楽園は遥かに遠く
「この海の下に楽園があるんだって、皆は言うけど」
車椅子をぎぃと鳴らして、クリスタルは笑う。屈託なく、子供のように。いや、実際クリスの思考は子供のそれと何ら変わりがなかったのだが。
「海の下には楽園なんてないんじゃないかなあ」
窓の外に広がる雲の海を見つめて、いつものように呟く。私はそれを聞きながらいつものように気のない相槌を返す。ただ、クリスは私が話を聞き飽きていることなどには気づかず、長い腕を振って海を走る蛍光色の雲上バスに手を振っていた。バスの運転手である、私もよく知る少女……この少女はよく怪我をしてはこの病院に連れてこられる……がクリスに向かって手を振り返すのが、見えた。
このクリスタルという男が傷だらけでこの離島の病院に流れ着いてきてから数年。初めは記憶も言葉も失い、赤子同然だった彼も随分と回復し、今では毎日を楽しんでいるようだ。ただ、足の機能は失われたままであり、どこかに置き忘れてきた記憶も、未だ戻ってはいない。
無理に思いださせるつもりも、私にはない。忘れるべき記憶だったのならば、思い出す必要もないだろう。
もちろん、今はクリスタルと呼ばれているこの男が本来どのような名前で、どこから来て、家族はいるのか、それらを知りたいと思わないでもない。だが数年前クリスが病院に来てから今まで、クリスの過去にまつわる情報は一つも入ってきていない。彼を探している、という人間にもお目にかかったことはない。
唯一、過去の手がかりとなりそうなものは、彼が流れ着いた時に握り締めていた、六角の透明な石。これは古代の文献によれば「水晶」……「クリスタル」と呼ばれる石で、とても珍しい石だ。
鉱物が絶対的に不足しているこの世界で完全な形の鉱石が見つかること自体、奇蹟に近いのだから。
彼自身、どうしてこのようなものを手にしていたのかは理解していないようだが。
故に「クリスタル」と呼ばれるようになった彼は、今もこの病院で暮らしている。彼が握り締めていた石は、ペンダントになって彼の胸元に輝いている。
「ねえ、先生」
「何だい」
クリスは無邪気な笑顔を浮かべて、私の白衣を引っ張る。
「昨日の話の続き、してくれるって約束したよね」
「ああ、そうだったな」
まだ診察開始までには時間がある。それに、診察時間になったとしても、こんな辺鄙な離島の病院に訪れる患者などそう多くない。それこそ先ほどのバスの運転手の少女のように島と島の間を駆け巡っているような人間でなければ訪れることはない。
私はクリスの車椅子の横に腰かける。
「昨日はどこまで話したかな?」
「世界の真ん中の国で、長老って人たちが雲の下の楽園を探しに行こうって決めたところまでだよ」
「そうだったな」
この世界が雲の海の上浮かぶ島だということは、皆が理解していることだ。だが、どこまでも広がっているように見える雲の海の下に何があるのかを確認した人間はいない。
故に、この世界には海底にまつわる数々の伝説がある。
曰く、雲の海を越えると鏡写しになったようなもう一つの世界が広がっている。曰く、暗闇に包まれた死後の世界が雲の下に存在する。
そして、昔からずっと語り継がれている伝説の一つが、「楽園伝説」。
この海の下には、この世界と違いどこまでも地面が広がっていて、緑に満ち溢れ、物に困ることもなく、人々は幸福に暮らしている、という。
それを確かめようと思ったのが、この浮島を含んだ海上世界全体を統べている、中央国家。そのトップである五人の長老が、雲の海を越えた海底調査を実施することになったのだ。
「その伝説を確かめるために、長老たちはまず、雲の海を越える船を作った。除幕式を見た弟によれば、とても硬く丈夫なバスのような形だと言っていたな」
「バスって、キリィが乗ってるような船のことだよね?」
キリィというのは先ほどバスの運転手をしていた少女の名だ。私は嬉しそうに笑うクリスに向かって笑い返してやった。
「そうだ。それで、長老の手によって、海底探索隊が選ばれた。誰もが、この世界の中で指折りの勇者だった。特にクラウド隊長は、私も実際に顔は見たことが無いが、かつて起こった戦争で大活躍をした、若いが腕利きの船乗りだった」
「戦争? 戦いがあったの?」
「そうか、クリスはそれも知らなかったっけな。まあその話は後にしよう。クラウド隊長率いる海底探索隊……エデンシーカーと呼ばれたのだが、彼らは船に乗り込んで、雲の下を目指した」
その時は、電波放送のニュースもひっきりなしにエデンシーカーの話ばかりをしていた気がする。当時首都の学校に通う学生だった私にとっては夢のような話で、友人と憧れを交えて雲の下に夢を馳せていた。
楽園なんてない、と主張するクリスもまた、この手の「冒険譚」には興味があるのだろう、目を輝かせて話の続きを促す。
「それで、その……エデン、シーカーって人たちは何を見てきたの?」
「それが、わからないんだ」
「何で?」
クリスの疑問はもっともだった。しかし、私だけではない。それは、この世界に生きる全ての人間が、この疑問に答えられずにいる。何故なら。
「エデンシーカーは一人も帰ってきていないのだ。あれからもう十年近く経つのに、だ」
逐一電波通信で連絡を取っていたはずの探索本部は、ある地点からエデンシーカーの乗る船を見失った。また連絡も、途絶えた。
「海の仲を行くのも大変なことだった。底に行くに連れて雷が船を狙い、また冷たい大気がエンジンを凍らせようとした。それは、報告にもあることだ。そして、隊長からの最後の連絡は、『海を突破する』という言葉だったそうだ」
「じゃあ、エデンシーカーは、雲の海の先を見たんだね」
「ああ……多分な」
当然、それが真実かどうか確かめる術は、誰にもない。あれから、首都では第二、第三のエデンシーカーを送り出そうとする動きはあるが、実行には移されていない。第一隊が帰ってこなかった、ということが大きいだろう。
「でも、どうしてエデンシーカーは帰ってこなかったんだろう。先生は、どう思う?」
「どうだろうな。私は、やはり楽園があったと考えたいところだが」
クリスは私が言いたいことが理解できないのだろう、不思議そうに首をかしげた。だから、私は言葉を付け加えることにした。
「海の底には楽園があって、エデンシーカーは帰りたくない、と思うくらいの幸せを手に入れて生きている。そう考えた方がこちらも幸せだろう」
エデンシーカーの生存は絶望的。
そのような発表をされたのは、エデンシーカーが失踪してから一年後の話だった。海の底を突破する時にかかる負荷か、その先にあった何かが原因で、エデンシーカーは遭難した。そう、長老が結論付けたのだった。
エデンシーカーとして船に乗り込んでいた私の弟も、帰ってこないだろう。唯一の肉親である私にそう言ったのは、長老の一人だった。
だが、私は弟が死んだとは信じたくなかったし、今でも信じていない。それだけの話だ。
クリスはやはり不思議そうに私を見ていたが、やがて、こくりと頷いた。いつものように、「楽園なんてない」と言わなかったのは、きっと私の言葉に含まれた何かを感じ取っていたからだろう。
「先生、診察の時間です」
この小さな病院で働いている唯一の看護婦ファナが、私を呼ぶ。私は立ち上がると、クリスの頭を軽く撫でてやった。
「では、話はここまでにしよう。クリス、今日は誰と遊ぶんだ?」
「今日はキリィと遊ぶ約束をしてるんだ。朝のお仕事が終わったら迎えにくるって」
「そうか。怪我をしないように気をつけろよ」
「わかってるよ」
クリスは笑顔で私を見送る。私は部屋を出ると、寂れた診察室に移動した。どうせ今日も来たとしてもはしゃぎすぎて怪我をしたキリィか、ここの浮島群に住んでいる誰かが風邪を引いたとか、そのくらいだろう。私は机に肘をつき、電波放送の電源を入れる。首都から遠く離れたこの場所では電波の調子が悪く、なかなか上手く受信してくれないのが悩みだ。
しばらくつまみを適当に動かすと、やっとざあざあというノイズが消えて、はっきりと声が聞こえるようになった。
『……速報です』
「うん?」
その時、唐突に飛び込んできたのは、ニュースキャスターの慌てたような声。私とファナは顔を見合わせて、放送に耳を傾ける。
『第一次エデンシーカーの船が、首都南の海岸に流れ着きました』
私は息を飲んだ。
まさか。
今になって?
『船は大破し機能を停止していて、乗組員は船の中で、白骨死体で発見されました』
「……っ」
思わず、全身から力が抜ける。
今更、私から最後の希望まで、奪おうというのか。横にいたファナが崩れそうになった私の身体を支えてくれた。
『また船内には銃撃戦の跡が見られ、死体に銃で撃たれたような痕跡が残っていることからも、乗組員同士の抗争があったと見られています。詳しい情報が入り次第……』
「抗争……? 乗組員同士で?」
何が何だか、わからない。
一体、エデンシーカーは何を見たというのだ?
「……大丈夫ですか、先生」
「ああ、大丈夫、だ」
本当は全然大丈夫でもなんでもないが、ファナを心配させるのも悪い。軽く頭を振ると、放送機をもう一度見やる。今はまだ詳しい調べはついていないようだが、すぐにでも続報が入るだろう。ファナも驚きの表情を浮かべながら、じっと放送機を見つめていた。
どの位待っただろう。
放送機の向こうのニュースキャスターが、今度は厳かな口調で言った。
『政府の発表によると、乗組員二十人のうち、発見されたのは十九人』
一瞬、その言葉に微かな希望を抱き。
『身につけていたものなどから判断したところ、エデンシーカー隊長、クラウド大尉の行方が不明となっているようです』
直後それもまた潰えたことを、知る。
ああ……もう、絶対に戻らないのだ。笑って海に旅立っていった、弟は。
『また、船内に残されていたクラウド隊長の航海日誌が一部公開されました。これから読み上げるのは、今から六年前の創世暦五六七年八月三十日に書かれた記述です』
もはやほとんどまともな思考の残っていない頭で、私は流れてくる声を聞き流すことしかできなかった。
この日誌を開くのも、何年ぶりだろう。
私は、もう動かなくなった仲間に囲まれてこの日誌を書いている。
もしこれが誰かの目に付くことがあったとしても、その頃にはこれを書いている私もやはりこの仲間たちと同じ場所にいるだろう。
この日誌が奇跡的に誰かの目に晒される可能性も考え、以下にこのような状況になった顛末を記しておこうと思う。
結論から言うと、我々は雲の海を越えた。
そして、その先にあるものをはっきりと目にした。
だが、私はここで見たものを報告することはできないと判断した。報告すれば、それはこの世界を揺るがすことになるだろう。
もちろんこの判断を誰もが不服とした。大発見を伝えることこそが我々の任務であることは確かであり、彼らの言い分は正しい。
しかし、私は現在の世界を愛していた。この世界を混乱に陥れることは、私の望んでいたことではない。
知る必要のないこともあるはずだ。この世界には、誰も知らなくていい、そういうこともあるのだ。
私の言葉に賛同するものと、反対するもの。エデンシーカーは二つに分かれた。やがてそれは船内の抗争となり、私以外の全員が銃撃戦の中死んだ。
銃の弾は尽き、これを書いている今でも、血は止まらない。私も今から彼らの後を追って雲の海に旅立とうと思う。
我々の行き着く先が、夢見た楽園でありますように。
――K・クラウド
『長老会議は、以上の航海日誌の内容を受けて第二次エデンシーカーの派遣を検討しているようですが、反対意見も多く……』
何て馬鹿らしい結末だろう。私は今まで以上に重たい気分でその淡々と読み上げられた言葉を聞いていた。そんな馬鹿な争いで弟は死んだ。エデンシーカーは破滅した。英雄と称された隊長もまた、雲の海へと消えた。
『……また、行方不明のクラウド隊長を捜索する船団も雲の海に派遣されています。この記述によれば隊長は六年前のこの日誌を記した当時、瀕死の重傷を負っていたと見られ、生存の可能性は低いとされていますが……』
……?
何かが、引っかかる。
六年前。
その時、私は――
「まさか」
思い当たった記憶に、思わず、乾いた笑いが漏れる。それこそ、馬鹿な話だ。もし自分の想像が当たっていたとして、何故今まで誰もそれに気づかなかった?
「……先生?」
唐突に笑い出した私に驚いたのだろう、ファナが目を丸くする。私は軽く手を振って、言った。
「何でもない。まあ、一つだけはっきりわかったことは……海の下に、楽園なんて存在しないということだ」
弟たちエデンシーカーが見たのは、この世界を揺るがす巨大な何か。楽園などでは、無かったのだ。
言いながら、私の頭の中に響くのは『楽園なんてない』と繰り返す無邪気なクリスの声。
もしかすると、初めからクリスは窓から見える雲の海に、私とは違うものを見ていたのではないだろうか。雲の海からやってきた、あの男は……
「先生!」
私の思考を遮るように、盛大な音を立ててドアが開く。入ってきたのは、髪の毛をピンク色に染めた少女……この病院の常連にしてクリスの友人であるキリィだった。
「ここは病院だ。ドアの開け閉めは静かに。それと大きな声も立てるな」
「悪ぃ悪ぃ。クリスは?」
「ああ、奥にいるよ。呼びに行ってやってくれ」
私はちょいちょいと奥の扉を指した。キリィも慣れたもので、「はいよ」と奥の部屋へと向かう。キリィがクリスの車椅子を押して部屋から出てくる前に、私は放送機の電源を切った。
私が放送機の電源を切るのと同時に、キリィとクリスは楽しそうに言葉をかわしながらこちらにやってきた。
「なあ、クリス、聞いたか、大ニュース!」
キリィは可愛らしい顔に似合わぬ乱暴な男言葉でクリスに言う。クリスは「何のこと?」と何が何だかわからない様子で首を傾げる。
「エデンシーカーの船が見つかったって話だよ! もうどこの放送局もその話題だ」
「僕、ニュース聞いてないしなあ」
「何だ、それじゃあこのキリィ姉さんがいろいろとレクチュアして差し上げようじゃねえか」
「やったあ。ねえ、今日もバスに乗せてくれる?」
「もちろん」
何も知らない二人は、私の横をすり抜けて外への扉に向かう。
だから、私は彼らが外に出て行く前に、言った。
「クリス」
「何、先生」
クリスは笑顔でこちらを振り向く。首にかかる、水晶のペンダントが、揺れる。
どこで手に入れたのかはわからない、絡繰仕掛けのこの世界で掘り出されるはずのない、透明な石のペンダントが。
私もクリスに合わせてほんの少しだけ笑い、言った。
「雲の下に楽園がないのだとしたら、お前はどこに楽園があると思っているんだい?」
私らしくもない、脈絡のない唐突な質問だったな、と言ってから思う。クリスも突然の問いに驚いたのだろう、色の薄い眼を見開いていたが、やがて笑顔を取り戻して言った。
「僕は、ここが楽園なんじゃないかなって思うんだ」
「何?」
「だって、先生と、ファナさんと、キリィがいて、毎日が楽しいもん。楽園って、とっても楽しくて幸せな場所のことでしょ?」
それは、問いに対する正確な答えになっているのか否か、私にはわからなかった。ただ、何となくではあるが、それがクリスと……絶望のうちに最後の言葉を記した一人の船乗りが導き出した、一つの答えであるように思えた。
『私は、現在のこの世界を愛していた』
愛していたからこそ、何も語らないことを選んだ。そして、口を閉ざしたまま雲の海へと消えた、一度も見たことのないはずの船乗りの姿が脳裏に閃いて消える。
「……そうか。悪いな、引き止めて。楽しんでこいよ」
「うん。行こう、キリィ」
「合点でぃ」
二人は病院の外に停めてある蛍光色のバスに向かって駆け出す。背の低いピンクの少女と、車椅子に乗った大きな男というちぐはぐな二人。
開きっぱなしになってしまった扉の前に立って、私は思う。
きっと、私はあの日誌を記した船乗り……クラウド隊長を馬鹿だと笑うことはできない。
知りたいと思うこと、伝えたいと思うことは罪ではない。だが。
クラウド隊長の言うように、何も知らなくていい。知るべきではない……確かに、そういうこともあるのだと、確信する。
これ以上私の側から何かが奪われることがないように。
クリスとキリィと自分たちが、笑い合っていられるように。
「楽園」がいつまでも続くように。
風の渦巻く青い空の下、声を上げつつ遠ざかるクリスとキリィの背中を見ながら、ただ、そんなことを願った。
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