第20話  クララ、珍客を迎えるのこと

 本日分は、ホイットニー家に現れた新しい珍客紹介がメインの話となります。


明治9年9月24日 日曜日

 昨日から荒れ狂っていた台風はようやく通過していった。築地付近は随分ひどいことになっているらしく、ビンガム夫人の家は客間・寝室・温室まで浸水してしまったそうだ。

 昼食の直後、矢田部良吉氏というニューヨーク州のイサカで六、七年勉強して、帰国したばかりの青年がみえた。

 当然のこととして、快活で垢抜けていて、外国風に洗練された物腰を誇りとしているようだった。だけど彼と話しているうちに、私の心に疑惑の暗雲が立ちこめ始めた。この物言い、そして態度はまさか……

「ええ、わたしは特に神を信じておりませんが、何か?」

 やっぱり! 私の問いに矢田部氏はあっさり頷かれた。アメリカに長年留学していたというのに、彼は無神論者でもあったのだ! 

 洗練された屈託の無さと、紳士然として人を見下すような態度を身につけ、当たり障りのない物柔らかな口調で話すだけに、かえって無作法な人たちよりも始末に悪い無神論者の一人がここにいた。

 普段なら母に説法して貰うか、遠回しに追い出して貰うかするのだけれど、あいにく母は頭痛がするというので休んでいる。それに彼が無神論者であったとしても、その英語に混じる訛りは明らかにアメリカのそれだ。私は田舎訛りを聞くのが嬉しくて、お相手をつとめ続けることにした。

 庭を歩き回り、庭師の小屋に坐って、長い間庭師に話しかけたり、二人でお喋りをしたり、犬や猫を可愛がったりした。

 夕食時には室内に戻って夕方は音楽を聴いたり「ハーパーズ・ウィークリー」の絵を見たりして過ごした。それで分かったのは、矢田部氏は芸術の分かる方だということだった。

「クララさんの髪の色も、梳き上げて上で纏めた髪型も私は好きですよ」

 普段ならそんな言葉を聞いた瞬間「さよなら」と告げてその場から立ち去ってしまうだろう彼の好き勝手な物言いを、私は何故だか自然に受け止めていた。


「クララ、今日は一体何曜日だと思っているの?」

 矢田部氏が帰った後、母にそう指摘されて私は今日が日曜日、つまり安息日であることを思い出した。昨日以来の台風で、完全に曜日感覚が欠落してしまったようだ。

 ああ、私の良心を麻痺させたのはきっと無神論者という名の悪魔だったのだろう。髪を褒められた時のことだってそうだ。今になって思い返してみると、自分自身と自分の行いがとても恥ずかしい。

 そして母の云うこと、つまり、私自身か安息日を破っただけではなく、そうすることによって無神論者――イエス様の貴い御名を嘲笑する者――を鼓舞し、おまけにアディや富田夫人に悪い手本を見せたと云うことは真実だ。ひどいばちが当たるかもしれない。

 だけど、私としては故意にしたのではなくて、うっかりしてしまったのだ。そう、一回だけならうっかりかも知れないし、なあに、かえって免疫力が付く。

 不注意という罪はいつも私に付きまとい、尊敬されるような点は私の性格にはない。母は私に対し、腹が立つというより失望したことだろう。


明治9年9月25日 月曜日

 美しい朝で一日が始まる。ここのところ、いい天気が続いている。

「申し訳ありませんけれど、おやお様はひどい風邪を引かれたので休ませて頂きます」

 おすみがそう云って帰っていくのと入れ違いに、お逸がやって来た。

 午前中に二人で築地へお使いに行った。公使館へ行ってビンガム夫人を訪ねたのだ。

「お父様の勝提督をよく存じ上げていますよ」

 私の服を着たお逸の素性を聞いて驚いた夫人だったけれど、そう仰ってとても親切にして下さった。私たちにそれぞれゼラニウムを一本ずつ下さり「いつでもおいでなさい。そして二人とも仲良くなさい」と云われた。

 きっと夫人は私を好いて下さるのだ。私はいつもとても大事にして頂いている――だからといって、好かれていると決めることは出来ないけれども。

 しかし、お嬢様方が結婚したりアメリカにいたりして、そばにおられないからきっと寂しいのだろう。そしてよく知っている少女は私だけだから、私は幸運なのだ。

 午後からは祈祷会をしたけれど、お逸以外は家の人だった。

 母は昨日私のしたことをとても不快に思っているので、なんとも気まずかった。やがてシンプソン夫人が来られ、ミス・ヤングマンと一緒に住んでいる若いミス・ファニー・ギューリックも来られたが、すぐお帰りになった。

 夕方の六時過ぎに、ウィリイと私は加賀屋敷に出かけた。小野氏を明日の夕食に招待しようと思って、途中で小野氏のいる茶屋に寄ってみたところ、英語を話す青年が出て来た。

「小野氏が引っ越された新居に案内致しましょう」

 そこから二街区ばかり離れた蠣殻町の新しい家の前まで行ったのだけれど、雨戸が閉まっていた。青年が戸を叩くと、小野氏は今入浴中だから入って待つようにと云われたけれど、私たちは外で待つことにした。

「小野さんは結婚したんじゃないかしら?」

 私が冗談めかしに云うと、ウィリイはやはりいたずら気から青年に何気なく尋ねてみた。

「小野さんの奥さんはご在宅ですか」と。

 だけどその単純な人から返ってきたのは、私たちを驚かせる答えだった。

「ええ、いらっしゃいます。ここは奥様の家です!」

 こうして、我らが友小野氏が結婚したということが分かった。


 その後。

 こんな遅い時間に訪問するのは恥ずかしかったのどけれど、加賀屋敷に着くと、まずマッカーティー先生のお宅へ行った。

 先生ご夫妻は養女の清国のお嬢さんと、感じのよい綺麗な客間に坐っていらっしゃり、お二人とも心から歓迎して下さったので、私たちはまるで、ある可愛い小さな家に突然飛び込んで来たかのような気がした。

 先生は東洋暮らしが長い。なんと半世紀にも及ぶのだ。そこで先日我が家を訪れ、長居をした迷惑な客人――矢田部氏のことだ――について話していたら、先生が長居をする客の撃退法を教えて下さった。

「私は、もてなす種がなくなって、家にいられるのがもう我慢出来なくなると、お客を庭へ連れ出すのです。歩き回って門の所へ来たら、手を慇懃に差し出して『では、またおいでをお待ちしています』と云うのです」

 先生は東洋人から巧妙なやり方を学んだのだという。そして賢者らしく首を振りながら仰った。

「ええ、東洋に半世紀近くも無駄にいたのではありませんよ、絶対にね!」

この素晴らしい訪問の次に、隣のミス・ワシントンの家へ行ったけれど、ここでちょっとした滑稽で面白い間違いが起きた。

 折悪しくというべきか、ミス・ワシントンのところでは、ニンポーから来た宣教師二人を待っておられたのだ。つまりその家のご主人であるサイル氏――ミス・ワシントンの継父に当たる方だ――は、私たちが違う人であることをご存じなかったのである。

 そもそもの誤解の元を作ったのはウィリイの失敗だった。兄は何も書いていない名刺を持ってきてしまったので、玄関にいた使用人に名前だけを告げたのだ。

「遠路遙々よくいらっしゃいました」

 こちらの有無を云わさぬ熱烈さで、サイル氏は兄の手を取った。そしてブンブンと手を振り回すようにして「バランタインさん、今晩は」と云われた。

 続いて奥様が飛んで出ていらっしゃると、私を迎えて同じように仰ったので、私たちは吃驚仰天すると同時にその場で固まってしまった。

「あなた方のニンポーでの仕事ぶりは伺っておりますよ」

 どんどん進んでいく話。硬直してしまって唇の端さえ動かせない私たち。

 そんな奇妙な状況を打ち破って下さったのは、やっぱり。

「あら、ホイットニーさん。ごきげんよう」

 二十一歳だというのに、見た目もなさることも十七歳くらいの感じにしか見えないミス・ワンシトンが現れて、すぐに事は解決し、大笑いとなった。

 いつも嬉しそうにされているミス・ワシントンだけれど、今夜は特に嬉しそう。何故かと伺うと皇后様の学校である女子師範学校で教鞭を執ることになったそうだ。

 とても楽しい訪問を終えて、十時に帰宅した。途中で新しい漢字をいくつかウィリイに教わった。ウィリイは、なんと大事ないい兄なのだろう!


明治9年9月26日 火曜日

 小野氏が早朝、結婚を知らせなかったお詫びにみえた。

「わたしが結婚したのは丁度ホイットニーさんが鎌倉に行っていた時でしたので」

だけど小野氏が三十三歳で仙台のサムライなのに対し、奥様は十五か十六の茶屋の娘さんだそうだ。富田夫人はすっかり怒っている。

 杉田氏と令息の武さんと、津田氏が今日夕食にいらっしゃった。若い方の杉田氏は音楽が大好きだ。母に美しいミルク・カップと砂糖入れを下さった。


明治9年9月27日 水曜日

 富田夫人は今日引っ越しをされた。来週ご主人が帰国なさるので、おうちを整えにいかなくてはならないのだ。なんだか残念である。いらっしゃらなくなるとさぞ寂しいだろう。

 富田夫人の家は三田にあって、ここから一マイルばかりのところなのだけれど、ご主人がお帰りになったら、もっと近くへ越してくださるといいと思う。

 沢山の人がお手伝いに来てくれたけれど、友達が皆で手伝いに行き、後で立派な夕食をご馳走になるのが、日本風のやり方なのだ。

 母はインブリー夫人とミス・ハースバーカーと一緒に、四十七士の墓を見に行った。


明治9年9月28日 木曜日

「クララ、貴女はもっと几帳面になりなさい」

 母に朝から怒られて、私はふて腐れたまま台所に立っていた。今日はお逸がお姉さまの孝子を連れて来るので、パイを作ることにしていたのだ。

「あれ、クララ? 機嫌でも悪いの?」

 一足先にやってきたお逸にあっさり看過されてしまったところを見ると、余程顔に出ていたらしい。とりあえず二人で富田夫人のいた部屋に行ったら、母がそこにいたので「……ケーキを見に行かないと」とその場から逃げ出した。

 台所に着いた途端に、郵便屋さんがうちの郵便が一杯入った白い袋を二つ持ってきたので、私は驚喜して大分騒いでしまった。

 お盆を下に置くと、郵便屋さんは新聞や小包や手紙の包みを次々と引っ張り出した。郵便屋さんが出し終わっても、私はもっとあるかとまだお盆を差し出していたので、彼はとても面白がって、出て行く時に、首を振りながら「モウナイ! タクサン!」と云った。

 二階に駆け上がりこの獲物を母に見せると、母も驚くほどご機嫌がよくなった。

 母には八通、私には四通手紙が来た。ウィリイにも同数、父には一通、アディには二通、その他、あらゆる種類の新聞がどっさり。

 母のところへ来たものは、殆ど仕上がった灰色の駱駝の毛のドレス、肝臓の丸薬、重曹、それにピンと針だった。私はブリキ缶に入ったチョコレートクリームを貰った。本当に素晴らしい。私に来た手紙はドーラとリビーおばさんからで、ドーラとベッシーの写真が入っていた。それからミス・マギーから<完璧な手紙>、オッティから<個性ある手紙>、それにベル・ティクナーからも。ああ、嬉しいのなんのって!

「なんだかそのまま踊り出しそうね」呆れながらお逸にそう云われる始末。


 私の昂奮がようやく収まった頃、お姉様は赤ちゃんと小さい坊ちゃんを連れていらした。

 わたしは今日もお逸と着物を取り替えたりして楽しく過ごした。会うごとにお逸のことが好きになる。十六歳の少女としてはこの上なく感じがよく、またしとやかである。雄々しいサムライが誰も、お逸と結婚しに現れることのないよう望むのみだ。ああ、アメリカにお持ち帰りしたい♪

 疋田夫人の赤ちゃんも素晴らしく可愛い。坊ちゃんは三歳だけれど小さな大人である。

「あっ!」

 私たちが目を離した瞬間、坊ちゃんはベットから転げ落ちてしまった。

 慌てて駆け寄って怪我の確認をしようとしたけれど、この小さなスパルタ人は唇をかみ、涙が抑えきれなくなると、袖に顔を隠してそっと泣いた。

 叔母さんは坊ちゃんを見て笑いながら云った。

「この子は赤ちゃんのお兄さんなのだから、変な模範を示してはいけないのですよ」

 この国では、泣くことはとても子供っぽいことだと思われていて、男の子は克己心を持って何事にも耐えるように教育されているのだ。


明治9年10月1日 日曜日

 今朝目をあけて、美しい明るい日光が射し込んでいるのが見えた時、殆どこの目が信じられないくらいだった。それほど素晴らしい秋の朝だったのだ。

 空気が綺麗で新鮮で、熱いマルセーユ織りの掛け布団がいるほど涼しい。母は芝聖公会へヘバートン主教の説教を聞きに行き、私はアディとユニオン・チャペルへ行った。

 食後に訪れたのは他ならぬ矢田部氏で、皇后様の女学校の学生である二十歳の従姉妹のお嬢さんと一緒だった。

「先週の日曜のような罠には嵌るまい」

 そう決心して、二人を教会へ行くように誘った。矢田部氏と私、富田夫人と矢田部氏の従姉妹、というように組んで出かけたけれど、運悪く時間を間違えて遅過ぎてしまった。

 やむを得ず、ハイパー家の祈祷会に行ったら、丁度終わるところだった。無視論者とは、ここまで神と無縁になれるものなのだろうか?

 祈祷会では数人の友達に会ったのだけれど、矢田部氏は自分の英語を見せびらかしたいらしく、私が話す人全部に話しかけていた。

「六年もアメリカにいらした割にお若くみえますね」

「私が日本を発ったのは二十歳の時でしたから」

 矢田部氏は開成学校五番に住むことになっている。

 富田夫人は今朝来て、一日中いらっしゃった。ご主人の富田氏は、十月二十五日の次の汽船まで帰国なさらないことになったが、私たちはもっと早くお帰りになると思っていた。


明治9年10月3日 火曜日

 今日の午後、母が病気になったので、エマ・ヴァーベックが、ジェシー・フェントンのところへ行こうと誘いに来たが行けなかった。それでエマはうちとにお茶の時間までいた。母はいつも誰かにそばにいて貰いたがる。随分弱くなっていくようだ。


明治9年10月4日 水曜日 

 母は今日もよくならず、実は悪くなっているのかもしれない。

ウィリイと私が母に替わって授業をした。とても母のことが心配なのだけれど、母は「私はヘップバン先生以外のお医者さんには罹りませんから」と頑強に言い張る。

 ところがヘップバン先生は外国人は診察なさらない方なのだ。

 午後、富田夫人がいらっしゃったが、いつもと替わらず快活な方なので本当に元気づけられた。

「横浜へ行ってヘップバン先生に相談した方がよいでしょう」

 そう仰るので、明日の朝出かけることにした。


明治9年10月5日 木曜日

 母は今日気分がいいので、私は富田夫人と十一時十五分に出発して、十二時半に横浜に着いた。

 丁度ヘップバン夫人の昼食の時間になってしまったし、私たちだけでホテルに行くのも嫌だったので、日本のお茶屋へ入った。かなりみすぼらしい店だったけれど、そんなことは気にならなかった。

 二時にヘップバン家に着いて、夫人に事の次第を話した。夫人は「心配する必要はありませんよ」とか「大丈夫ですよ」とか、いろいろ云って下さった。

 それで私たちは町へ行って買い物をして、ヘップバン先生の答えを聞きにまた戻った。

「これをお母様に渡して下さい」

 けれど、渡された一枚の処方箋が先生の答えだった。先生はどうしても東京には出ていらっしゃらないという。

 ああ、私の心はとても重かった。「先生は母が生きようと死のうとどうでもいいというのですか!?」そう口にしかけて、辛うじて思いとどまった。

 ヘップバン先生はお母様がおられないので、私がどんなに母のことを心配しているのかお分かりにならないのだ。

 私は処方箋を頂いて、相変わらず重い心を抱いて家に帰った。せめて「もっと悪くなったら行きましょう」ぐらいのことは云って下さっても良かったのに!

 帰宅すると、午前中ずっと母は客の相手をしていた。シンプソン夫人がいらっしゃって、ご自分がご病気の時のお返しに、母をとても慰めて下さったそうだ。

 ド・ポワンヴィル夫人、杉田夫人と盛、佐々木氏、中原氏も来た。佐々木氏は見事な葡萄を一箱下さった。

 けれど、母はすっかり疲れてしまい、人の話し声も我慢できないほどいらいらして、しばらく泣いていた。


【クララの明治日記 超訳版第20回解説】

「やっと本格的に私たちの出番よねー……ま、ユウメイは後一ヶ月半くらい台詞はないけどw」

「はいはい、わたくしの存在なんて無視して、二人で勝手にイチャイチャしてなさい。

さっさと本題に参りますわよ。序盤にかなりの頻度で登場してきた小野氏ですけれど、この結婚報告を期に、急速に出番が減っていきますわね。変わって出番が増えるのが」

「今回初登場の矢田部良吉氏だねー。新しいトラブルメーカーとも云うけどw」

「ざっと経歴をフォローしておきますと嘉永4年、1851年に伊豆韮山で生まれ。父親も蘭学者で、本人は幕末頃、ジョン万次郎氏や大鳥圭介氏に英語を学んだみたい。で。維新後は外務省に入って森有礼氏に随行して渡米、と。多分大鳥氏か森氏の紹介よねー、ホイットニー家にやって来たのは」

「それでも、何の目的でやってきたのかは正直理解しかねますわね。クララの日記を読む限り、かなり軽薄そうな人物のように感じるのですけれど?」

「うーん、この人、変わっていると云えば変わっていて、そのまま森氏に随行していれば政府のそれなりの高官になれた筈なのに、外務省を辞めてそのままアメリカに留学しちゃう。しかも学ぶことを選んだのは、何故か植物学」

「クララの家にやってきたのは4年における留学を終えた後ですわね。そしてこの一年後、矢田部氏は東京大学における初代植物学教授となるわけですのね」

「後任の東大植物学教授が残した矢田部氏評はこんな感じだったみたい。

『温和にして淡白、人と交わるに城府を設けず真に泰西理学者たるの風采を具えたり、而して性又磊落奇偉』

『識汎く理学の一般に及ぶ、故を以て平素の談論往々哲理に渉り時に音楽又は油絵等の品隲し來り、人をして意外の感に打たしめたるもの甚少ならざりき』

クララの記述を裏付けするような、よく云えば豪放磊落、悪く云えば芸術好きのエキセントリック人間? ぶっちゃけ、評判は良くないよね、後世においても」

「評判も何も、矢田部がすこぶる野放図で、東大の植物園の事務担当になっても実際は任せきりで採集した植物の整理もせずに放置しっぱなしにするどころか、本人がアメリカで採集してきた植物も放置したままだった、っていうのは学者としてどうですの?」

「あっ!?」

「? 突然大声を出してどうしましたの?」

「思い出した。植物学者として超有名な牧野富太郎と喧嘩した人だ、この人」

「? なんのことですの?」

「牧野富太郎っていう学歴も何もないアマチュアの在野の植物研究者がいて、ある日、自分の研究成果を持っていったんだよ、東京帝大の教授に。で、その教授はすぐに牧野富太郎の才能を見抜いて、自由に研究室に出入りすることを許し、機材や資料なんかも自由に使わせてくれたんだって。ああ、その教授が矢田部氏だったんだ」

「それだったら美談じゃありませんの」

「だけど5年後には追放しちゃうんだな。で、これが遂には新聞沙汰にまでなって大揉めに。しかも悪=帝大教授の矢田部氏&後任教授、善=牧野富太郎の図式で」

「今までの話の流れを見ていると、矢田部氏が一方的に悪そうな気がするのですけど?」

「……うん、子供の頃、牧野富太郎の伝記を読んだ時には私もそう思った。だけど、この牧野富太郎って人、研究者としては一流だけど、物凄く自己中なわけ。研究のためには何をやってもいい、資料の勝手な持ち出しの何が悪い、家族を犠牲にして何が悪い、死んだら研究が出来ないから絶対に死にたくない」

「前二者はともかく、最後のは普通の学者なら多かれ少なかれそう思うんじゃ?」

「……実践さえしてなきゃね。植物採取中に崖から転落して気を失ったけど、気付いた後そのまま再開。だけど半年後にレントゲン取ったら実は背骨がぽっきり折れてたけど自己回復していたとか、実際に晩年死の床について医者からご臨終宣言されたのに、死に水を取っていたら生き返った、とか化け物じみた逸話が残っているくらいで」

「……本物の化け物でしょうが、それじゃあ」

「今回分のクララの日記を読み直していて、この二人、絶対に分かり合える存在じゃないってよく分かった。学者としての才能はともかく、アメリカナイズされて人当たりも良く、繊細な矢田部氏が、典型的な日本の研究馬鹿と馬が合うわけなかったんだ。お気の毒に」

「後年矢田部氏は、後に文部大臣となる外山正一たちと『新体詩抄』という西洋の詩の訳本を出版しています。これが日本での訳詩集の先駆けとなるようですわね。確かに、学者と云うよりは見た目の態度はともかく、その芯は繊細な芸術家気質だったのでしょうね」

「……ま、そんな後年の話はさておき、しばらく矢田部氏はクララの家に出入りして、諸々揉め事を起こしますが、それは次回以降と云うことでー」

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