第17話 一日遅れの再会
「ガキンチョガキンチョって……俺にだって名前ぐらいあるんだけど」
紫苑は壁から剥がれて、代わりに腰に手を当てて吹っ切れた。この輝とか何とか言う彼女はとりあえずわかりやすい性格のようだし、口先だけかもしれないが逃げさせてくれるというのだから。それにそのうち嬢子も帰ってくるはず、脅える心配はなさそうだった。逆に紫苑としてはなめられることが気に食わなかった。
当の本人も人様の家(しかも畳の上の土足)ですっかりくつろいでしまっている。
「名前? 君にも名前なんてあるの?」
「あんたにだってあるんだし……当たり前だろ」
「ふーん、何ていう名前なの?」
「…………俺のこと知らないってこと?」
魔王子として魔界では名も顔も知られているはずである。しかし彼女は馬鹿にしたような声を上げた。
「なあに驚いちゃってんの? 君の名前なんて輝が知るわけないじゃん。輝と君は初対面、見たこともなけりゃ聞いたこともなけりゃあ、知らないに決まってるでしょ。もしかして君は、世界は自分で回ってるとか思ってたりする訳?」
話がよく飛躍するな。冷めた視線を飛ばしていた紫苑だったが、それは目だけが勝手に働いているだけだ。実際は迷いに迷っていた。名を名乗るべきか否か――もちろん否だが、この輝とかいう少女の習性からすると否のままで抜け出せそうにない。名を吐くまで問われるのが落ちだ。
「それってあんたのことじゃないか。俺はそんな人間じゃない」
「じゃあ君は何者なのかなあ、ガキンチョ君」
迫る影。上がった口角。細めた目。笑っているがあの中身はどう考えても悪魔だ。生きたまま殺されているようにさえ思える圧迫感がそこにある。
「――か」
「か?」
「金馬嬢子が来るんじゃないの、早くしないと?」
「あ、そっち期待してた訳? 嬢子ならしばらく来ないわよー、ここに来る前にじっくり眠らせておいたからねえ。話ごまかしても駄ぁ目、輝は名乗ったんだから次は君の番。わかるよね、ガキンチョ君」
突破口はない、逃げることは許されないのだ。嬢子とは違う意味で鬱陶しい相手だ。
仕方ない、紫苑は大人しく輝に対峙した。そして思いつく限りのフルネームを口走った。
「俺の名前は……
「きらの、そうせい?」
輝は純粋に首を傾げている。
魔界の人間なら基本的に知らないだろうと言い切ってしまったが、まさかスタートリガーの主人公の名前だとは言えない。しかも作り物だとわかりやすい名前。さすがに紫苑も赤面しながら、輝の答えを待つしかなかった。
しかし彼女の答えは、紫苑の予想を大きく上回った。
「カッコいい名前じゃない!」
「カッコ、いい?」
「なんか、聞こえが輝と似てるし。隠すことなんてないのに……いい名前だと思うよ。んじゃ双星君は逃げちゃってちょうだい。そろそろ嬢子に仕掛けた麻酔も切れちゃうだろうから、輝は嬢子を言いくるめに戻るねー。ってことでグッドラック!」
言いたいことだけ言って、輝は和室から軽快に飛び出し、渡り廊下を遡っていった。その動きは常人のそれではなくて、スタントのように手際がよく速かった。
嵐は去っていった。
それにしてもまったく輝が何をしたいのかは最後までよくわからなかったが、逃げるべきなのだろう。輝も紫苑の顔を知らなかったようだし、もしかすればもう魔界中の人々の記憶から紫苑の顔など忘れてしまっているのかもしれない。三年の月日が経ち、しかも本来こんなところにいるはずもないのだから当然といえば当然だ。
父さん、魔王城に行っちゃったかな……?
一抹の不安がよぎる中、紫苑はひとまず記念公園に空間転移した。
*
記念公園の前に広がる中央大通りを突き当たりまで西に抜ければ、魔王城に辿り着く。現界でいうタクシーにあたる、魔法仕掛けの馬を借りれば十分もせぬ間に到着するのだが、それを借りる金もなければ目立つわけにも行かない。結局紫苑は中央大通りに沿って歩いていくしかなかった。
中央大通りは景観保護地区であり、レンガ造りのアパートとその一階部分にある店舗が軒並み連ねている区域である。魔界の中でも屈指の観光スポットで、各地点々とする遺産を見て、魔界城を観覧したのちここで買い物をするのが定番コースとなっていた。今日もこんな観光客たちが朝から群れあがっている。
オープンカフェレストランの前を通りすがっていると、ざわめきの中から声が聞こえた。
「……おん、紫苑、紫苑ここだ!」
一番西側の席から聞き覚えのある声がする。慌てて人々を掻き分けた先には、この世界から追放されているはずの魔王様が優雅にカフェタイムを楽しんでいた。どこで拾ってきたのかは知らないサングラスで変装しているらしい。が、紫苑はそんなことにまで考えが及べなかった。
「なんでカフェしてるんだよ、魔王城に行ったんじゃなかったの?」
「勝手にどこかに行ったお前を探していたんだ、紫苑」
「矛盾にも程あるよ、その様子じゃあね」
「休憩だ休憩、腹が減っては戦はできんだろう」
「……じゃあ魔王城にはまだ行ってなかったんだね」
安心したのやら、何なのやら。カフェラテの実に香ばしい香りが、紫苑の心をチクチクといたぶっていた。
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