少年と少女と影、そして
それから、セイルとスノウは部室のソファに並んで座り、色々なことを話した。
と言っても、スノウにせがまれて、セイルが学校や寮の話をスノウに聞かせるばかりではあったけれど……話しているうちに、セイルはどんどん妙な気分になっていく。
その思いは、部室を後にした今になってもぐるぐると渦巻き続けている。
――スノウは、一体何者なのだろう。
セイルの話を、全てが新しいものであるかのように楽しそうに聞いているが、突然セイルの知らない難しい言葉を使ってみたり、スノウなら知らないだろうとセイルが話してみたことに対して、セイル以上の知識を披露してみせたりした。
学校に行っていないという言葉も気になっている。それならば、普段は何をしているのだろう。日焼けのあともない真っ白な肌に、柔らかい指を見ていると、もしかするととても育ちのよいお嬢様なのかもしれない。
スノウを見上げると、スノウは真っ直ぐに前を向いて歩いている。そのすっと整った輪郭が、西からの光に微かに赤く染まっていた。
ぐるぐる考え続けていても答えの出ないことだから、セイルは思い切って口を開く。
「あのさ、スノウ」
「なあに?」
スノウはきょとんと目を見開いてセイルを見る。
「スノウは、学校に行ってないって言ってたけど、それなら普段何してるの?」
セイルの問いに、スノウは少しだけ微笑んで言った。
「わたし? わたしはね、神殿で暮らしてるの」
「神殿って、センツリーズのユーリス神殿?」
「そう。わたし、お父さんとお母さんがいないの。それで神殿の人に拾われて、色んなことを教わってたの」
「あ、ご、ごめん。悪いこと、聞いたかな」
セイルは慌てて言ったけれど、スノウは「気にしないで」と変わらずに微笑む。
「神殿の皆がいてくれるし、あの人が色んな話をしてくれたから、寂しくないの」
「あの人って、さっきの黒い服着てた男の人だよな。あの人も、神殿の人なの?」
そうは見えなかったけど、と思いながらの問いかけに、スノウも「ううん」と首を横に振った。
「あの人は違うよ。わたしも、会ったのはついこの前だから」
セイルは、スノウの言っていることがさっぱりわからなかった。難しいことを言われたとは思わない、ただ純粋に意味がわからなかった。今まで色々な話を教えてくれたというその相手に、「ついこの前会った」というのはおかしいではないか。
「どういう、こと?」
セイルが改めて問う。スノウは、少しだけ困った顔をしながら唇を開いたが、その唇から声が放たれる前に、スノウの瞳がついとセイルからその背後に向けられる。セイルも視線につられてそちらを見れば、セイルの足元に伸びる長い影の延長線上に、黒い男が立っていた。
スノウを連れてきたという、あの男だ。
スノウは真っ直ぐに男を見据えたまま、何も言わない。その青い瞳に宿った戸惑うような色の意味は、セイルにはわからなかったけれど……その意味を深く考える前に、セイルはスノウを庇うように男の前に立ちはだかった。
どうしても、この男は気に食わない。スノウは悪い人ではないというし、実際に「悪い」わけではないのかもしれないが、セイルの心を否応無くざわめかせる。それは、この男を見る瞬間のスノウの表情に、一抹の影が走るからかもしれない。
男は微笑を浮かべたまま、それこそ辺りを包む空気のような冷たい色をした目でセイルを見下ろしている。セイルは両足に力を入れて、男を睨み返す。すると、男はふと唇を開いた。
「……なあに、さっきからそんなに俺様のことが嫌い?」
その声色は低くざらついていたが、思ったよりもずっと穏やかで、セイルは拍子抜けしてしまう。男は苦笑して一歩歩み寄ってきたかと思うと、セイルの頭を帽子の上からぽんぽんと軽く叩いてみせる。
「別に取って食いはしないわよ、お前さんのことも、スノウのこともね。だからそんなに睨みなさんな」
「や、やめろよっ」
セイルは慌ててその手を振り払いながらも、先ほど抱いたイメージと違う男の反応に戸惑っていた。さっき見たときには、もっと冷たく、無機質な感じに見えたというのに。男はこちらを見上げるスノウに対しても、セイルにしたのと同じようにぽんぽんと優しく叩いた。
スノウが、小さな声で何かを囁く。その言葉はスノウの横にいたセイルには聞こえなかったけれど、男には確かに聞こえていたのだろう。大げさに肩を竦めて溜息をつく。
「それはそこのガキにお願いすりゃいいだろうに。そこまでは俺様も請け負いかねるかなあ」
スノウはひゅっと息を飲み、唇を噛んで俯いた。男は不可思議そうに首を傾げ、目を見開いてスノウの顔を覗き込む。
すると、スノウはぱっと顔を上げたかと思うと、勢いよく男の頬を張った。
ぱあん、という高い音が、冷たい空気の中に響いた。
「馬鹿っ! もう知らないっ!」
セイルが目を丸くしていると、スノウは男に背を向けて駆け出した。セイルは「待って!」と叫んだが、立ち止まることもなくスノウは路地を曲がっていってしまった。慌てて後を追おうとしたセイルを、男の声が引き止める。
「心配すんな、スノウは迂闊に離れたりしないから。どうせすぐそこでふて腐れてるさ」
すると、セイルからは見えない路地の向こうから、小さく「ふて腐れてないもん、馬鹿」という声が聞こえてきた。ただ、その声が微かに湿っているように思えて、セイルはどうしていいかわからなくなる。
叩かれた頬をさすりながら、セイルの横に立ってスノウが消えた方向を見ていた男は、淡々と言った。
「泣き顔は見られたくないってさ。しばらくは放っておいてやってくれ」
「え?」
「スノウが」
まるで、スノウの心を読んだかのような言葉に、セイルは驚いて男を見上げた。男はスノウに叩かれる前と変わらぬ薄い笑みを浮かべている。
一瞬不気味に思ったが、そういえば今までのスノウも言葉を放たない男の意図を正確に受け止めていたようだった。それはセイルの目から見る限り魔法なんかではない、もっと違う「繋がり」のように見えた。
戸惑いながらも、セイルは一つ一つ、疑問に思ったことを男に聞いてみることにした。先ほどまではただ一方的に嫌な奴だと思っていたけれど、今は不思議と素直に聞けた。
「スノウ、さっき何て言ってたの?」
「ん、大したことじゃねえよ。『一緒にいて』ってさ。寂しいってのはわからないでもないけど、何も俺様じゃなくてもいいと思わない?」
何を言っているのだろう。
セイルは思う。
この二人の関係をよく知らないセイルにだって、言葉の意味も、何を求めているのかもすぐにわかる明快なお願いだ。セイルが理解できなかったのはただ一つ。
スノウがそう言った理由と真意を、何故「この男が」わかっていなかったのか、という一点だ。
「それは、殴られても仕方ないって」
「何故?」
男はきょとんとした表情で首を傾げる。その問いに、更にセイルは混乱した。
セイルの目の前にいるのは頭一つ以上背の高い大人の男だというのに、そんな当たり前のことに対して「何故」と投げかけてくるその姿を見ていると、実家にいる幼い自分の弟を見ているような錯覚に陥る。
一体、どう言えば伝わるのだろう。少ない語彙の中から何とか言葉を拾い集めて、セイルは口を開く。
「スノウはさ、『あなた』と一緒にいたかったんだ。そういうのって、誰でもいいってわけじゃない。なのにそうやって言われたら、傷つくに決まってる」
見上げてみれば、口元には薄く笑みを浮かべながらも、男のセイルを見下ろす視線はどこまでも真っ直ぐだった。男は顎に手を当てて、少し考えるような仕草を見せてから、ぽつりと呟いた。
「そうか、そういうものか」
「そういうものだよ。あなたは思わないんだ?」
セイルは逆に男に問うてみる。すると、男は「はは」と小さく笑って言った。
「俺様、致命的に人の気持ちがわからんのよ。それでいつもあいつを困らせちまう」
実際に叩かれたのは初めてだけど、と男はへらへら笑いながら頬をさする。
「言われれば頭で理解は出来るけど、どうしても何かが足りない。難しいわね」
そう嘯く男の姿を、セイルは不思議なものを見るように見上げることしか出来なかった。
それは、セイルが今まで見てきたどんな大人とも違う。いや、大人と限ることは無い、どんな「人」とも違った。セイルにもわかる、この男は人として大切な何かを決定的に欠いていた。
そんな男に、どうしても聞いてみたくなって口を開く。
「あのさ」
「なあに?」
「スノウは、あなたのこと大切だって、『お兄さん』だって言ってたけど。あなたにとって、スノウって何なの?」
男は「そう来たか」と笑って、今度は一抹の躊躇いすらなく、きっぱりと言った。
「スノウは妹のようなもん。下手すると妹よりもずっと近しい存在だ」
「だけど、会ったのはついこの前だってスノウは言ってた。それって何か変だよ」
スノウも、この男も。何をもってそう言っているのか、セイルには判断できない。まるで理不尽な謎かけをされているようで、セイルは思わず唇を尖らせる。すると男はセイルの頭をもう一度帽子の上からぐしゃぐしゃやった。
「わからなくていいさ、そういう関係もあるってことだ」
「うー、やめろってば!」
ていっ、ともう一度男の手を跳ね除けると、男は楽しそうに声を出して笑ってみせた。
「ガキんちょにはこのぐらいの扱いがちょうどいいでしょ」
「俺はガキじゃないっ、セイルって名前があんだからな!」
むきになって反論すると、男は「そうか」とぽんと軽くセイルの頭を叩き、穏やかな声で言った。
「失礼だったな。悪かった、セイル」
その言葉が胸の中にすとんと落ちてきて、セイルは目を丸くして男を見上げてしまった。
やはりこの男とスノウは似ている。そう、セイルは思った。同じ場所に立っていながら違う世界を見ているような目つきとか、難しいことを言っているようで、時々セイルにとって当たり前のようなことをわかっていなかったりとか。
それに、セイルの名前を呼ぶ時の響きとか。スノウと男の声は、不思議と暖かくて、少しだけくすぐったい。
「あ、そうだ。あなたの名前も教えてよ。俺だけ名乗るのも、何か不公平だろ」
「ああ、俺か」
男は少しだけ、その笑みを苦いものに変えた。
「俺様には、名乗れる名前が無いのよ」
「名前が無い、の?」
「だから好きに呼んでくれ。呼び名が無いのは確かに不便だ」
そんなことを言われても。セイルはすっかり困ってしまった。スノウは普段あなたを何と呼んでいるのか、と問うても男は「呼ばれてる名前はあるが好きじゃない」と微かに眉を寄せるだけ。
好きに呼んでいいというのがまた悩む。大体あだ名といえば名前の響き、もしくは見た目からつけるものだと思うのだが、と改めて男の頭からつま先までを眺める。暗い色の髪に、体のほとんどを黒い服で覆っている姿は、初めて出会った時の印象と変わらず、影のような存在感を持っている。
影か――とセイルは考えて、それから顔を上げて言った。
「ブラン」
「ブラン?」
「影みたいで、スノウと一緒だから、ブラン」
それは、おとぎ話に語られる名前。遠い昔、ユーリスの聖王スノウに常に付き従っていたとされる騎士の名前だ。あまりに単純に過ぎるかと思ってセイルは不安になったが、男は顎に手を当てる。
「『スノウの影』か……そりゃ光栄だ」
セイルに言うというよりは自分自身に言い聞かせるように呟いた男は、にっと笑って言った。
「それじゃ、これからブランって呼んでくれ。改めてよろしく、セイル」
「う、うん」
「さーて、と。うちのお姫様はそろそろ機嫌を直してくれたかな、っと」
提案した「名前」をこうも簡単に受け入れられるとは思わず戸惑うセイルをよそに、男改めブランは軽い口調で言いながらスノウが隠れてしまった路地を覗き込もうとした、が。
「……っ」
突然、ブランが表情を消し、胸を押さえて小さく呻いた。
「ど、どうしたの?」
「くそっ、スノウ……!」
セイルの言葉を聞くことなく、ブランはそちらに駆け出した。セイルも慌ててブランの背中を追って路地に飛び込む。
そして、セイルの目に入ったのは。
地面に膝をつき、肩で息をしているスノウの姿。
口元に手を当てて激しく咳き込むと、その小さく細い指の間から赤いものが滴り落ちる。それが血であるとセイルが理解するまでには、数秒を要した。
「スノウ!」
セイルはすぐさま駆け寄ってスノウの肩をそっと抱くが、スノウは涙を湛えた青い目でセイルを見上げるばかり。言葉を放とうにも、咳と喉からこみ上げてくる血がそれを許さないようだった。
何が、何が起こったというのか。
混乱するばかりのセイルの頭の上から、声がかけられる。
「だから無理すんなって言ったじゃねえか」
スノウを見下ろすブランの声は低く、先ほどまでの笑みも、既にそこにはなかった。
スノウはゆっくりとブランを見上げる。そして、ひゅうひゅうという苦しげな息遣いながら、小さく何かを囁いた。ほとんど声にならない声ではあったが、この時ばかりはセイルにもスノウが何を言わんとしていたのかわかった。
『ごめんなさい』
――だ。
「お前は何も悪くねえ。謝るな」
ブランは言いながら、スノウの頭に手を置く。スノウは、少しだけ呼吸が落ち着いたのか、口元の血を手の甲で拭って、「だけど」と言いかけたが、それ以上の言葉を聞こうともせず、ブランはスノウの体を軽々と抱き上げてセイルに言った。
「寮まで送っていく。後のことは頼んだわ」
「ブランは」
「……悪いが、俺様は人目につくわけにはいかねえのよ。スノウに迷惑がかかる」
そんなことない、と呟いたスノウは、ブランの腕を握る手に微かに力を込めたように見えた。けれど、ブランはそれには応えずに冷たい色の瞳でセイルを見据える。
「頼む」
色々と、ブランに対して言いたいことはある。
だが、今はただ、苦しそうなスノウを少しでも楽にさせてあげなければならない。そのくらいは、セイルにだってわかった。だから、小さく頷いてブランの横に立って駆け出す。何が何だかわからなかったけれど、ただ、今はスノウのために、走る。
「ごめん。ごめんね、セイル……」
掠れて消えてしまいそうなスノウの声が聞こえた気がして、セイルの胸が、ぎゅっと一際強く締め付けられた――
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