騎士と影
ひゅっ、という息を吐いたのは、自分か、男か。
ライラは額に冷たい汗が伝うのに気づいていた。
黒衣の男の沈黙を肯定と取り、一気に仕掛けた。右の篭手に封じていた聖別の槍を引き抜き、低い姿勢から男の喉下に穂先を突きつける、そこまでの動きに一つの迷いも無かった。
だが、ライラは男の命を握ったその姿勢のまま、少しも動けずにいた。
眉間に向けられた銃口が、ライラの動きを完全に封じていたのだ。
「……鋼の武器……」
鋼の武器、銃。それは創世の時代、女神に創られながら神の座を得ようと企んだ裏切りの使徒アルベルトが、女神の厭う鋼を用いて作り出した魔力を用いぬ破壊の力だとされている。故に、女神の加護を享受し生きる者の手には決して握られるはずもないものだ。
銃を握るのは楽園への反逆者……異端研究者のみ。
長身に似合わぬ男の小さな手に握られた銃は、ライラに狙いを定めたまま少しもぶれることはない。もし、ライラが男の命を奪おうとすれば、男も迷わずその引き金を引くだろう。
ライラの頭に閃く、お互いの命が散る光景のみ。それ以外の選択肢など、存在するとは思えなかった。
強く歯を噛み縛るライラに対し、男はあくまで余裕の笑顔。だが、その笑顔はどこまでも空虚なものに、見えた。
風が吹く。冷たい、北からの風が男の長く伸びきった前髪を揺らし、ライラは初めて男の双眸を見ることができた。
男の瞳の色は、喩えるならば凍れる海が湛える緑。ユーリスに生まれ育ったライラが実際に凍りついた海を見たことがあるわけではないが、男の瞳に宿った温度はまさしく零下。唇が浮かべる酷薄な笑みとは対照的に、刃のような容赦の無い鋭さを湛えている。
男はライラを見下ろす姿勢のまま微かに目を細め、薄い唇を開いた。
「な、武器を下ろしてくれねえかい、騎士のお嬢さん」
放たれたのは、ざらついた響き。どこか少年らしいあどけなさを残す顔立ちに反する、老人のような声だった。ライラはその差異に微かに驚きつつも、男を睨み付ける。
「馬鹿なことを言うな」
「ま、虫のいい頼みよね。けど、俺様を殺しちゃ、スノウの居場所はわからずじまいだぜ?」
男は口元の笑みを深める。ただし、前髪の間から覗く瞳の温度は少しも変わらない。そして、ライラの額に向けた銃口も狙いを外すことは無い。
ライラは手が汗ばむのを感じながらも、男を強く睨み返す。
「貴様のような異端が、スノウ様を気安く呼ぶな」
「はは、そりゃそうね。相手は神殿の大事な大事な『知恵の姫巫女』様だもんねえ」
――この男、何を考えている?
気の抜けた笑みと零下の瞳、とぼけた口調と揺るがぬ銃口。相反する態度を取る男の思考を読みとれずに、ライラは少なからず戸惑う。その戸惑いを察しているのかいないのか、男はくつくつと笑う。
そして、次の瞬間。
男はふっと笑みを消して言い放つ。
「けどさ。スノウは気安く呼んで欲しがってるみたいだぜ、ライラちゃん」
「……っ!」
それは、ライラが見せた決定的な隙だった。隙を作ってしまった、とライラが自覚するまでには一秒もかからなかったが、その間に男は自らの命を握っていた槍の柄を払い、素早く距離を取る。ライラはちっと舌打ちをして自分もまた距離を取るが、その地点で違和感に気づいた。
――何故、撃たない。
男はだらりと銃を持った右手を下ろした姿勢のまま、動こうとしないのだ。
あの瞬間、距離を取らずに撃っていれば間違いなくライラは反応できなかった。それどころか、この距離から撃ったとしてもライラに当てることは可能だ。銃の利点は、魔法には必ず必要となる呪文を用いずとも、距離を取った相手を狙えることなのだから。
舐められているのだろうか?
胸の中に湧き上がる苛立ちを堪えきれずに、ライラは低い声で男に言葉を投げかける。
「何を考えている?」
「何を、って……あのね、俺様は別に誰彼構わず撃ったりしないぜ? 殺人狂の『機巧の賢者』様じゃあるまいし。それに、アンタを殺したらスノウが悲しむしねえ」
男はおどけた口調で言って、一瞬前に笑みを消していたのが嘘だったかのように、再びニヤニヤと笑ってみせる。
不可解だ。どこまでも、不可解だ。
ただ、ライラの胸の中でも、男に対する敵対心が微かに揺らいでいるのは確かだった。男の態度もそうだが、何よりも男の放った言葉が耳に残ってしまって。
「スノウ様の何を知っていて、そんなことを言う」
「そりゃ、『何も知らない』と言っていい。『知りたい』とは思うが、俺様はあの子じゃねえからな。けど」
男は無防備にも見える姿勢のまま、力なく笑った。
「アンタは知ろうとしなかった。その違いは大きいぜ」
何故、知ったような口を利く。
ライラは槍を構えたまま、ぎりと歯を鳴らす。けれど、この爆発しそうな感情に流されて男の間合いに飛び込んでも、他の隊員と同じ目に遭うだけだろう。理性で感情を押し殺し、男を見据える。
「貴様、何者だ」
「んん、一方的にそっちを知ってるのもフェアじゃねえから、質問に答えてやりたいのも山々なんだが」
男はそこで言葉を一度切って、目を伏せる。
「俺に、名乗れる名前なんてねえから。悪いな」
「名乗れる名前が、無い……?」
「ま、とにかく。俺様はスノウを神殿に返してやる気はねえし、居場所を吐く気もねえ。ただ、一つだけ教えておいてやる」
ゆっくり、ゆっくりと。男はライラを見据えたまま一歩ずつ下がる。
「俺様も、スノウも。聖ライラ祭が終わるまでは、この街からは出るつもりはねえ。ただし、聖ライラ祭が終わればスノウはお前の手の届かない所に行く」
「なっ」
男の言葉に最悪の可能性を見出し、ライラは絶句する。だが、男はしゃがれた声で淡々と続ける。
「もし、本当に会いたいなら、スノウを探し出してみせろ、ライラ・エルミサイア。手遅れになる前に、な」
言う男の手からは、いつの間にか銃が消えていた。その代わりに、ちょうどライラからは見えない位置に回していた左手に、何かを握っている――そう気づいた瞬間、視界一面が煙に包まれた。
煙幕だ。
待て、と叫ぼうとしてが、もうもうと立ち上る煙が喉に絡まって咳き込んでしまう。その間に、男の足音は遠ざかっていく。すぐにでも追いすがり一撃を叩き込みたかったが、何も見えない状態で槍を振り回すのも無意味と判断し、ライラは咳が落ち着いたところで口の中で小さく呪文を唱える。
「汝の名は『女神の吐息』」
彼女の声に応え、辺りに風が巻き起こり煙を吹き飛ばす。その時には既に、男の姿はその場に無かった。ライラは槍を光の粒子へと変えて篭手に収め、男が向かったであろう路地を見据える。
ただ、それを追う気には、なれなかった。
男は言った。「スノウを探し出してみせろ」、と。
男の言葉が全て根拠の無い出まかせでないという保証はどこにもない。けれど、ライラはその言葉を疑うつもりもなかった。それは……男の指摘が、確かに自分の胸に刺さってしまったからかもしれない。
『アンタは知ろうとしなかった。その違いは大きいぜ』
知ろうとしなかった?
自分が、スノウのことを?
そんなはずはない、と思いながらもそれを否定し切れない自分に気づく。戦うための力、スノウを「守る」ための力である右腕の篭手を見る。もちろん、篭手が何かを語るわけではなくて、ライラは小さく息をついて顔を上げる。
スノウは、この街にいる。確かに、いるはずなのだ。
「行こう」
自分自身に言い聞かせ、ライラは街へと歩き出す。己の胸に生まれた小さな痛みを確かめるためにも、ただ、前へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます