第三十二話:不屈の魂

 野獣のごとき雄叫びをあげ、ケンタは眼前の敵めがけ猛然と駆け出した。

 鍛え上げられた筋肉の塊が、打ち出された砲弾よろしく凄まじい勢いで目標へと迫る。

 彼の肉体が深手の痛苦を覚えるようなことは微塵もなかった。

 血中に過剰放出されたアドレナリンが、およそモルヒネに数倍するとも言われる鎮痛作用をその全身に向け施していたからだ。

 獲物を捕捉するために瞳孔が散大。

 交感神経が一気に興奮状態へと押しやられ、肉体機能のすべてが来たるべき戦闘への対応を完了する。

 体重三十貫目約百キログラム強を優に超える大男が、けたたましい足音を轟かせつつ自分に向かってまっしぐらに突っ込んでくる──素人なれば思わず足をすくませたくなるその状況に直面してもなお、武太は泰然たる姿勢を保ち続けていた。

 いや、それどころか口元をほくそ笑ませてさえいる。

 あたかも、それが予定どおりの反応だと言わんばかりに。

 この時のケンタが注意深く相手の空気を読もうとしていたなら、おそらく彼はその違和感に気付いていたことだろう。

 ケンタは、いわゆる「戦い」においての素人ではない。

 それが掟に縛られた競技の中であるとはいえ、彼は手合いの違うさまざまな強敵たちとの戦歴を持つれっきとした「猛者」なのである。

 しかし、その胸中で燃えさかる憤怒の情が一時的に彼の目を眩ませていた。

 まさしくそれは、一分の隙もないほどの視野狭窄だった。

 もはやその視界の中には構えることもせずに立ち尽くす「敵」の姿しか映ってはいない。

 ケンタはお互いの最短距離を迷うことなく踏破すると、鍛え上げた右腕を容赦なく水平に打ち振るった。

 逆水平チョップ!

 手刀てがたなが内から外へと弧を描き、唸りを上げて虚空を切り裂く。

 狙いは武太の喉元だ。

 プロレスの試合などでは痛め技の印象が強いこの技も、急所への直撃が叶えば文字どおり一撃必殺級の破壊力を発揮する。

 だが次の瞬間、目標たる武太の姿がケンタの目前から蜃気楼のように消え失せた。

 気合いを込めた右手のひと振りが、見事なまでにすかを喰らう。

 なんだとっ!

 当然訪れるはずの感触を掴み損ね、ケンタの両目が驚愕に見開かれた。

 違和感と不快感、そしてその心中に発生する刹那の空白──…

 寸分も間を置かずにその隙間を埋めたものは、突如として彼の左膝へと襲いかかった強烈無比な衝撃だった。

 前から後ろへ疾風のごとく走り抜けたそれは、蹴り足たるケンタの左足をしたたかなまでに痛打する。

 おのが喉元に迫る手刀を身の沈降でかわしつつ、武太がその場跳びの両足蹴りを放ったのだ。

 その高度、わずかに一尺約三十センチ

 それはまさに刮目すべき身体能力だった。

 なまなかの曲芸師であってもこううまくはいかぬ。

 ケンタの突撃衝力が、その一発で完全に消失した。

 視界の外から加えられた攻撃に、肉体と精神の双方とが文字どおり不意を打たれたのである。

 左膝がひとたまりもなく地に屈し、彼は前のめりに倒れようとする身体を右膝を立てて必死に阻止した。

 それ以外の行動を選択することなどできなかった。

 それが人体として当然の反応だった。

 そんなケンタの顔面に狙い澄ました武太の左膝が叩き込まれた。

 たっぷりと体重を乗せた跳び膝蹴り。

 咄嗟に身を捻って避けようとするも叶わず、ケンタはまともにそれを被弾した。

 右目の奥で超新星が炸裂する。

 おびただしい火花が脳内で飛び散り、その巨体が勢いよく後方へと打ち倒された。

 どうと音を立てて仰向けに寝転ぶケンタめがけ、武太の右肘が落下してくる。

 目標はその眉間、いや喉笛だ。

 反射的にケンタは我が身を転がした。

 武太の肘が空しく床を穿つ。

 その炸裂音をどこか遠くに聞きながら、すかさず四つん這いの体勢になったケンタが武太と対峙し直した。

 相撲の立ち会い同様の突貫を臭わせつつ、彼は眼前の対戦相手を睨み付けた。

 強い。

 ケンタは、右手で口元をぬぐい立ち上がった。

 こいつは強い。

 間違いなく強い男だ。

 直に体験したその事実を心の奥底でかみ締める。

 感情の起伏が生み出す率直な嫌悪とは別に、はっきりとそれだけは認めざるを得ない。

 その眼光が一瞬にして色を変えた。

 それは、純粋な闘争のための色彩だった。

 合理性ではなく肉体の持つ本能が、激情に支配された戦いへの危惧を発したのだった。

 果たしてその変化を見届けたものか、距離を置いてケンタを見据える武太の口がはっきりとした笑いのそれを形作った。

 それは嘲りからくる醜悪な笑顔などではなかった。

 明らかな歓喜に基づく、まるで子供のように澄み切った笑顔だった。

「さすがに一発二発で参るような玉ではないか」

 声を弾ませ武太が言う。

「だが、そうでなくてはやはり本物とは言えぬ。俺はいま心より天に感謝しているぞ、古橋ケンタ。久しく忘れていたこの胸の高鳴り。間違いない。おまえが、おまえこそが待ち焦がれた本物。この俺の求めし『宿敵』であったのだな」

 その台詞は、排除の対象に向けて放たれるものとは思えなかった。

 むしろ、畏敬の念がそのまま言辞を成したかのような、まさしくそんな発言にすら聞こえた。

 いや、そう耳に届いただけではない。

 確かな敬意が、隠しようもない敵に対する尊崇の思いが、その言葉の端々から垣間見えていた。

 よほど愚鈍な人物であっても、そのことに気付くのは極めて容易なことであったろう。

 おのれにとって憎んでも憎みきれない恩人の仇──そんな男が見せた思いもよらぬ感情の発露に、ケンタは強烈な違和感を覚えてしまった。

 その内に秘めた真意を訝しみつつ、彼は短く問いを発する。

「何が言いたいんだ、あんた?」

「簡単なことだ。戦う相手がおまえであれば、この俺が何をしても構わぬということだ。身に付けたすべての武技を駆使して、思う存分暴れることが叶うということだ」

 切り捨てるように武太は答えた。

「いかに武を学びしとはいえ、この身は所詮武士にあらず、武芸者にあらず。我が手中に修めた諸々の芸は、これまで微塵の例外もなくただ一様に結果のみを求められ続けてきたのだ。依頼主より与えられた目的を果たすためならば、俺はいかなる手段をも辞さなかった。それこそが、俺にとって唯一絶対の正義だったからだ。だが、そこにはひと欠片の誉れもなかった。ひと欠片の栄えもなかった。この俺は磨き抜かれた刃でもなく心酔わせる美酒でもなく、ただひたすらに毒刃であり毒酒でこそあったのだ。だからこそ──」

「だからこそ、なんだ?」

「だからこそ、この生涯に一度でいい。おのが肉体を極限に追い込み血の小便を流してまで習得した武芸のほどを、俺は心ゆくまで使い切ってみたいのだ。おのれの持つ力量とやらを、それに相応しい敵手の懐で満足いくまで確かめてみたいのだ。おまえが相手であればそれが叶う。闘争の本質とやらを、満腹するまで味わうことができる。俺は、いまそれが嬉しくてたまらぬ。たまらぬのだ!」

 武太の口の端がやにわに吊り上がった。

 あとからあとから背筋を這い上がってくる喜びが、その表情を生け贄を前にした魔獣のそれへと変えて行く。

「できることならば五体満足なおまえとこそ死合ってみたかったが、これもまた天命と言うことだろう。その楽しみは、いずれ黄泉路で果たすと約定しよう。何、そう先のことではない。ゆえに請う。悪く思うな。行くぞ!」

 かっと目を見開いて武太が叫んだ。

 その両足が音を立てて畳を蹴る。

 一瞬にして間合いが詰まり、ケンタの目前で武太の長身が旋風つむじのように翻った。

 左の跳び後ろ回し蹴り。

 長い脚が稲妻のごとくケンタに伸びる。

 目標は顎。

 咄嗟に両腕を交差してケンタはそれを防御した。

 見た目よりもはるかに重い衝撃が、どしんと腕越しに襲いかかる。

 見事なまでに体重かさの乗った一撃だった。

 それを強引に踏み堪えた次の刹那、彼の眼前に無防備な武太の胴体が裸の淑女よろしく晒された。

 動作の大きい打撃技は、その大威力と引き替えにして技の終わりに必然的な隙を生む。

 明らかな好機だった。

 少なくともケンタの眼にはそう映った。

 いまだ!

 決断した彼は、素早く一歩を踏み出した。

 狙うはがら空きの胴めがけての組み付きタックルだ。

 この負傷した脚では間合いの主導権を握ることなどどうやっても叶わない。

 なれば無理矢理にでも密着して、目方の差で押し潰すしかない。

 そう判断しての戦術行動だった。

 ケンタのこめかみに予期せぬ打撃が来訪したのは、まさにその瞬間の出来事だった。

 見えない角度からの加撃が彼の頭部を激しく揺らす。

 不快な金属音が耳の奥で鳴り響き、あっという間に三半規管が機能不全へ陥った。

 武太がいったいどんな技を繰り出したのかは明白だった。

 彼は振り抜いた左足の反動を利し、死角から右の上段蹴りを叩き込んできたのである。

 それは、中国拳法で言うところの「旋風脚」、その変形技だった。

 守りを排除し威力を選んだ捨て身の打撃。

 外した際のリスクが大きく使用する機会こそ少ないが、その反面で決まった時の見返りはその欠点を補って余りあるだけのものを秘めていた。

 巌のような巨体をふらつかせ、ケンタは無様に後退した。

 ぐにゃりと視界が醜く歪み、目の裏には閃光がちらつく。

 おのれ自身の不覚を悟り、彼は自分に向かって悪態を吐いた。

 罠かよ、畜生。

 こんな単純な誘いに気付かないなんて、俺って奴は三流以下の問題外だ!

 座敷の隅に至り柱を背にしてようやくのことで身体を支えるケンタに対し、武太の猛追が開始された。

 やや両腕を広げ気味の低い姿勢で疾風はやてのごとく迫り来る異相の男。

 その接近を阻もうと、ケンタは大きく左腕を払った。

 チョップともバックハンドブローとも異なる、白々しいまでの牽制のひと振り。

 武太は軽く後ろに飛び退くことで、易々とそれを回避した。

 ケンタの腕の振り終わりを狙い澄まし、ふたたびその懐へと踏み込んでくる。

 相対距離、一間約一.八メートル

 その長身が不意に上下へ転回した。

 武太がケンタの目の前で、あたかも水面に飛び込むかのごとき動きを見せつけたのだ。

 それは鮮やかなまでの側転運動だった。

 強靱なバネに弾かれたように、武太の身体が勢いよくケンタに迫る。

 縦回転の背面肘打ち!

 通常の打撃技から完全に逸脱したその挙動に幻惑され、ケンタの防御がわずかに遅れた。

 遠心力に支援された硬い右肘が、両腕のブロックを突破して額を抉る。

 大鐘を力強く突いた時にも似た衝撃音が、彼の頭蓋の中で烈々と反響した。

 脳が揺れ、聴覚器官が悲鳴をあげる。

 歯を食いしばってそれに耐えるケンタの後頭部を、次の瞬間、武太の右手が荒々しく掴んだ。

 彼はそのまま間を与えることなく高々と跳躍し、おのれの体重ごとケンタの身体を一気に下方へ引きずり倒す。

 顔面砕きの大技だ。

 まともな受け身を取ることも叶わず、ケンタの顔面は額から畳の上に叩き付けられた。

 しかし、危険なプロレス流の投げ技を無数に潜り抜けてきたケンタの肉体は、この苛烈な攻撃をかろうじて耐えしのいだ。

 続けざま背乗りになって裸締めを狙う武太の身体を肘打ちで払い除け、転がりながら間合いから逃れる。

「見事だ」

 改めて対峙し直すケンタを見据え、感嘆の声を武太は発した。

「よくぞ、よくぞそこまで鍛え上げた。心底から尊敬するぞ。だから、もっとだ。もっとおまえ自身をこの俺に見せろ。もっとこの俺を楽しませてみせろ。そうだ。おまえの心の臓はまだ動き続けているぞ!」

「好き放題勝手なこと言いやがって」

 そう吐き捨てながらふらふらと立ち上がるケンタの間合いに、ふたたび武太が飛び込んできた。

 腰の高さにまで身を沈めている。

 柔道技で言うところの双手刈り。

 いや違う。やや上体を反らしての胴タックルだ。

 膝蹴りでこれを迎撃するにはいささか打点が高すぎる。

 その仕掛けは、まさしく実戦的な知恵の深さの現れだった。

 この異相の男は、肉体同士のファーストコンタクトにより有効であることが明白な足取りのテイクダウンを選ばなかった。

 その選択の持つ「蹴りでのカウンターをもらいやすい」というリスクを意識して避けたのである。

 と同時にそれは、それ以外の手でおのが仕掛けを返すことなどケンタにはできまいという増上慢の片鱗さえ感じさせる選択でもあった。

 技を理解できる者にとっては、むしろ挑発行為にすら近い。

 そのことを悟ったケンタのこめかみが一瞬びくりと脈打った。

「調子に乗るな!」

 感情的にひと声叫び、おのれの腰に組み付いてきた武太の身体をケンタは一気に上から

 腰回りに腕を回し、力任せにそいつを真上へ引っこ抜く。

 パワーボム!

 振り子のような弧を描いて武太の長身がケンタの頭上に持ち上がった。

 その最頂点で左右から武太がケンタの頭を掴んだのは、相手を振り下ろさんとした彼が力の溜めを作った、まさにその瞬間の出来事だった。

 見下ろしてくる武太の目と見上げているケンタの目とが文字どおり一直線に重なったその刹那。

 いきなりその視界が緑の霧で覆われた。

 毒霧殺法。

 口から霧状に噴射した緑色の液体を、武太はケンタの顔面目がけて至近距離から浴びせかけたのである。

「うわぁっ!」

 強烈な刺激臭をともなう物質に真正面から眼球を直撃され、ケンタは激しく悶絶した。

 山葵か何かの成分がその中には含まれていたものか。

 焼けるような痛みが両目を襲い、たちまちのうちに多量の涙が溢れ出す。

 とても目を開けてなどいられない。

 視力が一瞬にして失われた。

 技の仕掛けが中途で止まる。

 それは唐突に産まれた完全無欠の隙だった。

 そして武太は、わざわざ相手側から差し出された好機を自ら拒絶するような愚者ではなかった。

 この絶好の機会を利し、全身を大きく後ろへと反らせた彼は、おのが両足で挟み込んだケンタの頭部を畳の上目がけて勢いよく叩き付けたのである。

 一般的な武術ではまず見られることのない足を使っての投げ技。

 それは、まさに曲芸のような動きだった。

 誰の目であっても、到底実戦的な技術とは映らなかったことだろう。

 だが同時に、それはあまりにも危険過ぎる投げ技でもあった。

 首を固められたままのケンタの巨体が、急角度でもって畳の上に突き刺さる。

 技の起こりを敏感に察した彼の本能が我が身をうまく流れに乗せなかったなら、冗談抜きで致命傷になりかねないほどの一投だった。

 おそらく並の武芸者であれば、この技を食らい立ち上がってくることなど不可能だったに違いない。

 だが、プロレスラー・古橋ケンタはこれに屈しなどしなかった。

 緑色に染まった顔に苦悶の表情を浮かべつつ、それでも歯を食いしばりながら彼はゆらりと立ち上がった。

 倒れたまま力尽きるという安楽を断固拒否し、苦痛が手ぐすね引いて待つ戦場へとおのれの意思でもって決然と舞い戻ってきた。

 意識は健在、身体も動く。

 心が折れてさえいなければ、まだ十分に戦える状況ではあった。

 冷静に考えれば、この時点で勝負を捨てる要素などどこにもないと評することもできただろう。

 確かにそうだ。

 しかし、それはあくまでも部外者から見た無責任な解説に過ぎなかった。

 当事者でなければ、人はいくらでも理想の論を口にできる。

 実際のところ、いざこれほどの劣勢に直面して、なお左様に開き直れるほどの強者がいったいこの世にどれほどの数いるというのか。

 見事だ。

 その闘志に衰えのきざしすら見せないケンタの姿勢を目の当たりにし、改めて武太は感じた。

 この男は、いまその眼から光を奪われただけでなく甚大な肉体の損傷をも被っているというのに、いまだどこかで逆転の道を模索している。

 習得した技や鍛え上げた身体そのものが見事なのではない。

 苦境に接し、なおおのれ自身を諦めないその精神性こそが見事なのだ。

 おそらくそれは、愚直なまでに連綿と修練を積み重ねることで練り上げた、文字どおり血と汗の賜物なのであろう。

 薄紙を重ね張りするようにして丹念に形作られてきた、ある種の芸術品と言い換えることもできる。

 熟達の刀鍛冶が一心不乱に鍛え上げた入魂のひと振りのようなものだ。

 当然、一朝一夕に入手できるような代物でなどあろうはずもない。

 それほどの宝物を、人によっては一生手に入れることの叶わぬ至高の財産を、いま真っ向から実力でもって蹂躙する──おのが立場を認識した武太の背筋を、一種嗜虐的な快感が蛇のごとく這い上がってきた。

 押さえきれない愉悦が、否応なしにその表情を歪ませる。

 武とは、武とは、なんと気持ちの良いものなのだ。

 魔物に魅入られた眼で、彼はそんな自分を弄んだ。

 かけがえのない刻の流れを費やしてようやくのことで他者が成し遂げた珠玉の成果を、この手で犯し陵辱する。

 木々の年輪にも似た他者の人生そのものを、我が意のままに踏みにじり、好き放題に否定する。

 これこそまさに最高の娯楽、快楽だ。

 仮に絶世の美女をおのがしとねに引きずり込んだとて、到底この喜びには敵うまい。

 男と女の肉の交わり、射精の悦楽をすらを余裕で上回ること疑いない。

 はは、ははははは、素晴らしい、素晴らしい。

 なんとも実に素晴らしい。

 股座またぐらがいきり立つ!

 これが武か。

 これが武か。

 これが真の武というものなのか。

 人と人とが互いのすべてを比べ合い、その「血」を、「汗」を、「魂」を征服しようとしのぎを削る。

 これが武というものの本質、武というものの神髄なのか。

 なんとも素敵だ。

 素敵に過ぎる。

 この世にこれほど素晴らしき世界があろうとは、いままで思ってすらもみなかった。

 改めて感謝するぞ、古橋ケンタ。

 この俺を斯様な桃源郷へと導いてくれた礼を、思う存分受け取ってくれ!

 次の瞬間、凄まじい攻撃衝動が武太の全身を突き動かした。

 筋肉が躍動し、の精神が求めるまま、その四肢が豪雨のごとくケンタの肉体に襲いかかる。

 拳が、脚が、肘が、膝が、文字どおりあらゆる角度からこの大男目がけて降り注いだ。

 息つく暇もない打撃の嵐がケンタの身体を強襲する。

 腕を、脚を、腹を、数え切れないほどの打突がまさしく隙間なく痛撃した。

 鋭い加撃に滅多打ちとされた彼の肉体は、瞬く間にいたるところで皮膚が割れ、肉が裂けた。

 口を開けた三カ所の深手からは、ふたたびおびただしい量の出血が始まる。

 汗とともに鮮血までもが深紅のしぶきとなって宙に舞った。

 ケンタにとって反撃の暇などどこにもなかった。

 押し寄せる津波のごとき圧力に負け、彼はじりじりと後退を強いられる。

 必死になって頭部の急所を護りつつも柱を背に座敷の隅へ追い詰められた彼は、文字どおり亀のように首をすくめて身を固めた。

 防御に徹して相手の息切れと視力の回復を待つ。

 それがいま選べる最善手だと考えたからだった。

 しかし、武太による猛攻は一向に止むことがなかった。

 生理学的観点から言えば、人類種にとって断続的な無酸素運動を行い得る時間の上限は平均でおよそ四十秒程度とされていた。

 にもかかわらず、武太の連撃は寸分も収まる気配を見せなかった。

 あたかも内燃機関を備えた機械のごとく、彼は一瞬も休むことなく動き続けた。

 その時間は余裕で二分間を越えていた。

 それはまさに常人の域を超えた驚くべき心肺能力、とても信じられないほどのスタミナ量だった。

 こちらが踏み込んでくるのを待っているのだろう?

 そうだな、古橋ケンタ。

 眼前の敵手が見せる明確な意思を持った沈黙に対し、武太は心中で語りかけた。

 そうだ。

 そのとおりだ。

 それこそが正しい道だ。

 ひとたび捕まえてさえしまえば、戻らぬ視界も不自由な足取りもさほどの問題にはならぬとおまえは考えているのだろう?

 だが、そううまうまとはいかんぞ。

 たとえ目方の乗り切らぬ軽い打突とて、数さえ打ち込めば必ずや厚い守りを突き崩す。

 それは改めて語るまでもない自明の理だ。

 だから俺はあえて必殺の間合いには踏み込まぬ。

 おまえの思惑に付き合うような真似は断じてせぬ。

 なぜなら、まったくもってそれこそがこの場における「必殺」であり、おまえを黄泉路へと誘う最良策であるからだ。

 敵の急所を徹底して狙い、こちら側から一方的にいじめ倒すこと。

 それは、戦場においては卑怯な手でもなんでもない。

 いわゆる兵法においては、まさに常道中の常道、むしろ賞賛されてしかるべきことだ。

 そして、古橋ケンタ。

 おまえも一端の武道家であるならわかっているのだろう?

 それこそが、武における絶対唯一の正義だということを。

 恨むな、とは言わぬ。

 だが、甘んじて受け入れろ。

 もはや、おまえが武人としての輝きを見せることはない。

 この俺がそれを許さぬゆえ、な!

 立て続けに打ち込まれる四肢の暴風に晒されたケンタの腰が、武太の目の前で力尽きたようにずるずると沈んでいった。

 頭部をしっかりと護っていた太い両腕でさえが、死に体となったかのごとく徐々に徐々に下方へと落ちる。

「これまでだな」

 感情を込めぬ言葉で、淡々と武太は呟く。

 流星雨にも似た乱撃が静かに収まり、どこか哀れみをたたえた眼差しでもって、彼は対戦者を眺めた。

 あれほど激しい運動であったにもかかわらず、その呼吸はわずかな乱れをも見せてはいない。

 連打の終焉が攻め疲れによるものでないことは明らかだった。

 気が付けば、屋敷の焼けるぱちぱちという破裂音が空間を満たし、天井からはちらほらと赤い火の粉が舞い降りている。

 煙の臭いが鼻腔を突き、気のせいか揺らぐ炎が周囲の明度を高めているようですらあった。

 終わりの刻が近付いていた。

「武というものを堪能させてもらった。礼を言う」

 身動きひとつしないケンタに向かって、見下ろすように武太は告げた。

「この手で命脈を断ってきた者の顔をいちいち覚えていては、この生業を続けていくことなどできはしない。だが、おまえのことは忘れぬよ。楽しかった。ありがとう。そして、いざさらば、だ」

 武太の右手が、腰の後ろに隠し持っていたくないへ伸びた。

 逆手に握ったそれを胸の前で一度構え、ゆっくりと息を吸ってから大きく吐き出す。

 彼の眼光がその色彩を変えた。

 それまでは魔に魅入られたようだった怪しさが忽然と失せ消え、代わりに深く冷たい漆黒の闇がその中へと舞い降りる。

 直後、武太の身体が音もなく動いた。

 足音を抑えつつ、影のようにケンタ目がけて忍び寄る。

 時に委ねて終わりを待つのではない。

 おのが手でもって、すべてを「終わらせる」つもりなのだ。

 娯楽を味わう刻は、すでに過ぎた。

 残るは、おのれに課せられた役目を忠実に果たすことのみ。

 持ち主の意志に従い、鈍く輝くくないの刃がケンタの顎の下に向けすっと伸びた。

 その軌跡は、明らかに彼の頸動脈を指向している。

 この切っ先が振り切られた瞬間、古橋ケンタという男の生涯は完全なる終焉を迎えるのだ。

 せめて苦しませることなくひと太刀にて。

 この異相の男は、いまそのようにらしからぬ考えを抱いていた。

 絶対的な優位の確信。

 それは彼にとって、予想された未来図の現実における収穫作業に過ぎなかった。

 その確実に訪れるはずの結果がものの見事に覆ったのは、まさに次の刹那の出来事だった。

 鋭刃が首の皮手前わずか一寸に到達した時、くないを握る武太の手首をあろうことかケンタの右手が鷲掴みとしたのだ。

 瞬時にして手首が極められ、その手の中からくないがぽろりとこぼれ落ちる。

 万力のごとき強さでなおもぎりぎりと手首を握り締められ、武太は思わず狼狽した。

 顔中を引きつらせながら、必死になって口を開く。

「古橋ケンタ……貴様、まだ動くことができたのか?」

「おかげさまで」

 おそらくはまだ鮮明に見えていないのであろう眼をうっすらと開き、ケンタはそう言って笑いかけた。

 しかし、その表情の中に嘲りの色は欠片もない。

 むしろ、長年の友人を迎えるような、そんな親しみさえ醸し出しているように見えた。

 驚愕に目を見開く武太に対して彼は告げた。

「信じてたんだ……必ずあんたは、こうやってとどめを刺しに来るって」

「信じていた、だと?」

 改めて刮目しつつ武太は思った。

 何を莫迦なことを言っているのだ、こやつは。

 武術とは、純粋に対峙する相手を排除するための技。

 相手の繰り出すすべてのものに断固たる否を叩き付け、その生きてきたという証をその理でもってへし折ることこそを目的とする。

 その中に、相手への信頼だの信用だのといった温い認識が介入する余地などどこにもない。

 そのことを疑う余地などどこにもない。

 そんなものは戦いにおいては完全無欠の不純物。

 それが正しい。

 誰がなんと言おうと、それこそが武術における真実のはずだ。

 では、なんだ?

 おまえはいったい何者だ?

 おまえのいま口にした言葉は、武人の放つそれではない。

 武人の放っていいそれではない。

 おまえは間違いなく武人ではない。

 武術を用いる芸者ではない。

 おまえは、おまえはいったい何者なのだ!

 次の瞬間、ケンタの一撃が武太の困惑を一方的に終結させた。

 頭突き《ヘッドバット》。

 人体において最大級の強度を誇る前頭部が、まったくの無防備だった鼻の頭へと勢いよく叩き付けられたのだ。

 目の奥で発生した目映い閃光とともに武太の意識はわずかの間断絶し、生暖かい血液がその鼻腔から音を立てて吹き出した。

 衝撃のあまりぐらりと後方へ倒れ込む異相の男を、続けざまにケンタが懐深く引っ張り戻した。

 腕周り二尺に及ぶ左の豪腕が、武太の首を脇の下でがっしりと抱え込む。

 フロントネックロックか?

 いや違う。

 その直後、「いやぁっ!」という掛け声一閃、ケンタが武太の長身を一気に真上へ持ち上げたからだ。

 垂直落下式ブレーンバスター!

 尻餅を突くように後ろへと倒れ込むケンタと一緒に、武太の脳天が真っ逆さまに落下する。

 それは、これまで彼が一度も遭遇したことのない、凄まじく危険な投げ技だった。

 大男ふたり分の体重がまともに頭部を直撃し、武太の意識は一瞬にして雲散霧消した。

 かろうじて気を絶さずにおれたのは、独特の体術で鍛え上げた太い首があってこそのことだ。

 ケンタはそのことを察していた。

 勝負はまだ決していない。

 ここでこの男に回復を許せば、この男を仕留めなければ、せっかく振り向かせた勝利の女神はふたたびそっぽを向いてしまう。

 いまだぼやけて判然としない視力などものともせず立ち上がったケンタは、武太の頭髪を掴みながら腕尽くで彼の身体を直立させた。

 右の拳をぶるぶると握り締め、咆吼とともに振り回した丸太のような腕をその喉下目がけて叩き付けた。

 居合抜き式の豪腕ラリアット。

 貨物を満載した荷車との激突に匹敵する衝撃が武太の真正面から襲いかかった。

 彼の身体は、まさしく板戸でも倒すような勢いで後方へ向けなぎ倒された。

 受け身を取ることも叶わず、その背中と後頭部が畳の上に打ち据えられる。

 間違いなく勝負あったの一撃だった。

 しかし、ケンタは追撃の手を緩めない。

 彼はぐったりと脱力した武太の肉体をまたしても引きずり起こし、それを今度はおのれの両肩に仰向けの体勢で担ぎ上げた。

 左手で相手のあごをがっちりとロック。

 続いて周囲の大気を震わせる雄叫びを上げたケンタは、真横に倒れ込むようおのれの全体重を預けつつ、武太の身体を文字どおり脳天から奈落の底目がけて投げ落としたのだった。

 古橋ケンタの最終兵器・バーニングハンマー。

 それはまさしく鉄槌だった。

 わずかばかりの受け身を取ることすら、完全無欠に不可能だった。

 いまだかつてこの技を食らって立ち上がってきた者などひとりもおらぬ、まさにKO率百パーセントの究極奥義。

 たとえ百戦錬磨の達人が相手でも、その受け方次第では一撃で死の河を渡らせかねない文字どおりの必殺技だ。

 ケンタは、ほとんど死に体の武太に対して、なおためらうことなくその封印を解き放った。

 それほどの覚悟を決めなくては到底この男を仕留めることなどできはしないと、心底確信していたからにほかならなかった。

 ああ、これが死か。

 死というものか。

 妙に冷たくおのれを評する自分自身を、この時、武太は実感していた。

 それは、まさしく本能的な直感だった。

 吸い込まれるようなマイナスGとともに頭部が畳の上へ落下するまでの短い時間、怒濤の衝撃が我が身を貫くまでの刹那の期間を、彼はまるで幼子のように楽しんだ。

 そこにはなぜか、ある種の幸福感すらが芽生えていた。

 それは、諦観と言うにはあまりにも穏やかに過ぎる感情だった。

 肉体が崩落すると同時にすべての知覚が完全に寸断され、視界が一気に暗転した。

 苦痛も恐怖もそこにはなかった。

 そんなものを感じられる余裕など、微塵も与えられはしなかったからだ。

 彼は思った。

 なるほど、これが黄泉路というものか。

 恐れられている割には、存外生温きものなのだな。

 だが、それがいわゆる錯覚であったことに武太は気付いた。

 暗闇に転落した意識が徐々に目覚め、おのが肉体に疲労と苦痛とが鮮明に蘇ってきた時、彼は自身の生がいまだ終焉を迎えていないことを発見したのだ。

 もちろん、まともに身動きが取れるような状態ではない。

 戦いの継続など思いも寄らない状況だった。

 でも、俺は生きている。

 生きて呼吸し、この心臓は確実に脈打っている。

「なぜ、殺さなかった?」

 おのれの傍らで座り込みぜいぜいと息を乱しているケンタを見出し、なかば呆然としつつ彼は尋ねた。

「おまえが最後に放ったあの投げ技……手加減なくば、あれを受けた俺は、いま頃冥界の住人に成り果てていたはずだ。なぜだ? なぜ、俺を殺さなかった? おまえはこの俺が憎くはないのか?」

「憎いさ。できることなら、いますぐこの手で絞め殺してやりたいくらいにな」

 武太の問いかけにケンタは答えた。

「でも、いまわの際に秋山先生がおっしゃってた。戦う技の行き着く先がことごとく殺人術だってのは、あまりにも哀しいことなんじゃないかって……土壇場になって、そいつを思い出したんだ。あんたに情けをかけたわけじゃない」

「く……くくく」

 そんな彼の発言を聞いた武太の口からくぐもった笑い声が漏れ始め、やがてそれは高らかな嘲笑となって爆発した。

「なんともなんとも、これはまるで砂糖菓子のように甘い考えだ。頭が湧いているとしか思えぬわ」

 ひとしきり笑い終えたあとで武太は言った。

「誰がなんと言おうと、しょせん『武』とは暴力、『武術』とは殺人技。それこそが打ち消しきれぬ現実で、何人たりとも否定できない絶対唯一の理だ。いまおまえが口にした美辞麗句は、一度たりともおのれの手を血に汚したことのない者にしか通用せぬ、甘ったれた戯言以外の何物でもないわ。まさに片腹が痛いとはこのことだ。どうしてこれが笑わずにおられるか!」

 ふたたび武太は笑い声を上げた。

 いまや黒い煙が濃厚に漂うようになった天井を寝転んだまま見上げ、それこそいまにも腹を抱えんとばかりに身を捩った。

 それを見たケンタの顔が瞬く間に赤く染まった。

 あからさまな怒りの発露だ。

 武太の発言と態度とを、彼は敬愛する秋山弥兵衛への侮辱として捉えたのだ。

 感情が肉体を突き動かし、たちまちその腰が浮き上がる。

 しかし、続く武太の発言がそれを寸前で押し止めた。

 「だが……」という否定の句から改めて動き出した彼の唇は、まるで自分自身に言い聞かせるような調子で次のような言葉を紡ぎ出したのだった。

「だが……俺はいま、そんなおまえたちが心底うらやましい……」

 この時、武太の目から小さく涙が流れたように見えたのは、ケンタの気のせいだったのだろうか。

 意表を突いたおのが発言に戸惑うケンタをちらりと見やり、武太は静かに台詞を繋いだ。

「古橋ケンタ。秋山葵は高山城にいる」

「高山城?」

「そうだ」

 彼は言った。

「この一件の首謀者は飛騨高山藩城代家老・姉倉玄蕃という男だ。あやつは、あの娘を利用して藩主・金森家の跡目相続に介入しようとしているのだ。おのれの欲望を満たさんがために、な」

「なぜ、そんなことを俺に話す?」

「礼だ」

「礼?」

「人生の最期にこれ以上なく充実した刻を、武人としてこの俺が全力を尽くす機会を与えてくれたことへの礼だ。裏表などない。間もなくこの世を去る者が言だ。素直に受け取っておくがいい」

 そう言い終えるが早いか、武太の口から多量の鮮血が吹き出した。

 口内に隠し持っていた毒薬を、密かに彼はあおったのだ。

 突然のことに仰天しおのれに向かってにじり寄ってきたケンタを軽く片手で制した武太は、おのが血で喉元までを真っ赤に染めつつ生涯最後の言葉を放った。

「気に病むな。任を果たせなんだ忍びは死をもって償うのが最後の努めだ」

 相好を崩しながら武太は告げた。

「誰かに使われる道具として産まれ、そのまま誰かに使われる道具として生きてきた俺だが、最後の最後に人としての充足を得ることができた。古橋ケンタ……おまえと会えて嬉しかった……ぞ」

 火の回った天井の梁がめりめりと音を立てて崩れて落ちてきたのは、ちょうどその時のことだった。

 慌てて後ろへ退いたケンタの目の前で、事切れた武太の亡骸が落下してきた瓦礫と炎とに埋め尽くされていく。

 秋山道場の建物は、いまやそのすべてが灰燼に帰そうとしていた。

 ケンタが初めて弥兵衛と対面した表座敷も、葵たちと日々朝餉夕餉を楽しんだ小部屋も、毎朝隅々までこの手で雑巾がけをした稽古場も、おのが心から敬愛していた恩人と、そしていま自分と生死を賭けて戦ったひとりの男の亡骸ともども、そのことごとくが紅蓮の炎に飲み込まれこの世から消え失せようとしている。

 呆然と庭先に立ち尽くし、舞い散る火の粉を全身に浴びながらケンタは無言でその成り行きを眺めていた。

 滂沱の涙がその頬を伝って流れ落ちる。

 だが、彼は一向にそれを拭おうとはしなかった。

 瞬きすることすら忘れ、まるでその光景をおのが網膜に焼き付けんとばかりに灰と化すさまざまな思い出を眺め続けていた。

「高山城……城代家老・姉倉玄蕃……」

 息絶える間際、武太が口にしたその名をケンタの唇が反芻した。

 秋山葵は、彼が恩人より託された大事な宝は、おのれが命を賭けて守らんと誓ったひとりの少女は、いまその城の中にいる。

 その名を持つ男の虜とされている。

 なれば、この俺は行かねばならない。

 真一文字に口を引き締め、ケンタはおもむろに踵を返した。

 たとえそこにいかなる困難が待ち構えているとしても、俺はなんとしてもあのを助けに行かねばならない。

 それこそが俺の役目。

 それこそが俺の役割。

 それこそがこの俺に求められたヒーローとしての責務。

 そう、それこそが、それこそが、それこそが──…

 その次の刹那、一瞬だが思考の空白がケンタの身の上に生じた。

 いきなり両足が宙に浮いたかと思えば、今度は地面が眼前で立ち上がりかすかな衝撃とともに意識が飛ぶ。

 やがて困惑とともにケンタが目覚めた時、彼は何かが自分の顔に押し付けられているという事実を知った。

 冷たく、ざらざらした、そしてじっとり濡れた物質で形成されている分厚い何か。

 それが土でできた壁面であることに気付いたのは、ゆっくりとひと呼吸したあとの出来事だった。

 妙に冷めた頭でケンタは自分の置かれた状況について考える。

 なんだ、これ?

 いつの間にこんなものができあがったんだ?

 というより、ここはどこだ?

 いったい何が起こっているんだ?

 雨音?

 雨の滴?

 なんだ、俺。

 いつの間にか寝てたのか?

 ゆっくりと覚醒していく自我に合わせ、彼は徐々にだが現在の自分自身を把握していった。

 そうだ。

 自分はさっき突然意識を失って、糸が切れた操り人形みたいに地面の上へ突っ伏してしまったに違いない。

「なんだ、そうか……」

 まるで他人事のようにケンタはひとりごちた。

 乾いた笑いが顔に張り付く。

「ダメージでかかったもんな。仕方ないさ……」

 「よっ」と小さく声を上げ、ケンタはその場で起き上がろうと試みた。

 それは、ただ両手を突いて上体を起こすという、毎朝の起床時に布団の上で行う動作と寸分違わぬものだった。

 子供ですら特に意識せず行える、まさに挙動とも言えないほどのその挙動。

 しかしケンタの肉体は、持ち主の意に反してぴくりとも動き出そうとしなかった。

 力そのものが一向に入ろうとしてくれない。

 つい先ほどまで熱いくらいに精気を孕んで躍動していた全身の筋肉が、いまは保冷庫に収められた食肉の塊と同様、単なる死荷重デッドウェイトのようにしか感じられなくなっている。

 どうなってるんだ?

 この時になって、初めてケンタは動揺した。

 俺の身体、いったいどうなってしまったんだ?

 まるで自分の身体じゃないみたいだ。

 おかしいぞ、おかしいぞ。

 目の前がゆっくりと暗くなっていく。

 なんでだ?

 どうしてだ?

 雨に打たれて身体が冷えてるはずなのに、ちっとも寒さを感じない。

 変だぞ、これは。

 明らかに変だ。

 まさか、俺、このまま死んでしまうのか──急激に襲ってきた睡魔を惚けた頭で迎えながら、ケンタはふとそんな結論に思い至った。

 そうか、死ぬのか。

 死んじまうのか、俺。

 まあもともと俺はこの時代の人間じゃないし、本来いてはいけない存在がこの世から消えてなくなってしまうのも、ある意味仕方のないことなのかもしれない。

 もし俺がこの時代で死んだら、ひょっとしてもといた時代に戻れるのかな?

 もしそうだとしたら、美沢さんたちはどんな顔をするんだろう?

 もしそうだとしたら、故郷のおふくろはどんな顔をするんだろう?

 やっぱり泣いてくれるんだろうな。

 あたりまえか、ははは。

 いまはそれ以外の顔を思いつかないや。

 で、葬式には俺のファンもいっぱい詰めかけてきて、俺のために泣いてくれるんだろうな。

 それって本当にありがたい話だよ。

 感謝のしようもないくらいだ。

 そういえば、葬式で泣いてくれる人がいるってのは実に幸せなことなんだって、どこかの偉い人が言ってたっけ。

 葬式で流される涙の量こそ、そのひとが愛されて求められてきたことを計る何よりのバロメーターなんだって。

 嫁さん子供いなくてよかったな。

 いまは本気でそう思う。

 だってそうじゃないか。

 俺も男だから、好きなひと泣かすわけにはいかないよ。

 大切なひと泣かすわけにはいかないよ。

 護んなきゃいけないひと泣かすわけにはいかないよ。

 好きなひと。

 大切なひと。

 護んなきゃいけないひと。

 あれ?

 俺、何か大事なことを忘れてる。

 なんだっけ、なんだっけ。

 畜生、頭がぼけて思い出せない。

 葵さん、葵さん。

 俺、何か大事なこと忘れてるような気がするんだけど、思い付くことありませんか?

 あれ、葵さん。

 なんで泣いてるんですか?

 そんな哀しそうな顔しないでくださいよ。

 葵さんのことは、これからも俺がちゃんと護りますから。

 秋山先生に言われたからじゃなくって、それは俺の意思で俺自身が決めたことなんですから、葵さんが気に病むことなんてないんですよ。

 葵さんは俺にとって、好きなひとで、大切なひとで、護んなきゃいけないひとなんですから、泣いてもらっては困ります。

 というか、この俺が葵さんを泣かすような目に遭わせやしません。

 ええ約束します。

 約束します。

 約束しますったら。

 だから、いつまでも笑っていてくださいね。

 俺はあなたの笑顔を見ているのが大好きなんですよ。

 葵さん、葵さん、葵さん。

 俺の、俺だけの葵さん──…

「葵さん!」

 電撃がケンタの背筋を雷鳴のごとく走り抜け、彼はかっとその目を見開いた。

 動かなかった右腕を懸命に伸ばし、五本の指を地面の上に突き立てる。

 いまのいままで「死」というものを漫然と受け入れようとしていたおのれを全力で否定しつつ、彼は自らの背を幾度も幾度も鞭打った。

 力一杯歯を食いしばり、自分自身を叱咤する。

「そうだ。まだ……まだ死ねない」

 腹の底に力を込め、ケンタはひと声大きく叫んだ。

「俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ!」

 だがその雄叫びは、彼にとってあたかも消える直前のろうそくが見せるひときわ大きな輝きのようなものだった。

 ぷつんと音を立てて、ケンタの中の何かが途切れた。

 ふたたび視界に暗幕が降り、じりじりと持ち上がりつつあった彼の顔は、すとんと雨に濡れた地面の上へと落下する。

 まだだ、まだだ、まだだ──呪文のごとく同じ言葉を繰り返しつつ、彼の意識は真っ暗な深淵目がけてゆっくりと沈み込んでいった。

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