第1章 蒼髪の少年(2)

『走れ』

 男にしてはやや高めの声が、低められて囁きかける。

『決して振り返るな。お前は生きろ』

 その声を上回る力強さで身体を押されて、駆け出した。

 幾つもの鋭利な殺意が刃をぶつけ合っているのが感じられる。言われた通り前を向いて走り続けたが、振り返って後ろの光景を確かめたい衝動に幾度も駆られる。

 その思いは、唐突に鼓膜を叩いた爆音で遂に堰を切って溢れた。

 頭を巡らせる。視界に映ったのは、猛烈な勢いで噴き上がり夜闇を赤く染める炎。

『お前はこの国に必要な存在だ。生きろ』

 かの人の言葉が脳裏を駆け巡った。

『血まみれになっても、泥水すすってでも、生き続けろ』


 覚醒はゆったりと訪れた。

 さわさわと吹き込む微風が頬を撫で、それに混じった甘い香りが鼻腔をくすぐる。花の匂いだと認識すると、急速に意識が現実に引き戻されていった。

 目を開けると、つぶらな赤い瞳と視線がぶつかった。いや、正確には瞳ではない。瞳を模したガラス玉だ。

 二、三回まばたきをすると、全体像が視界に入る。赤子くらいある赤いチェック生地のくまのぬいぐるみと見つめ合う形で、ベッドの中にいた。

 何故このような状態になっているのか。

 三、四拍の間考えて、思い出す。

 闇を駆けて自分を追う殺意と戦い、何とか街まで降りて来たものの、何処かの建物の裏手で力尽き倒れたのだ。

 周囲の状況を把握せんが為に飛び起きようとして左肘をついた途端、肩を中心に駆け巡った痛みに、喉の奥で呻いて、浮かしかけた上半身を再びベッドの中へ沈み込ませた。

 そうだ、左肩は射られたのだ。

 きつく目をつむり、無事な右手で顔を覆い何度も深呼吸をして、身を刺す痛みが去るのを待つ。

 うずきが治まると、脂汗が浮かんでいた額を拭って目を開く。そこでようやく、藍色の瞳が自分をのぞき込んでいるのに気づいた。

「あ」その瞳がたちまち嬉しそうに細められる。「起きた」

 瞳の持ち主の少女が頭を傾けて笑うと、その所作にあわせてふたつに結わいた赤毛がふわんと揺れ、再び花の香が漂う。

 匂いはこの少女のものか。合点がいくと、今度は左肩を痛めないよう気を遣って右腕と腹筋で起き上がり、傍らのぬいぐるみをむんずとつかんで少女に突きつけた。

「何だこれは」

「サティ」

 無愛想な問いにも少女はにこにこと笑いながら答える。ぬいぐるみの名前だと理解するのにしばし時間が必要だった。

「違う」

 苛立ち混じりにぬいぐるみを少女の腕に押し込みながら、再度問う。

「どういうつもりだと訊いている」

 すると少女はきょとんと目をみはった後、

「パリィが風邪をひいた時、こうやってサティと一緒に寝るの」

 ぎゅうっとぬいぐるみを抱き締めた。

「サティが一緒なら寂しくないし、熱で苦しいのもちょっと楽になる。だからお兄ちゃんにもサティが一緒にいてあげたら、お怪我がすぐに治るかなと思って」

「……馬鹿馬鹿しい」

 心底呆れた溜息を洩らす。病をわずらえば心細くなるのは当然だが、寂しさを紛らせるのは子供のする事だ。

 それに、ぬいぐるみひとつ置いた所で傷病の回復が早くなるはずなど無い。本人の治癒力の問題だ。

 その辺りがわからないのか、少女はやはりにこにこ笑みかけているばかりだ。不快感すら覚えて「馬鹿かお前は」と言い放ってやろうと口を開きかけた時、実にタイミング良く扉が開かれる音がした。

 戸口に視線を投げかければ、無邪気そのものの少女とは対照的に警戒心にたっぷりな紫色の瞳で、こちらを見つめる女性の姿。

「パリィ」

 女性はこちらから目を離さぬまま近づいて来ると、深々と溜息をつき、サイドテーブルへ湯気の立つカップを載せた盆を置いた。

「この人が起きたらすぐに知らせなさいって言ったでしょう」

「今起きたんだよ」

 自分が目覚めた時、先程と同じように少女に飛びかかる可能性を考えているのだろう。彼女は正しい。少女の方が危機感が無さすぎるのだ。皆無と言っても過言ではない。

 身の危険を自覚できない程幼稚ではない年齢に見えるが、これは一体何なのだ。

「飲みなさい」

 こちらの疑念に気づいているだろうが、女性はそこに敢えて触れずにカップを突き出した。

「麻痺毒を食らったでしょう。解毒作用のある薬草を煎じて淹れたから、最後まで飲みきりなさい」

 何故見抜かれたのかなどと間抜けな事は考えなかった。左肩はきちんと包帯が巻かれ、服も綺麗な物に変わっている。手当てをしてくれたのは恐らく彼女だ。そして多少の治療の知識がある人間なら、腫れた傷口を見れば、射られた矢に毒が込められていたと判じるのは困難ではない。

 彼は素直に手を伸ばしカップを受け取った。色の薄い茶をすすると、熱と同時に苦味が舌を突いて、思わず顔をしかめる。

 だが、熱さも苦さもそれらを感じるのは生きている証だ。カップから唇を離す事無く一気に茶を飲みきった。

 熱さが喉元を過ぎ、苦さが口内から消え去る。精神安定を司る薬草も入っていたのだろう、昂っていた気分も落ち着いてゆく気がした。

「――で」

 不機嫌な声音に顔を上げると、女性が声の通り不機嫌そうに腕組みしてこちらを見下ろしていた。

「助けてもらった礼の一つもそろそろ出て来ない?」

「……助けろと頼んだ訳じゃない」

 ぶっきらぼうな答えに紫色の瞳が憮然と見開かれ、明らかに落胆を宿して伏せられる。

「そうね。いきなり子供の首根っこつかむような人に殊勝さを期待した私が馬鹿だったわ」

 わざとらしい長息の後、女性は気を取り直して訊ねてくる。

「でも、名前くらいは教えてくれても良いんじゃない? 私はレジーナ・ヴァーレイ」

 レジーナと名乗った女性を、金緑の瞳で見上げる。

「デュルケン」

 その名を舌に乗せながら、胸元から古ぼけたペンダントを取り出す。

「デュルケン・フォード」

 ちゃり、と金属音を立ててペンダントの飾りがレジーナに向けられる。途端、彼女の瞳が先程以上に大きくみはられた。

 そう。この名を聞き、飾りに施された物を見たら、一般常識のある人間なら驚くだろう。

「デュ、デュラ? デュウ……?」

 傍らの少女だけがこちらの名を呼べなくて舌をもつれさせ、もどかしそうにしている。

「大体の人間は『デュー』と呼ぶ。それでいい」

 一瞥をくれてそっけなく言い切ると、少女はぱっと表情を輝かせて身を乗り出して来る。

「デュー、デューね、それなら呼びやすい! あのね、パリィも本当はパルテナって言うんだけど、みんなパリィって」

「パリィはちょっと黙ってなさい」

 急き込んで話すのを肩を引かれて中断され、少女は不服そうにぷうと頬を膨らませる。だがレジーナはそれには構わず、

「まさか」

 信じられないといった眼差しでこちらを見つめた。

 蒼の髪、猫目石の瞳、そしてフォードの家名。それは、今や途絶えたはずのこのミナ・トリアの正統なる王族の特徴。

 そして何より、ペンダントに印された風切りフィロは王家の紋章。

 その全てを肯定すべく、金緑の双眸に強い光を宿し、彼は――デュルケン・フォードは、はっきりと頷くのだった。

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