第二十四話:老爺の正体

 光右衛門一行が泊まる離れの部屋をひとりの男が訪れたのは、その日も夜四ツ午後十時頃を過ぎたあたりのことだった。

 年の頃は四十前後。

 一見して渡世人と見紛うような風体であったが、そのがっしりとした体躯は明らかに常人のそれとは思えなかった。

 広い肩幅と太い腕。険しさの漂う面相とも相まって、彼が幾多の修羅場を潜り抜けたつわものだと見破るのは素人であってもさほど難しいことではなかっただろう。

 男の名は、松之草村まつのくさむら小八兵衛こはちべえという。

 その名のとおり常陸国ひたちのくに松之草村の生まれであり、かつては数十人の子分を従える大盗賊の頭であった。

 いわば、体制に反旗を翻した無法者の領袖ということになる。

 事実、役人によってその身を捕縛されるまで、彼は実に数多くの盗みに手を染めてきた。

 被害額の総計は、千両や二千両ごときではきかぬだろう。

 にもかかわらず、小八兵衛の身体からはいわゆる「血の臭い」というものが微塵も感じられなかった。

 それは、彼の「つとめ」が本格派のそれ──殺さず・犯さず・貧しい者からは盗まず──を貫いてきたからにほかならなかった。

 中庭に面した暗い縁側で膝を付いた小八兵衛は、音を立てぬようゆっくりと障子戸を開けつつ、はっきりとした口調で帰還を告げた。

「御老公、ただいま戻りやした」

「ご苦労」

 その時ちょうどおのが道中記をしたためている最中だった光右衛門が、筆を持つ手を止め振り向いた。

 行灯から放たれるほのかな明かりに照らされた八畳ほどある座敷の中には、文字どおり彼ひとりだけが鎮座していた。

 連れ合いの黒人・ボブサプは、襖を隔てた隣の小部屋にて控えている。

 そうやって主の身に起こる不測の事態へ備えることが、彼に与えられた最大の役目であったからだった。

 やがて身体ごと小八兵衛のほうに向き直った光右衛門は、重々しくも短く問いかけの言葉を口にした。

「で、どうであった?」

「高山城下までの要所には、明らかにその手の者と思われる手練れが数名ずつ配されておりやした。おそらくは、関所を抜ける間道・小道も同様でありやしょう」

 仰々しい態度でもって小八兵衛が答えた。

「されど、国境くにざかいの関所そのものには特に変わった動きは見られやせん。やはり此度の一件で動いているのは高山藩それ自体ではなく、その一部に権力を持つ者だけのように思われやす。道中に配された者どもも、あえて身をやつした藩士というより連中が子飼いの衆と見受けられやした」

「高山藩城代家老・姉倉玄蕃……彼奴あやつの仕業か」

「ご存じの方なので?」

「柳沢出羽守めが手駒のひとりよ」

 苦虫をかみつぶしたように顔をしかめ、光右衛門は忌々しげに吐き捨てた。

「利をもって飼い慣らした獅子身中の虫を操り、自らの手を煩わすことなく薄汚い謀を進める。いかにも保明が好みそうな遣り口だわえ。だがこのわしの目が黒いうちは、そうそうあの者の好きなようにはさせぬぞ」

「その出羽守さまでごぜえやすが」

 どこか面白がるような言い口で小八兵衛が告げた。

「どうやら江戸城に居られる御老公が『影』だと気付かれたご様子で」

「ふん。影などこのようなおりにしか使い道などないわ」

 侮蔑の感情もあらわに鼻を鳴らし、「ちりめん問屋の隠居」こと水戸屋光右衛門──いや、その正体である常陸国水戸藩二十八万石当主・徳川とくがわ三位中将さんいちゅうじょう光圀みつくにはそれに応えた。

 江戸幕府初代将軍・徳川とくがわ家康いえやすの嫡孫である彼は当年数えで六十三歳。

 二代将軍・徳川とくがわ秀忠ひでただの弟・頼房よりふさが三男であり、現将軍・綱吉にとっては父親の従兄弟にあたる。

 とかく好奇心旺盛な学者肌の人物として世に知られた光圀は、武士としては珍しく海外のさまざまな文物に対しても分け隔てなく興味を示した当代屈指の文化人であった。

 その常識にこだわらぬ柔軟な思考は時に燃えるような冒険心と結びつき、彼に突拍子もない行動を取らせることも多かったと聞く。

 儒教を基にした領内の寺社改廃を筆頭に、侍にとって忠義の証とされていた主君への殉死を禁じたこと、さらに巨船・快風丸を建造し当時未開の地とされていた蝦夷地への探検に自ら赴いたことなどがそれに当たる。

 その一方で、肉食が忌避されているこの時代においてなお好んで「四つ足の獣」を食すなど、いささか奇に傾いた行いもまた枚挙にいとまがないほどだった。

 ことに、母国の滅亡とともに亡命してきた明の儒学者・しゅ舜水しゅんすいを長崎より招聘して自らその教えを受けたことは、幕政に影響力を持つ徳川一門の長老格として考えるとまずもってあってはならない所行だった。

 権力の頂点に君臨すべき徳川将軍家の血筋が、よりによって異国の亡臣に師事する。

 人々の目にそれは、英断というよりむしろ乱心とでも評すべき行動に映ったことだろう。

 ましてやとかく形式にうるさい幕府要人たちにとっては、あたかも彼が狂を発したかのごとくに思われたはずだ。

 そんなわけだから、光圀と老中以下幕閣たちとの関係は、当時とてもしっくりいっているとは言えなかった。

 いや、単にそれらとの間に摩擦があるだけならばまだいい。

 しょせん政治とは、相互に矛盾する意見同士の稚拙な擦り合わせ行為に過ぎない。

 対人関係で激しい軋轢が発生するのは、むしろその常だとも言い得るからだ。

 だがこの場合に限って言えば、そうも楽観的な捉え方をするわけにはいかなかった。

 なぜならば、このおり彼ら双方の発生させた葛藤に最も過敏な反応を示した人物が、江戸幕府の頂点に就く征夷大将軍・徳川綱吉その人であったからだ。

 ある意味、潔癖な理想家肌で自身の正義を信じてやまない最高権力者綱吉と物事の筋道や道理というものをこそ重んじている学者肌の老臣光圀とでは、いずれ真っ向から意見がぶつかることなど誰の目にも明らかだった。

 しかも、最高権力者側がおのれの専制を目指し、我が意を忠実に受け入れる側近で周囲を固めようとしているとなれば、それはもうなおさらのことだ。

 柳沢出羽守──か。ふと自らの脳裏で口の端を吊り上げてみせた男の名を、光圀は言葉に出さず反芻した。

 上総国佐貫城主・柳沢出羽守保明。将軍・綱吉がまだ上野国こうずけのくに館林藩主だった頃より寵愛していた側近中の側近。

 将軍の意を家臣へと伝える側用人という立場でありながら、いまや幕府重臣である老中をも上回る絶大な権勢を誇っている人物だ。

 政治勢力をあえて保守・革新と二分するなら、間違いなく後者の側その筆頭に位置している。

 光圀ら譜代の家臣にとっては、まず最大の政敵と見なしてもいい相手だった。

 確かに切れる男だ。

 偏見のヴェールを取り除いたうえで、光圀は保明をそんな風に評価していた。

 無論、単に頭が切れるだけでは済まない。

 保明は教養高く見識に優れ、対人関係の調整にも豊富な経験を有していた。

 政治的な「寝業師」とさえ言い換えることができるだろう。

 それでいて主君への忠誠心には絶対的なものがあるのだから、権力者の知恵袋としてはおよそ付け入る隙が見当たらなかった。

 だが──光圀はこの時、そんな逸材をなお否定的な目で見る自分自身に気付いていた。

「小八兵衛」

 傍らに置いた喫煙具の中から愛用の煙管きせるを取り出した光圀は、火皿に刻み煙草を詰めながら縁側の小八兵衛に尋ねた。

「おぬし、漢の陳平という者を存じておるか?」

「浅学にして存じやせん。その御仁が何か?」

「なぁに、保明によう似ておると思うてな」

 火の点いた煙管をうまそうに吹かしつつ、ひょうひょうと光圀は語った。

「陳平とはの、かつて漢の高祖に仕えておった軍師の名よ。兄嫁と通じ下々からまいないを受けるなどとかく行状の良くない男であったそうだが、その有能さゆえ、高祖には重く用いられておったそうだ。事実、この者は主が直面した六つの危機にそれぞれ有効な奇策を進言し、そのすべてを見事に成功させておる。先代将軍の世に幕府転覆を企んだ由比ゆい民部之助かきべのすけ正雪しょうせつは張良・孔明をもっておのれを任じておったそうだが、陳平なる者もまたそれら偉大な軍師の名に決して劣りはしないであろう。が──」

「が?」

「この男の本質は、どこから見ても鬼謀の士。早い話が薄暗い陰謀を好んだ人物という奴だった。陰謀という奴はの、小八兵衛。詰まるところ、人の心、その隙を突く策略にほかならぬのだ。時には偽をもって惑わし、時には利をもって誘う。陳平は、おのが献策によって敵国の賢者を陥れ、良将を退け、終いには君主そのものを誤らせた。それは乱世においては比類なき功績であったのだろうが、同時に自らが仕えし主の心根にも、決して癒やされることのない生傷を刻むこととなったのだ。猜疑心、という名の、な」

 無言で耳を傾ける小八兵衛に向かい、老爺はちらりと目をやった。

「漢の高祖は元来懐深く豪放な人物であったそうだ。だがそんな男にしたところで、おのれの臣が策略のまま敵手の側近が心変わりしていくのを目の当たりにし続ければ、いずれ人の忠義・献身というものにおのずから疑いの目を向けるようなるは必然だて。事実、天下を一統した高祖は、おのが覇道を共にした重臣たちをつまらぬ理由から次々と粛正していく…… 無論、そのすべての責が陳平その人のものだと言う気はない。しかし、多くを占めることにもまた疑いなどあるまい。少なくとも、わしはそう思うておる」

「上様もまた、出羽守さまの遣り口を見てそうなられるかも──つまり御老公は、そう心配なされておるわけでやすね」

「左様」

 紫煙を吐きながら、光圀は大きく頷いてみせた。

「戦国の世ならばいざしらず、いまは誰もが認める泰平の世だ。天下を安んじる礎となるものは勝敗を決する『利』などではなく、世を形作る人の『和』でなくてはならぬ。仁・義・礼・智・信の五常をして父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五つの人倫をまっとうすることこそが人心に平穏をもたらす何よりの良薬であり、政を為すべき者が先んじて与えねばならぬまかないなのだ」

「仰るとおりでごぜえやす」

「しかし、保明ら綱吉殿の側におる者どもは目に見える『利』に気を取られるがあまり、それがいわば劇薬であることを失念しておる。病人に薬を与えるなら与えるで、まずその薬効に耐えられる血肉を養わねばかえってその者の寿命を縮めることとなるのは必定。いかにそのことわりが正しかろうとも、通らんとする道を誤れば望まぬ結末を得るのが世の常だ。ましてや、おのが主君を手にかけ家中を思うがままにせんとする輩の企てに便乗するともなれば、その言い分にどれほどの『理』があろうとも、それは人として断じて許されるべき所行ではない。保明らの企みは、あるいは上様と幕府に抱えきれぬほどの利を与えることとなるやもしれぬ。が、その代償として、必ずや拭えぬ汚点をももたらすことと相成ろう。たとえ表面上はうまく繕えたとしても、やはり人の口には戸を立てられぬ」

「そこで御老公の出番というわけですか」

 まるでいたずら好きの子供が見せるような笑顔を浮かべて小八兵衛が言った。

「さすがの出羽守さまも、まさか天下の副将軍御自らが首を突っ込みなさるとは思うてもおられなかったことでしょう」

「うれしそうだの、小八兵衛」

「そりゃあ、もちろんで」

 光圀の言葉に彼は応える。

「そういった反骨心と洒落っ気のある御仁でなければ、あっしがこうしてお仕えする甲斐がないってものでござんす」

「おのが目に狂いはなかった、とでもいったところか」

「へえ、失礼ながらまあそんなところで」

「わしもだよ」

 小八兵衛の表情に合わせて、光圀もまた相好を崩す。

「あのおり首はねられる寸前だったおぬしを助命して、ほんに良かったと思うておる。綱吉殿や保明などに言わせれば、天下を騒がした罪人を使える男だからと召し抱えるなどもってのほかとなるのだろうが、わしはこれもまた人の生かし方だと信じておるよ。おぬしは世の中の法を犯しはしたが、それでもなお決して人の道を外れようとはしなかった。またそうでなければ、こうしておぬしを側に置くこともなかっただろうがの。ひとのえにしとは、まったくまったく予想のつかぬものよ。まあ、そうでなくてはこの世などちっとも面白くはないわな」

 そういえば、と前置きの言葉を置いて、光圀は不意に話題を切り替えた。

 竹製の灰吹きの縁を叩いて煙管の火皿から灰を落とす。

 思い出し笑いをしつつ彼は言った。

「頼時殿の姪御に出会うたぞ」

「──と申しますと、高山は秋山弥兵衛殿の娘御でごぜえますな」

「いかにもいかにも」

 光圀は応えた。

「先にも申したが、ひとの縁とは本当に予想がつかぬものだて。馬瀬川の渡しで何やら奇妙な勝負事を挑んでおった仁がおってな。面白半分、ボブサプにこれを受けて立たせてみたところ、それがなんと姪御殿──確か葵という名であったかな──その連れの者であったのだわ」

「その御仁、おそらくは古橋ケンタなる武芸者と思われまする」

「本人も左様に名乗っておった」

 再度煙管を口に運び、光圀はゆっくりと紫煙の刺激を口内で楽しむ。

 何やら思案でもめぐらせていたものか、わずかに間を置いたのち、やや鋭さのこもった声で小八兵衛に彼は問うた。

「どのような仁だ?」

「それが、よくわかりやせん」

 率直な言葉で小八兵衛は答えた。

「なんでもこの夏の初めより秋山道場の居候となっている御仁だそうで。少なくとも地元の者ではありやせん。ですが、この仁がいったいどこから流れ着いたものか、何ゆえ高山を訪れたものかは八方手を尽くしやしたが判然としやせんでした」

「そうか」

 光圀は応じた。

「おぬしとおぬしの手の者どもが方々調べてそうなのであれば、まさしくそのとおりなのだろう。まずは、いずこかの息がかかった犬でなければそれでいい」

「その古橋という御仁が何か?」

「いやなに」

 光圀は言った。

「どうも、わしの正体を見破ったようなのでな」

「まさか」

 それが冗談だとでも思ったのだろうか、小八兵衛は苦笑した。

「あり得ない話でござんす」

「わしもな、初めはおのが耳を疑った」

 火皿に刻み煙草を付け足しながら光圀が返した。

「しかし、あの者は確かにわしを見て口にしたぞ。『まるで水戸が隠居のようだ』とな」

「そいつは御老公の聞き間違えでは?」

「小八兵衛、わしはまだそこまで耄碌しておらぬぞ。いかに年寄りだからとて、あまり莫迦にするものではない」

 老爺はその目を子供のように輝かせた。

「それにしてもあの古橋という若者、ボブサプを負かしたあの膂力といい、なんとも面白げな仁ではある。もう少しいろいろと知りたいものだ。武芸者とのことだが、いかな流派の者かはわかっているのかえ?」

「へえ」

 小八兵衛が答えた。

「確か『ぷろれす』とか申す武術だそうで」

「『ぷろれす』のう。聞いたこともない武術だわえ」

「あっしも初めて耳にする名でごぜえやす。聞くところによれば、得物を用いず、徒手空拳にて相手を討つ武術だそうで。これはあくまでも噂でありやすが、秋山道場の高弟が一度立ち会いのうえ敗れているとのことでござんす」

「ふむ。柔の類いか何かかのう」

「支那・琉球または天竺、果ては南蛮にもその手の武術があると聞き及んでおりやす。あるいは、まだ見ぬそれらの一派かもしれやせん」

「だとしたら、これはますます面白いではないか」

 くくく、と声を出して笑いながら光圀は言った。

「もしその『ぷろれす』とやらの立ち会いを見る機会があるならば、なんとしてもそれを逃したくはないものだ。そうは思わぬか、小八兵衛」

「まことに仰るとおりで」

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