第三十話:砕け散る未来

 おもむろに頭白が放った裏切りの言葉──それを耳にした葵は、思わず言葉を失った。

 その場で呆然と立ち尽くし、小刻みにひざを揺らす。

「なぜ、あなたさまが左様なことを……」

 信じられないとばかりに目を見開いたまま、彼女はそんな風にひとりごちた。

 驚愕が、一時的にその顔付きから感情というものを奪い去ってしまっている。

 確かに武を嗜んでいることは聞いた。

 実際にその驚くべき手並みを目にしてさえいる。

 しかしそれでも、彼女の中の頭白とは幼子たちと戯れる穏やかな人格者であり、とうとうと人の世の理を語る仏道の実践者であった。

 だが、そんな彼がいま口にした台詞──いや、むしろそれは要求と言うべきだろうか──は、「葵の身を渡せ」という、およそその目的を聞き間違えようない代物だった。

 そしてそれは、頭白坊その人が、井川源三郎などと同様、彼女を狙う一派の側に立っているという事実を何よりも雄弁に物語っていた。

 確かに、たかだか一宿一飯を世話になったからといって、その時の恩人がいかなる場合もおのれの味方だなどと考えるのは、まこと世間知らずにもほどがある。

 葵も、いわゆる武士の娘としてその程度の常識は十分わきまえているつもりだった。

 それでもなお彼女がこれほどの衝撃を受けたのは、秋山葵という純粋な少女が、この頭白という僧侶をひととして心の底から敬愛していたゆえである。

 彼女にとり、あつい敬意の対象たる人物がおのれを害する立場に身を置くことなど、絶対に認めたくない現実だった。

 そんな葵を尻目に、ケンタは半歩前に出た。

 両腕を下げたままの上体が、少しだけだが前傾する。

 それは、明らかに不測の自体に備えた姿勢だった。

「もし、『断る』と言ったら?」

 彼は尋ねた。

 意図して声に険を込め、気迫を乗せた目線を送る。

 もちろん、それらすべては負傷の重さを悟らせぬための強がりだった。

 いかにおのれが不利な状況に置かれても、気持ちだけは退くことなく常に強気に、正真正銘の意地を張りつつ立ち向かう。

 それがケンタの信じる男としての、そしてプロレスラーとしての本能だった。

 たとえ見え見えの強がりであろうとも、そこに後ろ向きの意思を含めるつもりなど彼の中には毛頭なかった。

 だが哀しいかな、そんなケンタの思惑も、目の前に立つこの白髪の僧侶には空しいものと映ったようだ。

「古橋殿、虚勢を張るのはおよしなされ」

 軽く嘆息しながら彼は言った。

「それがしの見たところ、そこもとの左足は歩くのがやっとのご様子。左様なありさまでは、到底それがしと立ち会うことなどできませぬ。まさしく無謀というもの」

「だからおとなしく言うことを聞け、とでも言いたいんですか?」

 ケンタの問いに「左様」と頭白は頷いた。

「こう見えても、それがしはあくまで仏に仕える身。おのれの武威をもって、むやみに人を傷付けたくはござらん。もし貴殿が我が言を受け入れてくださるなら、そこもとと葵殿の安全は、この頭白が身命をもって保証いたす。いかがでござろう。無益な抵抗など試みず、ここはそれがしに降ってはいただけまいか?」

 ケンタは、それに即答を避けた。

 正直なことを言えば、心のどこかに頭白の発言を信じてみたい気持ちがある。

 その心情は、ある意味で無条件の信頼に近いものですらあった。

 彼はこの時、あの古寺での夜を克明に思い出していた。

 いまにもその輝きが落ちてくるのではないかと思える文字どおり満天の星空のもと、ケンタはこの異形の僧侶とまるで若者同士のように腹を割って語り合った。

 それは、ひとりの男の人生というものにあってそう何度も訪れることなどない、重く濃密な体験だった。

 たとえ短くはあっても、その時間はケンタの心の奥底に頭白という人物への信念を克明なまでに刻み込んだ。

 十年来の友誼にともなう絆にも似たその感情。

 それは、まるで似たもの同士が時として抱き合う、強烈な「共感シンパシー」にすら匹敵する想いだった。

 だが、彼はそんなおのれをひと息で振り払った。

 間を置かず、返答の言葉を口にする。

「お断りします」

 きっぱりとケンタは言い放った。

「あなた個人は信用できても、あなたの後ろにいる誰かを信用することまではできませんからね」

「左様でござるか……ひどく残念には思いまするが、それもまた古橋殿のお立場としては仕方のないことなのやもしれませぬな」

 明確な拒絶の言葉を受け、頭白はすっと目の色を変えた。

 あたかも研ぎ澄まされた鋭刃のごとき、冷たくそして無機質な眼差し。

 二本のそれでケンタの心臓をまっすぐに射貫きながら彼は応えた。

「では、始めるといたしましょう」

 小さく頷き、ケンタはすっと両手を上げた。

 彼が古寺で見た頭白の闘技。

 傍若無人な侍どもをまさしく一蹴してみせたその技は、明らかに打撃系格闘技の持つそれだ。

 空手ともキックボクシングともどこか異なるが、四肢を縦横に活用して敵を打つ技術であることに変わりはない。

 間合いだ。

 間合いこそが大事だ。

 ケンタは上げた両腕で頭部を守りながら、自分自身にそう言い聞かせた。

 打撃系格闘技の肝は巧みな間合いの維持にある。

 おのれの打撃が十分な効果を発揮する距離を保ちながら、相手のそれには身を置かない。

 いわば空間の争奪競技とさえ言える。

 空中戦で戦闘機同士が互いの後ろを奪い合う、いわゆる「ドッグファイト」というものに近いかもしれない。

 だが、いまのケンタは、そのような動きを実行できなかった。心臓の鼓動に応じて左足の傷がどくどくと脈打つ。

 興奮にともなうアドレナリンの分泌が足りないのか、その痛みが鈍ることは一向になかった。

 むしろ、それは足全体へのしびれに変化しつつある。

 自分の足でないのではとさえ思えるほどだ。

 この状態で相手の足裁きフットワークに対応するのはどう考えても不可能だった。

 組み付くしかない。

 ケンタは戦闘計画をそう定めた。

 相手からの打撃を二、三発喰らうのは覚悟して、無理矢理にでも組み付いて寝かせてしまうほか現状の不利を打開する方策はない。

 いったん寝技グラウンドに持ち込んでさえしまえば、あとは目方の差で優位に事を進められるはずだ、と。

 しかしそれは、頭白にとって白々しすぎるほど明らかな戦略であったに違いない。

 手のひらを下に向けた左腕を中段に差し出し、半身立ちの前構えをもって彼はケンタと対峙した。

 自身の懐を深くとりつつ、じっくりと間合いを計る。

 その表情はまるで機械のごとく冷静で、およそ人間の感情というものを認めさせない典型的なポーカーフェイスだった。

 冷たい視線がケンタを捉えた。

 その色を持たない双眸が、否が応にも彼の注意を引き付ける。

 なんだよ、この威圧感は。

 背筋に冷たい汗が流れるのを感じ、ケンタは思わず喉を鳴らした。

 それが、いわゆる「恐怖」であることに彼はまったく気付いていない。

 先ほど井川源三郎との立ち会いで覚えたそれとは完全に異なる、肉体が直に反応してしまうそれ。

 我が身に訪れる具体的不利益からもたらされるものではない本質的なその恐れは、原初の人間が深い闇の奥底に抱くそれに極めて近いものだった。

 本人の意思とは別に、ケンタの腰がわずかに引けた。

 その瞬間を見逃すことなく、頭白がふっと前に出る。

 無造作に、あたかも何もない空間へただ足を踏み出すかのごとき気楽さで、彼はケンタの懐へ入り込んだ。

 一気に破られる間合い。

 お互いの手が届くその距離は、しかしケンタがなんとかして手に入れようと渇望していたものに近かった。

 断じて頭白の保つべき間合いではない。

 突如として相手から捧げられた優位に、ケンタの思考が一瞬麻痺した。

 なんだこれは。

 いったいなんのつもりだ。

 相手の意図を読み切れず、強い困惑が頭蓋の中を激しく巡る。

 罠か?

 それとも──ええい、迷っている場合ではない。

 ままよ!

 そう自分自身を叱咤したケンタは、伸ばした左手で頭白の着衣、その右肩の後ろあたりをがしっと掴んだ。

 そのまま腕尽くで手前に引き寄せようと力を込める。

 頭白の右拳がケンタの下顎に突き付けられたのは、まさにその時だった。

 緩く握られた縦の拳。

 それはまるで寸止めの一撃のように、いやむしろケンタの挙動に「待った」をかけるかのように、するりと最短距離を伸びてきた。

 意表を突かれたケンタの思考がわずかだが、ほんのわずかだが滞った。

 それは、まさしく心の隙としか言いようのない刹那の瞬間だった

 その時を狙い澄ましたかのごとく、鋭い拳撃がケンタの顎先をまっしぐらに打ち抜いた。

 突き付けられた頭白の右拳がまったくの密着状態から爆発的な衝撃を放ったのだ。

 寸勁ノーインチパンチ

 予備動作も加速空間も存在しない、これまでケンタが見たことも受けたこともない打撃技。

 それは、よどみなく正確な全身動作によって初めて実現可能となる、文字どおりの超高等テクニックだった。

 無論、その物理的な破壊力は通常の打撃技に勝るものでは決してない。

 しかし、奇襲となれば話は別だ。

 予期せぬタイミングでの加撃は、被弾者の心身両面その奥底を深々とえぐる。

 ケンタもまたその例外でありはしなかった。

 上半身がはじけるほどの衝撃を受け、彼は激しく狼狽する。

 なんだ、これは!

 ケンタの巨体が思わずたたらを踏んで後退した。

 頭の中で早鐘が打たれている。

 反撃などもってのほか。

 必死になって足を踏ん張り、転倒しないよう身体を支えるのがやっとという状況だ。

 人並み外れた打たれ強さを自認していたケンタにとって、それは久方ぶりに経験する感触だった。

 打撃による「酩酊」

 まさかいまの自分がそのようなものを味わうなどと、彼は思ってすらいなかった。

 あらかじめ覚悟を決めた衝撃であれば、人間の肉体は勝手にそれなりの対応を果たす。

 よくボクシングなどで言われるように「ノックアウトするかどうかは、打たれた時の気合いでわかれる」のだ。

 空手界においても「打たれた瞬間、打たれた箇所に全神経を集中させるならば倒れることは決してない」との主張がある。

 しかしそれは言い換えるなら、「不意を打っての一撃は、想像以上の威力を発揮する」という現実の正確な裏返しでもあった。

 いまその現実を体感し、まずい、と本気でケンタは思った。

 しかも今回は、顎の急所をピンポイントで狙われたのである。

 視聴覚障害に四肢の麻痺。

 加えて、平衡感覚までもが狂い出す。

 これは、頭が激震されて軽い脳震盪が引き起こされているに違いなかった。

 当然、頭白はその絶好の機を逃しなどしない。

 左の下段。

 右の中段。

 左の上段。

 息を吐かせぬ三連蹴りが、立て続けにケンタを襲った。

 太股、脇腹、そして側頭部をほとんど同時に直撃され、ケンタはどっと片膝を付いた。

「古橋さま!」

 葵の悲鳴がその背を打った。

「観念なされ」

 わずかに憐憫すら感じられる声色で頭白は告げる。

「琉球に伝わりし『てい』の技に唐人より学んだ大陸の武術を組み込んだ我が闘術。いかにそこもとといえど容易く破れるものではござらん。重ねてお願いいたす。おとなしゅう降りなされ」

 強い。

 眼前に立つ異形の僧侶を、必死の形相でケンタは見上げた。

 いったいなんだ、この強さは。

 技のひとつひとつが、ただ上っ面をはたくようなそれとはひと味違う。

 身体の芯にまで染み通るずっしりとした重さ。

 目が回る。

 耳鳴りがする。

 ひざが揺れる。

 それは、しっかりと乗せられた体重が根こそぎ体幹に叩き込まれたという決定的な証左だ。

 自分がこれまで受けてきた打撃技の中では、間違いなく五指に入るだろう。

 疑う余地はこれっぽっちもない。

 「デンジャラス」とまで謳われた先輩レスラーのジャンピングハイキック。

 「ブレーキが壊れている」と評された外人レスラーのウエスタンラリアット。

 そして、「プロレスリング・アーク」の社長にしてケンタ最大の好敵手・美沢ミツハルが放つ渾身のエルボーバット。

 いま頭白が見せた電光石火の連撃は、そのいずれと比較しても決して劣ることのない破壊力を持っている──少なくともケンタ自身はそう思った。

 そう感じた。

 心だけでなく、技を受けた彼の肉体そのものがそのように主張してやまなかった。

 強い。

 ケンタは唇をかみ締めた。

 これがホンモノの武芸者たる人間の実力なのか。

 これが、自分たちプロレスラーのように観客へ何かを伝えるため戦うのではなく、純粋に相手を殺傷する手段のみを磨き上げてきた者の実力なのか。

 だとしたら、俺はどうやればこの男に勝てる?

 この男に勝つため、俺はいったい何をすればいい?

 いや、そもそも俺はこの男に勝つことなどできるのか?

 久しく抱いたことのない疑念とともに、左足の痛みが一気にぶり返してきた。

 開いた傷口がふたたび血を流し始めたのを実感する。

 心臓の鼓動が耳に近い。

 ぐらぐらと揺れる意識のなか、唐突にケンタは葵に目を向けた。

 彼が守るべきその少女は、いま全身に大粒の雨を受けながら、心配そうな眼差しで彼の姿を見詰め続けている。

 彼女から向けられる無垢の信頼が、期待が、ケンタの臓腑を激しくえぐった。

 出所不明の無力感が彼を襲う。

 秋山弥兵衛の言葉が彼の脳裏に浮かび上がってきたのは、その時だった。

 「古橋殿。我が娘、葵の身を守ってやってはいただけぬか」

 そう淡々と告げる弥兵衛の目に、いま葵がその目に宿しているものと同様の色が潜んでいたことを、ケンタはいまさらながらに感じ取った。

 頭の中に光が走る。

 それはまさしく、閃光と呼ぶにふさわしい明るさと鋭さとを有していた。

 守らなければならない。なんとしても──彼は思った。

 そして次の瞬間、ケンタの口は短く葵に告げていた。

「葵さん、逃げて!」

 言葉と同時に肉体が反応する。

 なかば言うことを聞かない左足を叱咤して、ケンタは思いきり大地を蹴った。

 その巨体が低空を突進する。

 タックル。

 プロレスラーの流儀。

 基本中の基本。

 ただしケンタのそれはレスリング風の胴タックルではなく、フットボール式のボディコンタクトだ。

 小細工も駆け引きもなくただまっしぐらに突っ込んできた巨漢に対し、頭白は顔色ひとつ変えず腹立たしいほど冷ややかに応じた。

 それはまるで、すべてが想定内の出来事だ、とでも言いたげなほどの態度だった。

 低く沈んだケンタの顔面めがけ、直下から左の膝が突き上げられた。

 ケンタはかろうじて顎の下をブロック。

 上体がはじかれたように浮き上がった。

 凄まじい威力だ。

 防御した腕越しに、おびただしい衝撃がその脳天を稲妻のごとく貫通した。

 目の裏で星が散り、口の中で歯が欠ける。

 巨体が揺れた。

 前に出る頭白。

 右の拳が放たれる。

 顔面への直突きじかづき

 被弾するケンタ。

 鼻血が飛び散る。

 頭白、右上段。

 ケンタ、左腕で防ぐガード

 頭白の左鉄槌打ち。

 右のこめかみを直撃。

 ケンタの身体が前のめりに崩れる。

 その頭を上から頭白の両手が押さえつける。

 右の膝。

 まともに入る。

 意識が飛ぶ。

 視界が消失。

 後退りする頭白。

 その眼前で、ケンタの身体がどうと音を立てて倒れ伏した。

「ぐ……」

 ケンタはなお立ち上がろうと、死にものぐるいで腕を立てた。

 ぬれた地面を掴みつつ、弛緩する筋肉に無理矢理力を込めていく。

 戦況は、劣勢などとうのむかしに通り越し、まさしく絶望的な有様だった。

 素人目にも勝敗などは明らかだ。

 蓄積された肉体の損傷を考えるなら、もはやこれ以上の抗戦はまったくの無意味だと言えた。

 しかし、それでもケンタは尽力した。

 目の前の敵に立ち向かおうと、遮二無二おのれの心身を奮い立たせた。

 朦朧とする意識などものともせず、ほとんど本能だけになってまで二本の足で大地を踏みしめようと奮闘した。

 端から見れば、ほとんどの者がその姿勢を愚かしいと感じただろう。

 九分九厘、いやそれ以上に勝ち負けが定まった争い事に、彼はいまさらなんの意味を求めているのか。

 ここはもう、自らの保身をこそ目指すべき状況ではないのか。

 すべては、命あっての物種ではないのか。

 そんな彼をただ黙って見守っていた葵は、いまケンタを突き動かしているものが、いわゆる「献身」であることを悟った。

 見返りなどいっさい求めぬ、文字どおりひたむきなまでの自己犠牲。

 ケンタは、この愚直なまでにまっすぐな大男は、そうまでして一介の娘に過ぎない自分を守ろうとしてくれているのだ、と。

 そのことをはっきりと認めた彼女の脳裏に、ここ数ヶ月の思い出が走馬燈のように走り込んできた。

 竹林にて、無頼者から助けてくれたケンタ。

 夜の社にて、人さらいから助けてくれたケンタ。

 橋の上にて、狼藉者から助けてくれたケンタ。

 荒れた原野で、襲撃者から助けてくれたケンタ。

 それがおのれにとってなんの利益にもならないと知りつつ、彼はいつだって自分のために戦ってくれた。

 たとえその身が傷付き血を流すことになろうとも、自分のために一所懸命、全力を尽くそうとしてくれた。

 そう感じた。

 そう信じた。

 そんなひとりの男が、いまおのれの目の前で倒れ、力尽きようとしている。

 誰のためにでもない。

 この自分のために。

 ただこの身を守るために、その盾になるために、だ。

 背筋が震えた。

 唐突に溢れ出した涙が、雨粒に混じり、滝となって頬の上を流れ落ちた。

 ケンタの言葉が、はっきりと耳の奥によみがえる。

 葵さん、逃げて。

 だが、彼女はその言に従わなかった。

 従う素振りすら見せなかった。

 それが彼の思いを無駄にする行為なのだと理解しながら、どうしてもそうすることができなかった。

 古橋さま──心の中で葵は告げた。

 一度だけ、この一度だけでございます。

 葵のわがままをお許しください。

 いま私は、あなたさまのお言葉を拒みます。

 あなたさまの献身を拒みます。

 あなたさまが、私を大事に思ってくださるそのお気持ちを拒みます。

 なぜなら、私は気付いてしまったからです。

 私は、あなたさまが好きなのだと。

 大好きなのだと。

 皆の前で大声でそう言ってしまえるほど、あなたさまをお慕いしているのだと。

 だから、葵は逃げません。

 逃げることなどできません。

 逃げることなど考えもしません。

 代わりに、葵は戦います。

 あなたさまとともに戦います。

 ともに傷付き、血を流すことを厭いません。

 古橋さま。

 葵は莫迦な娘です。

 これまであなたさまから受けてきた御恩に、このような形でしか報いることができません。

 あなたさまからいただいてきたお気持ちに、このような形でしか応えることができません。

 あなたさまが捧げてくださった誠意を、このような形で称えることしかできません。

 古橋さま、古橋さま、古橋さま──もうしばらくのご辛抱です。

 葵がいま、あなたさまのもとへ参りますゆえ。

 強く目をつぶり、その端に浮かぶ涙の滴を振り払った葵は、帯に差し挟んだおのが懐剣へと手を伸ばした。

 彼女の亡き母・雅が愛しい娘に残した大事な大事な護り刀。

 袋の紐が解かれるに合わせ、その先端に付いた小さな鈴が凜とかすかな音を鳴らす。

 そのを聞いた葵は、懐剣の柄を力強く握りしめつつ意を決したように唇を引き締めた。

「お母さま。何卒、何卒この私にお力をお与えください」

 彼女はそう呟き、そして大きく息を吸い込んだ。

 直後、その口から「うわぁー」という叫び声が発せられる。

 下腹に力を込め、おのれのなかに横たわる淀み、そのすべてを一気に吹き飛ばしてしまわんとばかりに。

「葵殿……」

「葵さん……」

 ふたりの男が声の主に目を向けたのと葵が決然とした口振りで言い放ったのとは、ほとんど同じタイミングだった。

「頭白さま!」

 叩き付けるように彼女は言った。

「いますぐ古橋さまから離れてください。これより先は、この私がお相手します!」

「駄目だ」

 ケンタの唇が、力なく言葉を紡ぐ。

「来ちゃ駄目だ、葵さん」

 だが、その声は雨音にかき消され葵の耳に届くことはなかった。

 懐剣を逆手に握り、葵はたっと駆け出した。

 剣術や柔術における一部の流派には、いわゆる短刀を用いた「懐剣術」というものが存在する。

 刀や脇差に隠れいささか目立つことの少ない懐剣だが、女性の武器という印象とは裏腹に、男性の武士にとっても極めて重要な護身武器だった。

 いやむしろ、「もののふの魂」たる刀と同等の価値を認められていたと評しても構うまい。

 葵の父である秋山弥兵衛も、おのが剣術を学んだおりにその技を身に付けていた可能性があった。

 しかし仮にそうであったとしても、彼がその手並みを実の娘に伝えていなかったことだけは確実だった。

 それほどまでに彼女の構えは稚拙で、どれほど好意的に表したところで、せいぜい「素人に毛が生えた」としか言いようがないものだった。

 本気で武の道に打ち込んできた者からすれば、それはまさしく児戯にすら等しかったろう。

 だがそれを見てもなお、頭白は少しも笑わなかった。

 確かに正面から応じる素振りも見せなかったが、同時に彼の瞳には、嘲笑の色や憐憫の色もまた微塵たりとも浮かび上がることはなかった。

 それはこの異形の僧侶が、おのれに仕掛けられた冗談にすら等しい挑戦から、一種揺るぎない意思の片鱗を見出したからにほかならなかった。

 なんの策も持たぬままただまっしぐらに駆け込んでくる少女に対し、それが礼儀だと言わんばかりに頭白はすっと向き直った。

 半身立ちの前構えはそのままに、迎え撃つ万全の体勢を整える。

「やめろ……」

 その足首を這うように掴もうとしたケンタの右手を、頭白は強く踏み付けた。

 おまえはもう眼中にない。無言の主張が彼に向かって告げられる。

 苦痛とも悔恨とも取れるうめき声がケンタの口から這い出した。

 しかし頭白の顔色は、それにすらなんの反応をも示すことがなかった。

 葵の背後に新たな人影が迫ったのは、彼女と頭白との距離が三間約五メートル半に届こうかという時のことだった。

 数は三つ。

 そのうちのひとつが、ためらうことなく葵の身体を後ろから羽交い締めにする。

 懐剣を握った利き手が思い切り掴み上げられ、短い悲鳴とともにその手の内から光る刃がこぼれて落ちた。

 現れ出たのは編み笠を被った三人の男たちだった。

 そのいずれもが、井川源三郎の引き連れた剣客どもとは明らかに異なる身形の者たちである。

 典型的な羽織と袴。

 腰に大小の刀が差されてあることから、彼らがれっきとした主持つ侍であることは明白だった。

 おそらくは正式な高山藩士なのだろう。

 葵を捕獲したひとりを除く双方が、おのおの長さ六尺約一.八メートル強の素槍を手にしている。

「葵さん!」

 ひと声叫んで強引に身体を起こそうとしたケンタのうなじに頭白の右膝が落とされた。

 同時にその左腕が後ろにねじ上げられ、肘と肩とをひと息に極められる。

 変形の脇固め。

 ケンタの巨体が一瞬にして押さえ込まれた。

 およそ一分の隙もない、見事なほどの完璧さだった。

「これまででござる」

 頭白は告げた。

「申したとおり、そこもとらの無事はそれがしが身命をもって保証いたす。これ以上の抵抗は無益。観念なされ」

「ふざけるな!」

 ケンタの全身に猛然と力がみなぎったのは次の瞬間の出来事だった。

 背中の筋肉がたちまちのうちに隆起し、丸太のような左腕に血液が流入する。

 莫迦な。

 いったい、まだどこにこんな力が?

 肘と肩とを極められているにもかかわらず強引にそれを引き離そうと試みるケンタの肉体に、頭白は思わず驚愕した。

 葛技関節技とは、常にその用いられる「機」が単純な「力」を凌駕する代物だ。

 そう固く信じていた彼の理論が、ほんのわずかだが歪みを見せる。

 非常識なり、古橋殿。

 左腕が折れても構わぬというのか。

 ケンタの腕を破壊することに対する刹那の躊躇が、頭白の意識にあってはならない隙を生んだ。

 雄叫びをあげ力任せに立ち上がったケンタが、上に乗っていた彼の身体を思い切り後方へと振り落とす。

「古橋殿!」

 受け身を取りつつ素早く起き上がった頭白の視界に、葵を救わんと突進していくケンタの背中が映り込んだ。

「戻られい。いまのそこもとでは無理でござる!」

 懸命に頭白は叫んだ。

 前進するケンタの先に、素槍を構えたふたりの侍が穂先を並べ彼を迎撃しようと待ち構えているのを見て取ったからだ。

 左足の刀傷をはじめ、頭白が叩き込んだもろもろの打撃痕。

 そして、いま無理矢理に極められた葛を振り払ったことで確実に負っただろう関節のねじれ。

 それらケンタの肉体が被った損傷を考えれば、たとえ素人であっても彼がまともに戦えるなどとは思えなかっただろう。

 そしてそれは、当の本人にも文字どおり痛いほどわかっていたはずだった。

 だが、ケンタは行った。

 満身創痍の身体に鞭打ち、おのれに課せられた役目を全うせんと気力を振り絞って地を蹴った。

 左足の刀傷は、もう完全に口を開けてしまっていた。

 巻かれた布が押さえきれなかった血液が、肌を伝って足首にまで垂れている。

 野獣のようにケンタが吠えた。

 その鬼神のごとき容貌を目の当たりにして、対峙するふたりの侍がわずかに怯む。

 しかし、爆発的な興奮のもたらした成果もそこまでだった。

 ケンタの視界が突如として歪んだ。

 ぐらりと平衡感覚が失われ、いきなり膝から力が抜ける。

 上半身が宙を泳ぎ、緊張の糸がぷつりと途切れた。

 あろうことか、頭白の攻撃が頭部に集中した影響が、この時になって改めて具現化したのだ。

 こんな時に──ケンタは歯軋りしておのれの肉体を呪ったが、それはまさしくあとの祭りだと言えた。

 差し出された槍の穂先が、一直線に彼の左肩へと突き立てられた。

 これまで経験したことのない激痛がケンタの全身を走り抜ける。

 喉の奥から声が出た。

 苦悶の表情を浮かべ、両手で槍の柄を掴む。

 だが、その手に力が入らない。

 なお槍先を突き入れてくる侍に押されるがまま、ケンタはずるずると後退した。

「古橋さまっ!」

 葵が叫んだ。

 我が身の心配ゆえではない、ただケンタの身を案じる意をもってのみ放たれた叫びだった。

 その直後、もう一本の槍がケンタの右脇腹を貫いた。

 間を置かず、痛苦の叫びが彼の口からほとばしり出る。

 それでも彼は抗う意思を捨てなかった。

 新たに突き出された槍の柄を右手で掴み、必死の形相で侍たちを凝視する。

 その視線の先には、一時の揺るぎすらなくただ葵の姿のみがあった。

 彼女を助けるんだ、守るんだ、救うんだ。

 いまやその思いだけが、傷付いたケンタの心身を突き動かす原動力となっていた。

 しかし、現実はあまりに残酷だった。

 とうのむかしに限界を通り越していた彼の身体は、もとよりそれ以上の抗戦を果たせる状況になどありはしなかったのだ。

 ふたりの侍に次第次第押し込められていったケンタは、ついに轟々と音を立てて流れる益田川の縁にまで追い詰められた。

 土俵際に立つ力士のごとくそれらに全力でもって抵抗しようにも、まるで下半身に力が入らない。

 一瞬だけだが、「諦め」という二文字が彼の脳裏をよぎって去った。

 奥歯が砕けるほど下顎に力を込め、ケンタはおのれを叱咤する。

 ふざけるな!

 プロレスラーは諦めない。

 諦めない。

 絶対に諦めないんだ。

 葵さんファンが俺のことを見ているんだ。

 葵さんファンの見ている前で、そんなみっともない真似をしてたまるか!

 だが、侍たちはそのわずかな緩みを見逃したりなどしなかった。

 裂帛の気合いとともにおのが槍先へと力を込める。

 加えられたさらなる痛みに、ケンタの足がほんの少しだけ後ろへ滑った。

 そして滑った先には、増水した川の流れにより、もう地面という存在が失われていたのだった。

 ケンタの巨体はたちまちのうちに均衡を崩し、水飛沫を上げて荒れ狂う濁流の中へと落下した。

 土砂を含んだ激流が、見る見る間にその姿を飲み込んでいく。

「古橋さま!」

「葵さん!」

 葵の悲鳴にケンタは応えた。

 懸命に水を蹴り、大きく水面に片手を突き出す。

 しかしそれも刹那のことで、彼の身体は瞬く間に暗い奔流の彼方へと押し流され消えていった。

「古橋さま、古橋さま、古橋さま、古橋さまぁっ!」

 漆黒の闇の中を、繰り返される少女の叫びがただ空しく通り過ぎていった。

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