第5話  クララ、福沢諭吉と出会うのこと

 日本の生活に慣れてきたクララの下に、幕府の時代では考えられない人物が突然夫婦揃って訪れます。。。


明治8年10月24日 日曜日

丁度使用人のヒロと日本の礼拝から帰ってきて、軒先で富田夫人と話をしていたところだった。近づいてきた優雅な二輪馬車が我が家の門の前で停まったのは。

 覗いてみると、遠すぎて乗っている人の顔かたちはよく分からなかったけれど、日本人の婦人と紳士と従者が二人乗っていた。

 一体何処のどなたなのだろう? そう首を捻っていると、馬車の後ろから見慣れた高木氏の髭面が現れた。

「殿と奥方様がおなりになりました。もし差し支えなければお宅の中を拝見させて頂きたいと仰っています」

 私たちの所に駆け寄ってきた高木氏がそう告げる。本当の「生きた殿様」が我が家にお出でになるなんて! 私以上に驚いた富田夫人は、すっかり慌てながらもお二人を我が家に招き入れ、大名がまずお入りになると大変低くお辞儀をした。

 一方の私はというと、大名と握手をして客間にお通しした。それから上から下まで和服でいらっしゃった奥方がお入りになって、富田婦人と例のうんざりするような儀式が始まった。

 日本人は天性洗練されていて「礼儀作法の手引き」みたいな人々である。人のもてなし方をよく知っていて、人をとても楽な気分にさせてくれる。だけど、この低いお辞儀だけは閉口だ。アメリカ風の礼儀にも精通されている筈の富田夫人が、床に膝をつき、畳に額をすりつけてまで応対されている。それが終わるまで私は道化役者のように離れて坐り、偶像に対してどうしても頭を下げようとしなかった反抗的なヘブライ人のように、富田夫人がぺこぺこお辞儀をなさるのを見ていた。


 皆客間に坐ったのだけれど、富田夫人がぽつぽつと挨拶の言葉をおっしゃっただけで、誰も口を開かなかった。

 大名が部屋を見回していろいろな物を見つめている間、私はこの洋服に身を包まれた大名を<こっそりと>観察することにした。

 この大名は松平定敬というお名前だそうだ。高木氏が昔サムライとして勤めていた桑名藩というところの殿様だったのだという。実はわたしは前にも大名に会ったことがある。アメリカで三人の美少年がうちにきたことがあったけれど、そのうち二人は高貴な家柄の出、同じ松平という苗字を持った方たちだった。しかし今日のお客様は威厳のある態度以外はちっとも大名らしくなかった。

 1847年生まれという事なので、お年はまだ三十歳にもなっていらっしゃらない筈だけれど、優美な手足や端整な顔立ちを期待しても無駄だった。お気の毒に、王者の印、つまり天然痘の痕が大きく濃く顔中に付いていて、わたしの夢は一瞬にして消えた。しかし、手はとても綺麗で上品で、左手の薬指に指輪を見つつはめておられたが、二つは純金だった。もう一つは素晴らしいオパールにダイヤモンドを散りばめたもので、様々な色にきらきら輝いていた。

 始めは尊大に構えていたいらっしゃったのだけれど、段々とうち解けてこられた。

 私は「アメリカの風景」やその他の本、写真帳、歴史や絵画や楽譜などをお見せした。オルガンがお気に召し、私が腕前を披露してから席をお譲りすると、お坐りになって日曜学校の賛美歌「主われを愛す」をお弾きになった。それからまた私が弾くと、みんな日本語の歌を取り出して歌った。

 夕食の献立は、冷肉、冷たいワッフル、バター付きパン、木苺のジャム、ゼリー、パイにケーキで、突然の来訪のため何も特別な物はなかった。こんな献立を大名ご夫妻にお出しするなんて! ところがお二人は大胆にも召し上がって下さり、ご満足な様子だった。

日本人の中には食べる時に大きな音を立てて啜る人がいるけれど、そのような厭な音を立てる事もなく、上品に優雅にナイフとフォークを使っていらっしゃった。

 一方の松平氏は、スプーンをどう使うか困っておられたので、兄のウイリイがスプーン立てを差し出すと、物珍しげに見ていらっしゃった。すると、そこに入っていたスプーンを全部お取りになり「ナンデスカ、ワカリマセン」と仰って、無邪気に使い方をお尋ねになった。

 食後客間に戻り、一時間ばかりお話ししてからお帰りになったが、にこにこと丁寧で、お着きの時にお見せになった尊大な態度はすっかり消えていた。

「本日は突然の殿の来訪、お受け入れ下さり、感謝致します」

 大名が帰られた後、高木氏が深々と母や私たちに頭を下げにいらした。

「素直で感じの良い方ですね。他の松平家の方のように留学はされないのですか?」

 アメリカの我が家に来た松平家などの貴公子たちの事を思い出して私はそう云ったのだけれど、高木氏は首を軽く横に振り「なかなか簡単にはいかない事情があるのですよ」と、普段とは違う、陰影のある表情で告げた。


明治8年11月3日 水曜日

 今日はミカド陛下の誕生日という事で、東京中どの家も白地に真紅の朝日を現す日本の国旗を掲げ、提灯と旗も一緒に飾られている。町全体が祭りのようだ。

 だけど悲しい報せもあった。小野氏の友人で、私が訪問した時にはとても上手に音楽を奏でられた若い夫人が、肺炎で昨日亡くなったのだ。

 日本人は肺の病気や気管支炎に悩まされがちだが、それは彼らの着物がピッタリしていないからだと思う。他の病気より、風邪や結核で亡くなる人の方が多い。

 着物は男物や女物もとても緩やかにできている。袖は長くてひらりと垂れているが、有害なのは腋の下の大きな隙間だった。そこから冷たい、身を切るような風が入って脇腹に当たるのである。着物を身体に巻き付けて重ねる前の部分にも隙間がある。男の人の肝のは殆ど腰まででずっと前が空いている。女の人のも同様で、強制的に着用することになっている腰巻きの他は、下に何も身につけていない。

 つまり、日本人はみんなパンツを穿いてないのだ!

 我が家に教えを請いに来る男性たちも、ストーブが必要な一番寒い季節でさえ、袖をひらひらさせ、胸を露わにしてやってくる。早死にするかも知れない危険を冒しているのを全く知らないのだ。いくら滑らかで艶々していようと、肌を露わにしている様は外国人にとっては不愉快なものだけれど、日本人はそんな皮膚を隠すのは残念なことだとでも思っているのだろうか! 

 着物の下の部分は、留めるピンもボタンもなくて開いたままになっているになっているから、歩くと、特に若者が大股で歩くと、ぱっと開いたり閉じたりして、格好の良い脚と足先が時々見えるのである。日本人の衣類はこのように風通しがよいから、死神がそんなに早く多くの人を襲っても不思議ではないのだ。

 ああ、健康のためにも、そして風采の面からも、どうかこの国の人たちが早く旧来の衣装を改め、我々のように洋服を着るようになりますように!


明治8年11月13日 土曜日

 今日は家でお菓子を焼いてから、富田夫人と芝の福沢諭吉氏のお宅に伺った。

 人力車の乗り心地も良く、福沢家の皆さんがとても親切で礼儀正しいので、私はすっかり嬉しくなってしまった。大柄で恰幅の良い福沢先生が、わざわざ私のために二階に案内してくれて江戸湾の素晴らしい眺めを見せて下さった。

 福沢氏は慶應義塾という学校を開かれた方で、父の商法講習所設立にも尽力して下さった立派な方だ。ここに来る途中、塾の素晴らしく広い敷地の脇を通ってきたところなので「失礼ながら先生は随分お金持ちでいらっしゃるのですね」と云ったら何故だかその一瞬だけ顔を顰められた。やはりこんな時にお金の話題なんてすべきじゃなかったと反省する。

 七歳のお嬢さんが私たちのため琴をお弾きになって下さった。私にはなんだかピアノの調律をしているように聞こえたのだけれど、富田夫人はとてもいい音楽だと云われた。

 やがて福沢氏が夕食をどうぞと云って下さったので、階下に降りてみると、食卓が半分洋式、半分日本式に用意されていた。御馳走は生の魚、魚の揚げ物と煮物、鶏肉の煮込み、吸い物、お茶、ご飯、清国の砂糖漬けの生姜、それに私が持ってきたお菓子だった。

 福沢氏はとてみ親切にもてなして下さって「またいらっしゃい」と念を押され、どうぞお風呂をお使い下さいと三度も云われた。

 私たちは月明かりのもとで帰途につき、心地良い人力車で早めに家に着いた。


【クララの明治日記 超訳版第5回解説】

「……ようやく羞恥心をかなぐり棄てられるようになってきた自分が悲しいキム・ユウメイです。それでは逸子、今回の読み所と解説すべき点は?」

「日本人全員、パンツ、履いてない!」

「当の日本人である貴女がそれを云いますの!? しかもよりによって“高須四兄弟”の一人と福沢諭吉氏が初登場した回にそれを云いますの!? 」

「だって、所詮“超訳版”なんだもん。インパクト重視だって。大体わたし、中国のことは詳しくないけれど、この時代だと中国の人もきっと履いてないよね、パンツ?」

「……そ、そう云われますと」

「つまり、ユウメイはクララとの初対面の時、膝上までしかない短いチャイナドレスで、なおかつパンツ履いてない状態でアピールした萌えチャイナっ娘というわけよね!」

「は、履いてますわ! そもそもわたくしは歴としたアメリカ人です!

 ……コホン! それでは気を取り直して、まずは松平定敬氏について説明していただけますこと?」

「いわゆる“高須四兄弟”の一人よね。この“高須”というのは苗字じゃなくて、尾張徳川家の分家筋である美濃国高須藩、現在の岐阜県海津市あたりの藩主だった松平義建氏の子息のうち、特に幕末期に有名になった四人の兄弟の事を云います」

「そんな事を云われましても、この国の人間でないわたくしにはよく分かりませんわ」

「んー、四兄弟のうち一番有名なのは松平容保氏かな? 逆に云うと、現在の歴史教科書にまで名前が出てくるのはこの人だけとも思うけど」

「松平容保氏ってアレですわよね? 会津藩主で京都守護職だった、あの?」

「幕末の一部マニアに言わせると“新撰組”の雇用主よね。あとその新撰組も参戦していた鳥羽伏見の戦いでしたけれど、その時に幕府軍の一翼を為していた二藩が」

「なるほど、会津藩と桑名藩、というわけですわね? すると容保氏と今回登場した定教氏の兄弟は揃って“朝敵”ということにされたと?」

「それでいて“高須四兄弟”の残りの二人、尾張藩主徳川慶勝と尾張藩主を務めた後に、慶喜を継いで一橋家を相続した徳川茂栄は朝廷側について実質的な“幕府の葬儀委員長”になってしまったというのは皮肉なもんさね、というのは父様の言い草だけど。

 徹底抗戦派の二人と恭順派の二人。それでいてちゃんと明治維新後も四人とも、その本来の心持ちがどうだったとしても、無事に生き延びたというのも凄いと云えば凄いと思う」

「今回登場した定教氏のプロフィールはこれですわね? 

 なになに『18の歳に京都所司代に任命され、禁門の変では会津藩とともに長州藩の兵を撃退、水戸天狗党の乱にも出兵。鳥羽伏見の戦いの後、慶喜と共に江戸に戻ったが徹底抗戦を主張し、登城禁止処分に。しかしその場から逃げ出し、北越戦争、会津攻防戦に参加。最後は榎本武揚と共に函館まで向かうが、家臣の説得に応じて降伏』 なんなんですの、この“波瀾万丈”を地でいく人物は?」

「それでいて、後世の歴史家からも歴史小説家からも好かれていないけどね。何か人間として欠点でもあったのかしら? でもクララの日記を読んでいる限りは“いい人”なんだけど」

「考えてみますと、これだけ激動の人生を歩んできた人物が、まるで“人畜無害”にしか見えないというのも色々な意味で恐ろしい気が致しますわ……」

「……もっとも、汚れ仕事や後始末は高木氏がやってたみたいだからね。これについてはまた後日」

「で、もう一方の、というより本日の大本命の福沢氏のことなのだけど?」

「…………………………………(怒)」

「? 一体どうしましたの、そんな怖い顔をして?」

「……(ボソッ)島原藩藩邸一万四千坪の土地と七百六十九坪の建物」

「あの……逸子? 他に云う事は?」

「……これ以上は云わない。もっとあるけど云わない。でないと、父様がぶち撒けなかったこと、全部ぶち撒けちゃいそうだから」

「……なんだか複雑な事情があるみたいですわね。福沢氏については逸子はノーコメントということのようですから、こちらもまた後日」

「……お金、無心、三田の土地、明治十一年……」

「逸子! 自分で戒めておきながら、口に出てますわよ、口に!」

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