第2章 荒ぶる風(2)

 翌朝。

 デュルケンは家の誰よりも早く起き、庭へ出た。

 本当は一晩も世話になるつもりはなかった。肩の傷はまだ時折刺すように痛むが、動き回れないほどではない。

 第一、自分の素性を知って、関わり合いたいと思う人間はいないだろう。すぐにでも出てゆくつもりだった。

 ところが。

『どうせ行くあてもないんでしょう? 大勢の面倒は見慣れているの。今更世話をする子が一人増えた所で大して困らないわ』

 とレジーナが引き止めたのだ。

 騒ぎを起こした以上、彼女は率先して自分を追い出しにかかるだろうと思っていたので、その意外性にデュルケンはしばし唖然としてしまった。

 追われる身の自分がいては、いずれこの家に災禍が飛び火して大きな炎を呼び起こすに違いない。

 だが、彼女はデュルケンの服の裾をつかみ、やけに深刻な瞳を向けたのだ。

『お願い、ここにいて。貴方をかくまう事は私達にも意味があるの』

 詳細な理由を彼女は言わなかった。しかしその態度は真剣で、情うんぬんからそんな言葉を口にしたのではない事はうかがい知れる。第一そうなら、私「達」と複数形を用いるはずもあるまい。

 どの道、何か行動を起こすにはデュルケンは孤独で力不足だ。ここで息を潜めて機を見計らうのも、有効な一案のような気がした。レジーナが自分に何か利用価値を見出だしたのなら、こちらもそれくらいはさせてもらって構わないだろう。

 そう考え込みながらぶらぶら庭を歩く彼を、思索の回廊から現実に引き戻したのは、低い唸り声だった。裏手から入り込んで来たのか、大きめの野犬が一頭、飢えに目をぎらぎらと光らせて鋭い牙をむき出しにしている。

 デュルケンは咄嗟に腰を低くし身構える。だがそれより先に、野犬はこちら目がけて飛びかかって来ていた。

「……ッ!」

 反射的に掲げた右腕に野犬の牙が刺さる。デュルケンは口の中で抑えた声をあげた。

 血の匂いをかいでより狂暴になった野犬の牙が、ぎりぎりと食い込む。この犬の大きさならば腕を持っていかれかねない。

 デュルケンは歯を食いしばり、野犬の唸りに負けぬ呻きを喉の奥から絞り出した。

 ――死ねるか、こんな事で。こんなくだらない事で!

 金緑の虹彩が猫のように光り、その声が叫びとなって迸った瞬間。

 突風が庭の木々を揺らし、家の窓という窓を叩いてがたがた音を立てる。その中に、きゃん、と弱々しい犬の悲鳴が混じった。

 牙から解放された己の右腕をデュルケンはぼんやり見つめる。袖をたくし上げれば、牙の痕が四つ、腕に穴を穿って、ぼたぼたと地面に血をしたたり落としていた。

「何があったの」

 すぐさま家からレジーナが飛び出して来た。その後ろにはくまのぬいぐるみを大事そうに抱えたパルテナが続いて、興味津々といった様子でこちらを見つめている。

 レジーナは右腕から血を流すデュルケンの姿を見て目をみはり、そして彼の足下に横たわる物に気づいて更に息を呑んだ。

 野犬は死んでいた。鋭い刃で何度も切りつけられたかのようにずたずたに引き裂かれ、早くも血だまりを作りあげている。

「ここは野犬も簡単に入り込むって注意するのを忘れていたわ」

 レジーナは近寄って来ると、デュルケンの腕を取り傷の具合を確かめる。

「手当てをするわ。来なさい」

 その二人の脇を通り抜ける小さな足音がして、デュルケンとレジーナは同時に足音の主を見下ろした。

 パルテナはこれっぽっちも物怖じせずに血の海へと近づくと、かがみ込んでまだ温かい野犬の死体に手を伸ばした。内臓が垣間見える身体に手を触れ、べっとりと赤が手に張りついても、少しもおびえた様子を見せない。見慣れないものを不思議そうに見つめているばかりだ。

「パリィ!」レジーナが顔面蒼白で怒鳴りつけた。「離れなさい!」

 それに対するパルテナの返答は、

「なんで?」

 だった。何故叱られるのか本当にわからないらしく、ぽかんとレジーナを見上げている。

「いいから」レジーナは険しい表情でぴしゃりと言いつけた。「家に戻って手を洗いなさい」

 少女は不満げな様子だったが、レジーナが納得のゆく答えをよこしてくれない事はわかったのだろう。不承不承小さく頷くと、ぬいぐるみをきゅっと抱き締めて走り去る。

「あなたも」

 小さな背中が家の中へと消えるのを見届けた後で、レジーナはデュルケンを振り返った。


「まったく、貴方は怪我をしてばかりなのね」

 家に戻ると、レジーナは非常に慣れた手つきで、消毒液に浸した脱脂綿でデュルケンの腕の傷を拭い、綺麗に包帯を巻いた。

 手当をされている間、少年は、痛みを感じているだろうに、歯をくいしばるどころか表情ひとつ動かす事も無かった。ぼんやりと傷を見下ろしていたかと思えば、あてどなく視線をさまよわせている。

 刃のように鋭利に相手を貫く時もあらば、孤独に放り出された迷い猫のようにとても腑抜けた面を見せもする。この少年が抱える不安定さは、気まぐれなトル・メダを伴う風詠士の気質と考えるにしても、やや頼り無さすぎやしないだろうか。

 訝りながらも、レジーナは一つの注意事項を少年に告げた。

「パリィの前で、誰かや何かが死ぬ所を見せないで」

 金緑の焦点がひたとレジーナの紫の瞳に合わせられる。

「あの子は死の概念を覚えられないの」

 レジーナは語った。パルテナが二年前まで下級貴族の一人娘であった事を。

 彼女の父親は、貴族の誰もがベルギウス王に媚びるこの時代に生きながら、正義に忠実であったが、ある時に妻ともども惨殺された事を。

 パルテナは、母親の遺体の下から守るように抱き締められて見つかった。凄惨な場に居合わせながら、彼女は泣く事もおののく事もしなかったという。

 親の血を浴びて、赤毛よりも尚赤い色に染まりつつも、九歳の少女は不可解そうに小首を傾げ、救助に来た父の友である騎士に訊ねたのだ。

『パパとママはいつ起きるの?』

 それに対し、父の友人が『二人は死んだんだ』と告げても、

『じゃあ、パパとママはちょっとお出かけしてて、またいつか会えるのね』

 と無邪気に笑うばかりだった。

 振り返ってみれば少女はもっと幼い頃、飼っていた小鳥が死んだ時も、

『あの子はちょっと遠くへ行っていて、そのうち帰って来るよ』

 そんな父親の言葉を真に受けていつまでも信じ続けていたという。

 葬儀の時も、ぬいぐるみを抱えて椅子に座し、泣きもせず退屈そうに両足をぶらぶらさせている彼女を見て、

『何て無神経な娘だろう』

『親が死んだというのに、不気味な子』

 などと列席した者達が囁き交わすのも、全く耳に入っていないようだった。

 決して成長が遅れている訳ではない。文字の読み書きも大きな数の計算も、家で行うべき炊事や洗濯も。十一歳の娘が生きるには充分な一切を身につけている。ただひとつ、死というものだけが、すっぽり抜け落ちたように理解できずにいるのだ。

「それでいいのか」

 そこまで黙って話を聞いていたデュルケンが、その顔に明らかな不機嫌を宿して口を開いた。

「人は必ず死ぬ。それを知らなければ生きる価値がない。死の恐怖を知らない人間に、生の大切さはわからない」

「まるで聖人みたいな事を言うのね」

 悟ったような口振りに、しかも自分より年下の少年がそれを言った事に、軽い苛立ちを覚えながら、レジーナは反発する。

「躊躇いなく子供に手をあげたり、自分自身がぼろぼろなったり。生を大事にしていないのは貴方の方のように思えるんだけど」

 さっとデュルケンの顔色が変わった。金緑の虹彩がぎらりと光り、牙をむくような剣幕で我鳴る。

「お前に俺の何がわかる!」

 それと同時。

 部屋の中の空気がいきなり鋭さを帯びたかと思うと、びょうと烈風が駆け抜けた。レジーナの左頬をざっと切りつけ窓硝子をひとつ砕いて、破壊は去る。

 デュルケンがはっと怒りを引っ込め、猫目の瞳を戸惑いに揺らして、気まずげにレジーナを視界の外に置いた。

 レジーナは少年から目をそらさなかった。数拍置いて、裂けた頬からつうっと血が伝い落ちるのを拭い、

「貴方は」

 確信を口にする。

「トル・メダを制御する術を知らないのね」

 デュルケンは答えない。それが答えだった。

 直系の風詠士として生まれ充分過ぎる素質を持ちながら、それを継ぐ者としての正式な訓練を受けなかった弊害か。彼は、風を詠む為の正しい力を手にしていなかったのだ。

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