少女と記憶

 大丈夫か、と問う声がした。

 スノウははっとして顔を上げる。そこには、金色の髪を薔薇の髪飾りで結った少女……神殿の神聖騎士であり、スノウの友であるライラが立っていた。スノウは「平気だよ、慣れちゃったもん」と笑う。

 ただ、スノウの体は寝台の上にあった。平気だと言ってみせたけれど、胸を締め付ける痛みは決して慣れるようなものではない。そして、日に日にその痛みが増していることにも、自分自身で気づいている。

「……医者は、何と言っている?」

 ライラはともすればきつく聞こえる口調でスノウに問うたものだった。だが、別にスノウを責めているわけではなく、単にライラは普段からそういう喋り方なのだ。

 今は何処までも慇懃な態度を崩さないライラだが、「あの頃」はこうやって、ごく普通に言葉を交わしていた。今となっては、それはずっとずっと、遠い記憶のようだったけれど。

「お医者さんでもよくわからないみたい。でも、人にうつるような病気じゃないって言ってた。だから、ライラは心配しなくていいよ」

「そういう問題じゃない。スノウが無事かどうか、それが聞きたいんだ」

 ライラは切なる思いを瞳に込めてスノウを見つめる。スノウは、その飴色の瞳を真っ向から見つめ返しながら、それでも力なく微笑むことしかできない。

 本当は、この時にはもうわかっていたのだ。何もかもが。

 けれど、ライラには何も言えなかった。言葉を紡ごうとしても、頭の中に渦巻く感情が上手く言葉に出来なくて。そのまま、不安げにこちらを見つめるライラの瞳を受け止めることしか、出来なかったのだ。

「大丈夫。大丈夫、だよ」

 結局、スノウに言えたのは、この言葉だけ。

 もちろん、ライラがその言葉を鵜呑みにしたわけではなかったと思う。けれど、「大丈夫」と言ったスノウがその言葉を翻さないことも、誰よりもよくわかっていたはずだ。だからだろう、ライラはほんの少しだけ鈍く微笑みを見せた。それから、そっとスノウの小さな手に、何かを握らせたのだった。

 それは、柔らかな糸で織られた、長い緑色のリボンだった。

 不思議に思ってライラを見上げれば、ライラは「今日が誕生日だっただろう」と言った。孤児であるスノウは、自らが生まれた日を知らない。だから、神殿に拾われたその日を「誕生日」としていたのだ。そしてスノウは言われたその瞬間まで、今日が誕生日であることを全く意識していなかった。

「スノウが元気でいられますように、何があってもその身を守ってくれますように。気に入ってくれればいいけれど」

 緑は世界樹の色。楽園を、そこに生きる者全てを守る色だ。女神に仕える騎士たるライラらしい選択だと思う。そう思うと、嬉しいという感情と同時に、何故か胸を締め付けられるような感情に囚われた。

 スノウはリボンを握り締め、ライラを見上げて。

「ありがとう、嬉しい」

 その瞬間に――涙が零れたことを、覚えている。


 スノウの意識は、瞼の上に降り注ぐ光を感じてゆっくりと浮かび上がっていく。

 うっすらと目を開ければ、黒く大きな双眸がこちらを覗きこんでいた。

「……セイル」

「おはよ、スノウ」

 セイルは顔一面に安堵の表情を浮かべて、声をかけてきた。スノウは「おはよう」と答えながら、昨日よりはずっと胸の痛みが軽くなっていることを確認する。微かに息が詰まるような感覚はあるけれど、それはもはやいつものことだ。

 体を起こそうとするスノウだったが、セイルが「あ、寝てていいよ!」と慌てて押しとどめようとする。

「まだ具合よくないんでしょ? 無理しちゃダメだよ」

「ううん、大丈夫。いつもこうなの。心配かけてごめんね」

 言って、スノウは体を起こした。問題ない、体は微かな重さこそ感じるけれど、正常に動く。

 ――まだ。

 頭の中で「彼」から自分が寝ている間のことを確認しながら、スノウは寝台の上に腰掛けたままセイルを見上げる。セイルは、不安をあらわにしながらも真っ直ぐにスノウを見下ろしている。その表情は、あの頃のライラに、よく似ていた。

 ライラも既にスノウの居場所を知っている。そう、「彼」が言った。スノウがどのような決断を下そうとも、残された時間は少ない……スノウが微かな息苦しさを感じて胸に手を当てた、その時だった。

「……あのさ、スノウ」

 セイルが、ぽつりと言葉を落とした。

「それは、大丈夫って言わないよ。そんな辛そうなのに『大丈夫』だなんて、やっぱり変だよ」

 スノウは、思わず目を見開いてしまった。セイルは、ぽつりぽつりと、しかしあくまではっきりスノウの耳に届く声で言う。

「スノウは、無理してるとは思ってないのかもしれないけど、さ。俺から見ると、すごく無理してるように見えるんだ。きっと……無理することが当たり前になっちゃってるのかな、って」

 言ってから、セイルはくしゃりと表情を歪めて、「ごめん」と頭を下げた。

「俺、変なこと言ってる。スノウが思ってることも知らないのに、こんなこと言っちゃいけないよな」

 だから、と言ってセイルはスノウの手を取った。セイルの手は、小さいけれど確かな温もりに満ちていた。

「だからさ、今度は俺からのお願い。スノウのことを教えて欲しいんだ。どんなことでもいいから、少しでもたくさんスノウのこと、知りたいんだ」

 何も知らないままは、嫌だから。

 セイルの声には、何処までも真っ直ぐな気持ちが乗せられていた。

 ああ。

 スノウは思わず小さく声を上げていた。

 胸が苦しい。けれど、それはいつもの病によるものではない。とても温かくて、だからこそ切ない感情が胸を締め付ける。それに気づいた瞬間、あの時と同じように、意識せずともスノウの瞳から涙が零れ落ちていた。

 スノウの涙を見たセイルが慌てた。何処か悪いのか、痛いのかと矢継ぎ早に聞いてくるセイルに、スノウは首を横に振ってみせる。

「ううん、違うよ」

 セイルの真っ直ぐさが優しくて、眩しくて。

「自分でもよくわからないけど、あったかいの。ここがね、ぎゅっとするの」

 スノウはセイルの手を自分の胸に導いた。心臓の鼓動、息遣い、その全てがまだこの場所にある。セイルは目を白黒させて、スノウを見上げている。

「スノウ……」

「本当は、わたしからお願いすることだね」

 きっと、最初で最後だから。

 言って、スノウは目を伏せた。頬を伝う雫を拭うこともせず。

 そう、この旅は何もかもが最初で最後。

 だからこそ、どうしても伝えたいことがある。最初で最後の、神殿の外で出来た友達に。立場やしがらみに縛られることを知らず、迷いもなく自分の手を引いてくれたセイルに。

 話したとしても、セイルなら最後まで変わらないでいてくれるから――そんな確信の元に、スノウは唇を開く。

「聞いて欲しいの。わたしのこと……それから、青い薔薇の話」

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