少女と少年と闇の向こう

 城の中は、ブランから聞いていたとおり荒れ放題だった。

 窓から差し込む光以外に光源などなく、奥に進めば闇が世界を満たしている。セイルとスノウは各々の魔法で明かりを灯して、手探りで前に進む。初めは舞台から聞こえてくる楽団の演奏や人の声が聞こえていたけれど、それももう、聞こえない。

「ブラン、大丈夫なのかな」

 セイルが、背後を振り返ってぽつりと呟く。スノウは、小さく頷いてみせた。ブランが無事に役目を果たしたことは、スノウに伝わっている。後は自分が青い薔薇を見つけるだけ。

 けれど、それが何処にあるのかはわからない。人が立ち入ることの出来ない城の奥であることだけはわかっているけれど。

 城の中に入ってしまえば、見つけられると思っていた。何故か、そう思い込んでしまっていた。けれど、流石に魔王イリヤを守っていた城だけはある。その構造は複雑で、それでなくとも広い。自分が何処を歩いているのかも、よくわからないのだ。

 自然と、セイルの手を握る力が、強くなる。そして、セイルの手の温かさと握り返してくる指先を感じて、少しだけ心の中に満ちていた不安が和らぐ。

 もし、もしも、だ。

 一人きりでこの場に足を踏み入れたとしたら、自分は既に足を止めてしまっていたかもしれない。闇の中、不安に負けて、青い薔薇を探すことを諦めていたかもしれない。

 けれど、今はこの手を握っていてくれる人がいる。それだけで心に勇気が沸く。大丈夫、と思うことが出来るのだ。

 この手の温もりが、反面、スノウの心を引き止めてしまいかねないものであることも、否定は出来なかったけれど。

 その時。

「……うわっ!」

 セイルが突然、スノウの手を引いたまま盛大に転んだ。スノウもつられて膝をついてしまう。

「だ、大丈夫、セイル」

「いたた、何か踏んだみたい」

 セイルが、指先に灯していた光を足元に向ける。そこには、何かうっすらと白いものがばらばらと散らばっていた。

 ――骨。

 自分とは違う誰かの記憶が頭の中に閃き、頭が鈍く痛む。これは何かの骨だ。誰かの、骨だ。セイルがひゅっと、息を飲んだのがスノウにも伝わった。そうと気づいてしまうと、にわかに恐ろしくなってくる。魔王イリヤは人殺しを好まなかったという。だが、イリヤが行使する『悪魔』たちが楽園に破壊と混沌をもたらした、その事実は事実としてそこにあって……

「す、スノウ、怖くない?」

 セイルの声が、少しだけ震えている。「怖くないよ」と答えてみせる自分もまた、少しだけ震えていた。

 怖くないなんて、嘘だ。本当は、とても怖い。この闇が、静寂が、自分を押しつぶしてここに転がる骨のようにしてしまうのではないかという嫌な想像が、頭の中を駆け巡る。

 それでも、退くわけにはいかない。やっとここまで辿り着いたのだ、せめて、自分が目指すものが存在するのか、しないのか。それだけでも、確かめなければならない。

「立てる?」

「うん、平気。ちょっと擦り剥いたくらい」

 セイルは勢いよく立ち上がる。その膝は少しだけ擦り剥け血が滲んでいたが、セイルは「このくらい、何ともないよ」と笑った。早く先に進もうというセイルの言葉に従って、二人はゆっくりと、先ほどよりも慎重になって歩いていく。

 かつ、かつ、かつ。

 二人分の足音が、響き渡る。

 今、何時だろう。こんな闇の中では時間の感覚も狂ってしまう。すると、遠く離れたブランが正確な時間を教えてくれて、思ったよりも時間が経っていないのだ、ということに驚く。

 じりじりとする気持ち、恐怖に潰されそうな心。自然と呼吸が速くなり、胸の苦しみを思い出す。

「スノウ?」

 セイルが、スノウの異変に気づいたのか、不安げな声を立てる。スノウは深呼吸を一つして、正しい呼吸を取り戻す。焦ることは無い、それはわかっているけれど――

 その時、視界に銀色が閃いた。

 スノウは息を飲んで視線をやる。銀の蝶……イリヤが、呼んでいる。心が求めるまま、スノウは蝶のいる方向に駆け出した。セイルの手を離してしまったことにも気づかぬままに。

 ――待って。わたしを、連れて行って。

 声にならない声で喘ぎながら蝶に手を伸ばそうとして、刹那、その腕が何者かに強く掴まれた。走る痛み、引き寄せられる体。

「見つけたぞ、『知恵の姫巫女』」

 耳元で囁かれる熱い吐息交じりの声は、スノウの知らないものだった。首に腕が回され、呼吸もままならない。ただ、焦るブランの意識が伝わってきて、これが自分を追っていた『エメス』の残党だということだけは、わかった。

 何のために、自分を探していたのか? 簡単だ。『知恵の姫巫女』は楽園の秘密を記憶する存在だ。その彼女を手中に収めれば、神殿に対して圧力をかけることなどわけも無いこと。

 そのくらいは、スノウにだってわかっていた。だからこそ、自分は神殿から外に出ることを許されていなかった。今まではそれでもいいと、思い極めてすらいた。

 けれど、けれど――!

 スノウは、足を大きく後ろに振って、自分を拘束する男の脛を強く蹴り飛ばした。スノウが抵抗するとは思わなかったのか、男は「ぎゃっ」と叫んでスノウを抱く手を緩めた。スノウはそのまま男の手をすり抜けて、駆け出そうとする。

 だが、男はすぐにまたスノウを捕らえようと動き出す。もう一度捕まってしまえば、今度こそ逃げられない……唇を噛んだ瞬間、横からセイルが男に体当たりを仕掛けた。

「スノウ、逃げて!」

「邪魔だ、ガキがっ!」

 男は軽々とセイルの体を受け止めて、そのまま投げ飛ばした。セイルの小さな体が、壁にぶつかってずるずると崩れ落ちる。

「セイル!」

 スノウは悲鳴を上げた。セイルは致命傷こそ負っていないようだが、激しく咳き込んでその場からすぐには立ち上がれずにいる。そして、男はセイルには構わず真っ直ぐにスノウに向かって手を伸ばしてくる……

 スノウは、男の血走った瞳を見据えながら、「ああ」と喘ぐ。

 こんな結末を迎えるくらいならば、神殿を出なければよかった。そうすれば、ブランに罪を着せることなく、ライラを悩ませることもなく、セイルをこんな目に合わせることだって、無かったはずだ。

 自分一人のわがままが、最悪の事態を招こうとしている。それなのに、自分は恐怖で立ち尽くすことしか、出来ない。出来ないのだ……!

 その時。

 銀光が閃いた。イリヤの蝶が放つ頼りない光とはまた違う、鋭い銀の閃光が、スノウの瞳に焼きつく。

 男が大げさな悲鳴を上げる。見れば、スノウに迫っていた男の肩口から、血が噴き出していた。そして、闇の中でありながら眩く輝くそれが何であるのか、スノウにもやっと理解できた。

 それは――槍、だった。

 女神の祝福を受けた、聖別の槍。女神ユーリスに仕える者のみが持つことを許される、闇を払う武器だ。

 そして、それを持つ者の姿が闇の中に浮かび上がる。太陽の光を束ねたような金色の髪を薔薇飾りで結い上げた騎士は、飴色の瞳を鋭く吊り上げ背筋を伸ばして立っている。

 それこそ絵本で見た聖女のように、凛として、気高く。

「ライラ!」

「行け!」

 ライラの声は、闇の中に響く鐘の音。

「私はあなたの笑う未来が見たい! だから、行け、スノウ!」

 ライラ……!

 スノウは、目の中に涙が溜まるのを感じていた。寂しい、けれど、嬉しい。そんな不思議な気分が胸いっぱいに広がって、胸を締め付ける。

 そんなスノウの手を、いつの間にか立ち上がっていたセイルが強く引いた。

「スノウ!」

 スノウは涙を拭いた。ライラが身を張って、自分を守ってくれている。ならば、自分はライラの言うとおり、未来に向かって走り続けよう。それが、今の自分がライラに対して出来る、唯一のことだ。

 一瞬だけライラを振り返り、お互いに頷き合って。

 今度こそ、スノウは駆け出した。背後に響くのは、男の咆哮と槍が風を切る音色。けれど、もう振り返らない。

 そんなスノウの目の前に、ふわりと銀色の光が生まれる。銀色のアゲハ蝶は、闇の奥に向かって飛んでいく。ふわふわと頼りなさげに、しかし確かに。二人はその蝶を追うように走る。

 息が切れる、足が震える。不安や恐怖に押しつぶされそうな心が、体にも影響を及ぼしているように思える、それほどに苦しい。それでもスノウは足を前に進める。前へ、前へ。その先に、自分の未来があると信じて。

「導いて、イリヤ……あなたの元に!」

 その瞬間、視界が光に満たされた。

 目を焼くほどの強い光に、思わず目を手で庇う。手を握ったままのセイルも「うわっ」と声を上げた。やがて目が光に慣れてきたのを感じて、ゆっくりと目を開けて……

 スノウは、見た。

 光に満ちた世界の、一面の、青を。

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