエット、「モリエール」と「シェイクスピア」、フランス古典演劇とエリザベス朝演劇が、火花を散らすが如く睨み合った。

 では、とオロントが、鼻にかかったオカマっぽい声で手紙を朗々と読み上げる。

「何かカンチガイしてらっしゃるんじゃないかあのお方、私なんとも思っておりませんことよ。それをまあ、ちょっと優しくしただけでお茶だの食事だのとうるさいこと、そのうえ下手な詩や芝居を持ち込んではどうだどうだと、思い上がりも甚だしい……」

 ジョン修道士がおろおろする中、またハデな衣装の男が一人駆け込んでくる。

 オロントが白々しく名前を呼んだ。

「やあやあクリタンドルさん、フランスよりよくお越しくださいました」

 ジュリエットが納骨堂から突っ込んだ。

「フランス人増え過ぎでしょ!」

 フランス貴族クリタンドルが、中傷の手紙を読み上げる。ジュリエットもこれを受けた。

「何通あるのよ、私の手紙……ああ、書きすぎて覚えてない!」

 とうとうロミオまでが起き上がった。

「まさか僕にも……」

「あなた未亡人にふられて私に乗り換えたんでしょ!」

「ひでえ!」

 せっかく復活したロミオは、ショックでまた死んだ。

 ジョン修道士が必死で、台本通りの台詞を叫ぶ。

「ああ、それでも私はあなたを愛しています!」

 オロントがそれに応じた。

「ああ、あなたはひどいお方です」

 クリタンドルもそれに合わせる。

「男をたぶらかしては陰でこそこそ中傷し、人を笑いものにして自分に注目を集める小悪魔です!」

 三人は同時に叫ぶ。

「ジュリエットさま!」「セリメエヌさま!」「セリメエヌさま!」

 顔を見合わせて、また叫ぶ。

「セリメエヌさま!」「ジュリエットさま!」「セリメエヌさま!」

 首を傾げてまた叫ぶ。

「セリメエヌさま!」「セリメエヌさま!」「ジュリエットさま!」

 オロントが「提案」と手を挙げる。その場で多数決が合意された。

「ジュリエット」

 ジョン修道士だけがおずおずと手を挙げる。

「セリメエヌ」

 オロントとクリタンドルが手を挙げる。

 セリメエヌ確定、とフランス男二人が拍手した。

 混乱の極みに達して舞台上を行ったり来たりするジョン修道士の思いを代弁するかのように、ジュリエットが突っ込む。

「誰よ、セリメエヌって!」

 フランス男二人がジュリエットを指さす。ジュリエットはムキになる。

「私、ジュリエット。だってこれ、『ロミオとジュリエット』! シェイクスピアの!」

 オロントとクリタンドルが硬直する。

「モリエールの『ミザントロオプ』ではなくて?」

 ジュリエットが、ジョン! と呼ぶ。

 オロントが、ジョン修道士、と呼びかける。

 クリタンドルが、客席に向かってジョン、ジョンと手を叩いた。

 客席から次第に、手拍子が聞こえ始めた。

 やがてそれは、会場いっぱいの「ジョン」コールに変わっていく。

 舞台中央で固まっていたジョンは、拳を握りしめ、直立させた全身をぶるぶる震わせて叫んだ。

「もう、放っておいてください! 僕を無視して勝手に進めるんなら! 人に合わせるのはもうたくさんです!」

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