サイレンの魔女

 ロンドンは今日も霧深い。


 ロンドン橋の上から見下ろすテムズ川も重たい霧に包まれ、眼下の川面がぎりぎり見えるか見えないか、その先は完全に白の面色に支配されている。

 そんな霧の中に二人の人間が立っていた。

 数分の間沈黙だけがその場を支配していたが、唐突にコートを羽織った男が口を開いた。

「謎かけをしよう」

「また探偵様の気まぐれが始まったな」

 探偵の横に立っていた作家はあからさまに眉を顰めた。コートの探偵が構わず言葉を続けようとするのを慌てて遮って、作家は言った。

「おいおい、謎を解くのがベイカー街の名探偵の仕事だろう。私の仕事ではない」

「私は己自身の内から湧き出てくる探究心に忠実であり、それ故にこの仕事をしているだけだ。今は、君がこの謎にどのような答えを出すか、ということが一番知りたいことだな」

 ―なんてわがままな。

 作家は舌打ちするも、その思いは男には届くまい。この男が冷静にして沈着、優れた判断力を持つ天才だということは彼を知る者全員が理解するところだが、とてつもなくわがままな男であることも周知の事実だ。

 この男に普段から振り回されている友人の人のよさを考えると同情の念も湧きそうなものだが、近頃作家は探偵の友人である例の医師に、どうも被虐欲の気があるのではないかと疑っている。

「……君、全く関係のないことを考えているな」

 ともあれ名探偵は作家の目が泳いでいることを見逃さなかった。作家は慌てて意識を探偵に戻して言った。

「あぁ悪い。で、謎とはどういうものだ」

「既に君も知っているとは思うが、三日前、ある女がこの橋から川に飛び込んだ」

「歌姫か」

 そのくらいは作家も知っている。ロンドン中でも今一番のニュースだ。

 三日前、とある名高い貴族の寵愛を受けていた歌姫が逃げ出した。それ以前までに歌姫に異変は見られず、あまりに突然の出来事だった。逃げ回った末に辿り着いたのがこの橋の上であり、そのまま歌姫は迷わず川に飛び込んだのだ。

「三日経ったが、彼女の死体は発見されていない」

「ほう」

「また、その時舟が通ったという記録もなく、おそらく助かってはいないはずだ」

「死体が浮き上がってこない要素というのはいくつかあるがな」

「その通りだ。私も、その歌姫が死んだことを疑う気はない。ただ」

 探偵は猛禽を思わせる目を川に向けて、言った。ちょうど、舟が橋の下を通るところだった。水面に飛沫がはね、霧の中に何とも不気味な音を響かせる。

「飛び込む前に、彼女は追ってきた主に向かって言ったそうだよ」


『さようなら愛する人、私は私の場所に帰ります』


「……なるほど、それが『謎』か」

 今まで仏頂面を守ってきた作家の表情が微かに歪んだ。笑顔と思えば笑顔のように見えたかもしれない、そんな奇妙な表情だった。

「その通り。私はこの事件に興味などないが、君がこの彼女の言葉にどう理屈をつけるのか気になってね」

「それほど暇なのか? 探偵様は私の話がお嫌いではなかったか」

「非現実に過ぎるからな。だが、時には君の物語が恋しくなる時もある」

「貴方らしからぬ言葉だ」

 ―冷徹すぎるほどに冷徹に、「現実」を見つめている探偵様には。

 そう思った言葉は口には出さなかった。己でも賢明だと思う。だが、それを言ってしまったら、非現実の物語を己の筆に託して書き続ける作家と、「現実」を求める名探偵は永遠に交わらなかったことになる。

 人と人との縁というのは、わからないものだ。

 作家は思いながら、探偵と同じように、眼下を流れる川を見る。

 探偵の謎に、何かしらの答えをつけなければならない。それは、別に真実である必要はない……ただ、作家が思うままの答えを、探偵は求めていた。

 しばし、二人は無言だった。川の流れる音だけが、霧の中から響いていた。

 どのくらいの時間が経っただろうか、明かりを映してゆらゆら揺れる川面を見つめていた作家が言った。

「歌姫は、サイレンだったのだ」

「サイレン?」

「セイレン、シーレーン、シレーヌ、ジレーネ……ギリシア神話における海神の娘だ。元々は妖鳥だが、近頃は水妖故に人魚やニンフとも同一視されるようだな。どれにせよ女の姿をして、船に乗る人間を惑わせる」

 探偵は微かに首を傾げたようだった。作家の言っていることがまだ掴めていないのかもしれない。作家は構わず言葉を続ける。

「そう、サイレンは歌で人の心を操る。貴族様が心を奪われたように」

「つまり、歌姫は人間ではなかったと?」

「人間に憧れはしたのだろうがな。そうでなければ、海を離れる必要もない。不自由極まりない人間という存在になる必要もない」

 本来サイレンには、空を自由に舞う羽も、海を自由に泳ぐ尾もあるのだから。

「アンデルセンの描く人魚姫の世界だ。泣かせる話じゃないか」

 探偵はアンデルセンの童話には興味がなかったと見え、不可解そうな表情を浮かべていたが、やがて大げさに息をついた。

「それが君の答えか」

「自分で聞いておいて、不満そうだな、探偵様」

「あまりに非現実に過ぎる。興が冷めたよ」

 言って、探偵は作家に背を向ける。作家も大げさな溜息を返して、苦笑いする。

「それを求めて聞いたのだろう」

「それはそうだが……あぁ、まだ一つ、答えを聞いていない」

 声の響きからすると、探偵は作家の方に振り向いたようだった。作家はすぐに探偵が言いたいことを察した。確かに作家は探偵の問いに一つだけ答えていない。

「彼女が川に飛び込む直前の言葉をどう考える?」

 目の通らない霧に何かを見出すように、作家は虚空に目を彷徨わせる。

「さあ、それは歌姫にしかわからないが」

 作家はくくっと笑って、偉大なる探偵を振り返ることもなく、言った。

「きっと……突然、故郷の海が、恋しくなったのだろう」

「そういうものか」

「そういうものだ」

 霧に包まれた澱んだ川も、光溢れる海原に繋がっている。作家は言葉にこそしなかったが、広い海に生まれたサイレンにとって、晴れない霧に包まれたロンドンという町は息苦しすぎたに違いない。

 愛している者に永遠の別れを告げてでも、生まれた場所に帰りたくなった……愛する者に殉ずることを選んだ人魚姫とは異なる結末だが、そういうこともあるのだろうと作家は思う。

「君の言うことは、どうにもよくわからないな」

「わからなくて結構。私が貴方を理解できないのと同じだ」

「なるほど。それは一理ある」

 初めて作家の言葉を認めた探偵は満足げに帽子を被りなおすと、別れの挨拶もせずその場から立ち去ろうとする。作家も何も言わず川をじっと見つめていたが、つと視線を探偵が去り行く方に向けて呼びかけた。

「探偵様」

 既に探偵の姿は重たい霧に隠されて見えなかったけれど。

「そろそろ貴方も物語に戻ったらどうだ」

「大きなお世話だ」

 架空の探偵の返事は霧の中から聞こえた。作家はもう一度くくっと笑うと、一人きりでテムズの川面を見つめる。

 霧の奥、川の下流から聞こえてくるサイレンの歌に耳を傾けながら。


 ロンドンは今日も霧深い。

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