Chapter 3:The Definition of Happiness
少年と寮での出来事
卵ってさ、生まれるまで何の卵かわからねぇだろ?
そんな不思議で、小さい、暖かな白。
それがガキの俺には、凄ぇ大きいものが包まれてるように見えたんだ。
俺の組織からもこの卵のように、たくさんの夢や、喜びや、未来が生まれるように。
楽園の全てに自分の幸福が訪れるように。
そんな願いを込めて、つけたんだ。
――「幸せの白卵」、ってな。
(一〇七〇年 相互扶助組織『幸せの白卵』首領ルネ・ベークマン)
セイルは朝食が終わった後も、椅子に腰掛けたまま天井の辺りに視線を彷徨わせていた。
「それにしても、昨日はびっくりしたね」
すぐ横で椅子に腰掛けているはずのクラエスの声すら、遠くから聞こえるような気がする。
「ユーリス本殿の騎士様が、あの子を迎えに来るなんて……」
そう、そうなのだ。
昨日、スノウを連れて寮に帰った後のことを思い出す。
あれからリムリカに事情を話し、すぐにスノウは部屋に運ばれた。医者を呼んだ方がいいとセイルとリムリカは言ったが、スノウは「いつものことだから」と頑として聞き入れなかった。しばらくすれば落ち着くから、と。
だが、その間もスノウは激しく咳き込んでは苦しそうに胸を押さえていた。やはり医者を連れてこようとセイルが決めたその時に、来客があった。
扉の向こうに立っていたのは、一人の女だった。女と言っても、スノウより少し年上といった程度だろうか、明るい金髪を束ね、野生の薔薇を思わせる薄紅の聖職服の上に白い鎧を身に着けた、まごう事なきユーリス本殿の神聖騎士だった。
騎士を今まで間近で見たことの無かったセイルは物珍しさもあって女を見つめていたが、何よりも驚かされたのは、ライラと名乗ったその騎士が「スノウ様はこちらにおられますか」と丁重な言葉遣いで、しかし有無を言わさぬ圧力をもって問いかけてきたことだ。
セイルは何故騎士がスノウを探しているのか、スノウを様付けで呼ぶのか、色々聞きたくもあったが、騎士の纏う雰囲気は硬く、口を挟む余地もない。呆然とするセイルに対してリムリカは、いつになく毅然とした態度で騎士に相対した。
「あの子なら具合を悪くして、奥で寝てるよ。それより一体、神殿の偉いさんがあの子に何の用だい?」
そう問うリムリカの言葉には棘があるようにすら聞こえた。だが、騎士はそれに動じた様子も無く、この場にいる全ての者の耳に届く声で言った。
スノウは楽園にただ一人しか存在しない、女神に選ばれし存在『知恵の姫巫女』であり、とある男に攫われてこの地まで連れてこられてしまったのだ、と。
『知恵の姫巫女』がどのようなものなのか、セイルはよく知らない。『巫女』が女神に一番近い存在という話は聞かされているが、その実態について今まで考えたことが無かったのだ。
自分はそのスノウを助け、神殿に連れて帰るためにここまで来たと騎士は言う。
だが、それはセイルにとっては奇妙な話だった。
スノウは、望んでこの町に来たのだと言っていた。「攫われた」なんて一言も言っていないし、騎士が言う「ある男」……ブランは頼まれてスノウをここまで連れてきたはずだ。
思わず首を傾げるセイルだったが、騎士は強い語調でスノウの身柄を引き渡して欲しいと言った。だが、リムリカは頑として騎士の言葉には従わなかった。スノウは今、動かせる状態ではないし、彼女の意見も聞かなければ自分からは何とも言えないと言い切ったのだ。
騎士は今まで眉一つ動かさなかった顔に、一抹の苦さを見せた。ただ、これ以上は交渉にならないと思ったのだろうか……「明日、スノウ様を迎えに来ます」とだけ言って去っていった。
結局医者を呼ぶことは出来なかったが、一晩明けてスノウの容態は落ち着いたようで、スノウの様子を見ていたリムリカが溜息混じりにセイルたちの座るテーブルのところに戻ってくる。
「全く、神殿の騎士ってのはどうも苦手だよ。二年前もそうだったけど、どうしてああも高圧的なんだろうねえ」
クラエスは髭を揺らして微かに苦笑する。
「あの時は仕方なかったと思いますけどね。それに、今回だって……『姫巫女』といえば神殿の重要人物なんだから、騎士様が慌てるのも無理は無いですよ」
「二年前?」
セイルはこの学校に入ったばかりの一年生だ、それ以前にあったことなど知るはずも無い。リムリカは「ああ、セイルは知らないんだったね」と微かに眉を下げて言った。
「十年くらい前にこの寮にいた子が、神殿に追われる身になっちまってね。ここにも、その子の手がかりが無いかって騎士が大勢押し入ってきたのさ」
学校の方にも、その時には多くの騎士が詰め掛けたらしい。ただ、騎士たちの捜査では大した情報は手に入らなかったようだけれど、とクラエスが付け加えた。
「とにかく、あたしゃ騎士って奴が苦手なんだよ。あの子も攫われたようには見えないし、案外堅苦しいのが嫌で抜け出してきたんじゃないかねえ」
そう簡単なものでもないと思うけど、とクラエスは苦笑する。リムリカももちろん本気で言っているわけではないのだろう、そりゃあそうさと言ってスノウが眠っている扉を見つめた。
セイルの視線も、自然とスノウの部屋に向けられる。
あの時のスノウの症状は、セイルの目から見てもまともではなかった。スノウ自身が言うとおり、すぐに収まりはしたようだったけれど……いつ、また同じようなことになるかは、わからない。
――スノウに、話を聞きたい。
セイルは、思った。もちろん、やっとのことで眠りにつけたスノウを起こしてまで聞きたいというわけではなかったが、なるべく早く、スノウと話をしたい。そう思った。
何故かはわからないけれど、これを逃したら二度と本当のことはわからない。そんな確信にも似た思いがセイルの脳裏に浮かんだのだ。それは、今日も見た青い薔薇の夢が、不意に脳裏に蘇る感覚に似ている。
そういえば、あの青い花畑に立っていたのは、スノウだった気がする。
日に日に色鮮やかになっていく夢の中、こちらを振り向いた黒髪の少女の姿がセイルの目蓋に焼きついて、離れずにいる。
けれど、その少女がどんな顔をしていたかだけは……どうしても、思い出せなかった。
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