第4章 ミナ・トリアの騎士(3)
「おい女、何しやがる!」
怒鳴り声に、一瞬で店内がしんと静まり返る。全員の視線が一斉に、店の中央の席へと集中した。
白い服の袖を真っ茶色に濡らした男が、給仕の娘に詰め寄っていた。床では、ビーフシチューが入っていたのだろう皿が割れている。
男の服装をよくよく観察し、デュルケンは猫目石の瞳を鋭く細めた。白の制服。すなわち、ミナ・トリア正騎士だ。
「騎士様にこんな真似するとは、いい度胸してるな」
横柄に見下ろされた給仕の娘は、愛らしい顔を蒼白にしてがたがた震え、盆を握りしめた手には血が通わず真っ白になっている。
「あ、あたしはそんなつもりじゃ……そっちがわざと当たるように腕を振り回して……」
「あん、何だ? 自分の過失を俺のせいにする気か? こんなクズ店の下っ端のくせに、随分となめてくれるじゃねえか」
「ま、待ってくだせえ、騎士様。どうか抑えてくだせえ」
店の奥から、禿頭で背の小さい初老の主人が出て来た。見るに見かねて娘への助け舟を出しに来たのだろうか。
だが直後、主人は、デュルケンのそんな想像を逸する行動に走る。
ばしん、と殴打の音が店内に響いたのだ。
「このばかもんが!」店主が娘に罵声を浴びせかける。「料理を運ぶしか能が無いくせに、よりによって騎士様に粗相をはたらくなんて、役立たずこの上ないわ!」
ぱん、ぱんと、店主は何度も何度も、娘の頬を力一杯に叩く。
「ご、ごめんなさい、許して……!」
頬を赤く腫らした娘が懇願しても、止む事はない。すると、腕組みしてにやにやとその暴挙を見物していた騎士が、ゆっくりと腕を解き店主の肩を叩いた。
「おいおい、じいさんよ。俺だって鬼じゃねえ。死んで詫びろなんて事は言いやしねえよ」
下卑た視線が、床にヘたり込んで涙で顔をぐしゃぐしゃにした娘に向けられる。
「そうだな、その女が一緒に来て誠意をもって尽くしてくれれば、俺は満足だし、じいさん、あんたも店の評判が下がらないしで、お互い丸く収まるってもんだ」
「へえ、へえ、それはもう」
店主は媚びた笑みを顔に満たして揉み手などしている。
「じゃあ決まりだな」
騎士は娘の腕を乱暴に引いて無理矢理立ち上がらせると、彼女を引きずるようにして店を出てゆこうとする。
「嫌、嫌! 誰か助けて!」
取り落とした盆が床に落ちて、があんと音を立てる。恐怖に駆られた娘が半狂乱の叫びをあげても、応える者はいない。
ほとんどの人間が、下を向き食事を続けるふりをして、我関せずを貫いている。時折、娘がこれから辿る運命を思ってか哀れむ視線を向ける者、もしくは状況を楽しんでへらへら笑いを浮かべているような輩もいるが、誰も娘を助けようとはしない。
この国ではそれが正しいのだ。騎士団に逆らってはいけない。いざこざに無闇に関わってはならない。下手に首を突っ込もうものなら、その先には、自身もとばっちりをくらって命を落とす道が待つばかりだ。
『女を泣かせる男は最低だ』というカシダの言葉が脳裏に蘇る。唾棄すべき状況に、デュルケンは小さく舌打ちした。かと言って、騎士団の目に触れる危険を冒してまで介入する義理も無い。ふっと目を逸らしてテーブルに向き直った時、しかし、向かいにいるはずの相方の姿が無い事に彼は気づいた。
「あん? なんだ、お前は?」
騎士のうろんげな声が出口近くからしたので、嫌な予感を覚えてがばりと振り返る。
デュルケンの予感は不幸にも的中した。両腕を精一杯広げたとおせんぼの格好で出口を塞いで立っているのは、赤毛の少女。
「いじわるしたら、だめ!」
相手の胸の位置よりも低い身長しか持っていないのに、パルテナは藍色の瞳をきっと男に向け、強い調子で声を張り上げた。
「何言ってんだよ、ガキが」
騎士はパルテナを見下した笑みを顔に満たし、嫌がる娘の腰を引き寄せて、その頬を強引につかむ。
「この女はミナ・トリア騎士である俺様に無体を働いた。相応の報いを受けるのは至極当然なんだよ。わかるか、お嬢ちゃん?」
わかるか、は二重の意味だ。騎士ならば何をしても許されると知れ、という脅しと、難解な言葉をわざと使う事で、目の前の少女にはわからないだろう、という嘲りだ。
ところが。
「わかるけど、わからない」
パルテナが言った。いつもの舌っ足らずな調子ではない。やけにしっかりとした口調で。
「あなたの言ってる事はわかるけど、だからってそれが正しいなんて思えない」
その瞬間、デュルケンは己の目を疑った。いつも無邪気に笑っているだけの少女はそこにはおらず、胸を張り凛とたたずむ娘が立っていた。カシダが所持していた本の挿絵で見た事がある、幾千年を経ても子供の姿を取り続ける異界の女神が、今ここに降臨せしめたのかと錯覚する程だった。
パルテナの前に立つ男も、少女の異様な気迫を感じ取ったのだろう。目に見えて怯み、一歩後ずさる。
だが、ミナ・トリアの騎士が小娘相手に気後れするなど、矜持が許さなかったに違いない。
「ガ……ガキが出しゃばるんじゃねえよ、痛い目見ないとわからねえか!?」
パルテナに殴打を加えようと、無骨な拳が振り上げられる。
あの少女に手出しをさせる訳にはいかない。思うと同時、身体は反射的に動いていた。
デュルケンは音を立てて椅子を蹴り、テーブルを踏み台にして跳ね上がった。何事かと唖然とする人々の頭上を飛び越えて、騎士とパルテナの間に降り立つと、向き直りざま、振り下ろされて来た平手を右腕を掲げる事で受け止め、押し返す。
「今度は何なんだよ!?」
一、二歩たたらを踏んだ騎士が苛立ちをあらわにし、抱いていた娘を突き飛ばすと、自由になった手で腰にはく剣を抜いた。鋼が店内のランプに照らされて、赤黒くぎらりと光る。
刃物が持ち出された事で店中が騒然とした。「ああ、あの馬鹿な子供達、殺されちまうよ」誰かが同情より嘲りの強い口調で洩らすのが、デュルケンの耳に入った。
だが、観衆の揶揄に耳を貸している暇は無かった。敵が雄叫びをあげながら剣を振りかぶったのだ。デュルケンは即座に身を沈めて薙ぎをかわし、すぐさま、縮こめた身体を伸ばす勢いで突進すると、相手の腹に頭突きを食らわせた。相手は息を詰まらせ苦しそうに呻く。
「てめえ!」
げほげほとむせながらも、騎士は剣を突き出して来た。半歩ずらして避けると、デュルケンの長い足が回し蹴りを放ち、剣を弾き上げる。
得物がすっ飛んでいって唖然と口を開ける騎士に、追い打ちとばかり、右腕に肘鉄を叩きこむ。ごき、と嫌な音を立てて、男の腕がぷらりと垂れ下がった。
「ぎゃあああああ!!」
襲い来た脱臼の激痛に悲鳴をあげて、男がうずくまる。
勝利を得たところでようやっと、デュルケンは、店内の注目が自分に集中している事に気づいた。
パルテナを守る為だったとはいえ、やりすぎたか。急速に冷静になってゆく頭で考えながらこうべを巡らせ、彼らの視線が驚愕と畏怖を含んだそれである事をみとめる。
のたうち回る騎士の傍らにへたりこんでいる給仕の娘が呆然と呟く声が聞こえた。
「蒼……」
そこでデュルケンははっと己の頭に手をやった。布地ではなく髪が触れる。今デュルケンは、風詠士の蒼と金緑を全く隠す事のない姿でそこに立っていた。
立ち回りの最中にフードが外れたのだ。頭に血がのぼって気を遣うのを忘れていた。咄嗟にフードをかぶり直すが、一度観衆の目に焼き付いた色を無かった事にするには、遅きに過ぎた。
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