三章:オールドロード

第二十話:弟子入り志願

 それは、思い出すたび惚れ惚れとしてしまいそうなほど、淀みなく美しい身のこなしだった。

 あの白髪の僧侶がおのれの頭上より降り注いできたふたつの凶刃を避けるのに用いた動作は、立ち上がりつつ前に一歩を踏み出すという、ただそれだけのものだ。

 そんな最小限の動きをもって、彼は何事もなかったかのように侍たちの懐へと入り込むことに成功した。

 それは、まさしく達人の挙動だった。

 そんな流水のごとき踏み込みに続く攻撃は、わずかに二回行われたのみだ。

 ふたりの侍に対し、それぞれ短く一撃を加えただけ。

 軽く突き出されたように見えた右の拳が、右側に立つ一人目の顎を正面から擦るがごとく。

 その手が引き戻されるや否や閃光のように振り上げられた右足が、左側に立つ二人目の後頭部を弾くがごとく。

 おそらくふたりの侍は、おのが身に何が起こったのかもわからぬままであったろう。

 襲いかかった衝撃は彼らの意識を瞬時にして寸断し、本来保持すべきだった肉体への支配力を完全に喪失せしめたのだ。

 最良の機を捉えた打撃が完璧に脳を震盪させた時、全身の筋肉が弛緩し死に体となった肉体は文字どおり垂直に崩落する。

 素人の目から見ても勝負あったと理解できる、まさにの光景だった──…

 これで、あの場面を脳裏に浮かべるのは何度目となるんだろう。

 強い夏日の照りつける街道上を漫然と歩きながら、古橋ケンタはふとそんな風に自問した。

 ほんの数日前、自分が柔術使い・男鹿直次郎との立ち合いを終えた直後に目撃した、あの凄烈なるワンシーン。

 それを具現化するに用いられた技術は、彼がこれまで体験してきたどの打撃技とも異なるコンセプトを持っているよう思われてならなかった。

 空手の蹴りに代表される格闘技系の打撃には、受けたあと身体の芯にズシリと響く重々しさがあることをケンタはもう十分過ぎるほど認識していた。

 過去、数え切れないほどその手の技をこの肉体に浴びてきたのだ。

 忘れられようはずもない。

 それは、対象そのものを真正面から破壊しようとする、ある意味極めて愚直な技術体系だった。

 例えるなら、ハンマーで打ち据えるような技、とでも言えようか。

 だが、いまケンタの脳裏に浮かぶあの技は、明らかにそれらと一線を画していた。間違いなく、ダメージの蓄積でもって相手を屈服させようする技ではない。

 体幹部への正確な一撃で対象の意識自体を刈り取ろうと目論むその思想。

 ボクシングで言うところのソリッドパンチという奴か。

 それは、まさしく死に神の鎌そのものに見えた。

 ふと思い描いた刃の煌めきに思わず背筋が震えるのを、ケンタはこの時はっきりと自覚した。

 もしあの男──頭白と名乗る異相の僧侶と自分とが、身に付けたすべての「武」を根こそぎ比べるべく対峙したら。

 そのことを考えるだけで心臓が高鳴り、体内を流れる血液の量があからさまに増加していく。

 なんだこれは?

 武者震いって奴か。

 正直、そんな反応を示すおのれの肉体が、持ち主であるケンタ自身にとっても意外だった。

 プロレスラーといういわば「戦うこと」を生業とする身でありながら、まさかその「戦うこと」それ自体を自分が喜びとして感じるようになるなんて、いままで思ってもみなかったからだ。

 こちらの世界にやってきてから否応なしに繰り返されてきた真剣勝負と積み重ねてきたその勝利。

 我が身に何事も起こらなければ決して味わうことのなかっただろうそれら極上の美酒に、ひょっとしていまの自分は溺れかかっているんじゃないだろうか。

 だとしたら、それは良くない傾向だ。

 そんな風にケンタは思った。

 競技者として試合はするが、だからといって争い事を好むようではいけない。

 戦場リングの外では常に平和を尊ぶ紳士であれ。

 彼の大師匠が常々口にしていたプロレスラーとしての心得を、改めて胸の中で反芻する。

 その言葉はケンタにとって、いや場合によっては人を死に追いやることすら可能な力と技とを身に付けたすべての者にとって絶対に遵守すべき約束事だった。

 少なくとも彼はそう考え、これまで一度たりとも疑おうとはしなかった。

「古橋さま」

 数歩ばかり先を行く葵が、ずっとそんな考え事にふけっていたケンタに声をかけたのは、彼らが朝早く宿場町を出て二刻約四時間ほどが経過したそんなおりのことだった。

 肩越しに振り返りつつ彼女は尋ねる。

「間もなく金山宿に着く頃と存じます。いささか刻は早うございますが、今宵はそこで宿をとろうと思います。構いませぬか?」

「俺は別にいいですよ」

 さして思慮することもなく、そうあっさりとケンタは答えた。

 ただし、その後ろに自分の意見を付け加える。彼は言った。

「でも、まだ全然昼前じゃないですか。もう少し頑張って湯乃島あたりまで足を伸ばしたほうがいいような気もしますけど」

 そんなケンタの進言に、葵は小さくはにかみながら「実は、髪を結い直したくなったものでして」と応じてみせた。

 そんな可愛らしい彼女の仕草を目の当たりにしたケンタもまた、思わずその口元を綻ばせる。

 がさつな自分とは全然違う年頃の女性らしい葵の一面に、強い好感を抱かされたからだった。

 この時代の女性が洗髪するのは月におよそ一、二回。

 それもほとんど一日がかりの大仕事となるのだという。

 そんな話を、ケンタは秋山家で働く下女のおみつから聞いていた。

 言われてみれば、確かにそんな事情も納得できる。

 二十一世紀の日本では考えもつかないほど複雑で巧妙な「まげ」という髪型。

 そんな代物をいったん解き、おそらくはびっくりするほど長く伸びた「女の命黒髪」を椿油などの髪油でもって丁寧に丁寧に一所懸命手入れするのだ。

 それが多大な時間と労力とを要する作業であることは、さすがのケンタでも十分すぎるほどに理解できた。

「わかりました」

 間髪入れず、ケンタは答えた。

「早いうちに旅籠に入れば沸かしたての風呂にも浸かれるし、今日のところは余裕を持って休憩日としましょうか。鼓太郎もそれでいいか?」

「もちろんさ!」

 ケンタの左脇に並んで歩く鼓太郎──尾張の国で異相の僧侶・頭白より彼らが託された少年は、元気溌剌、弾けるような勢いで同意の言葉を口にした。

 この少年がケンタたちに同行して高山へ向かうこととなった経緯を語るには、刻をいささか遡る必要がある。

 それは、尾張藩の侍・加藤十太夫ら不貞の輩がケンタと頭白に撃退されほうほうの体で退散を果たしたその直後に端を発していた。

「古橋殿」

 まさしく逃げるように去っていく十太夫らの背を鋭い眼差しで見詰めながら、頭白は傍らに立つケンタに向け「そこもとらは、名古屋城下に向かわれぬが上策と存ずる」と告げた。

 いささかも険しさを崩すことないその表情が、発せられた言葉を裏打つ真摯さを何よりも雄弁に物語っていた。

 続けざまに彼は言った。

「おそらくあの者どもは、そこもとらへの報復を諦めてはおりますまい。人は、喉元過ぎればどうしてもその熱さを忘れるもの。あれらも、いまは見せられた力の差に怯えておりましょうが、それとて半日ももてば良いほうでござろう。

 無論、葵殿からそこもとらの旅の目的は聞き及んでおります。されど、此度はあえてその道を断念されよ。名古屋城下は、あの者どもにとっていわばおのれが庭のごとき土地。もし地の利を得たあれらが手段選ばずふたたび襲い来たらば、いかなそこもとであっても容易に防ぎきれるものではござらん。女性にょしょうを危うき目に遭わせてはなりませぬ」

「御言葉はまことにありがたいのですが」

 そんな男同士の会話に脇から口を挟んできたのは、旅の当事者である葵だった。

 頭白の言の正しさとその根にある思いやりとを心の底で理解しつつ、それでもなお困ったような顔付きを浮かべて彼女は言った。

「名古屋城下へ赴かねば、私が父から承った任を果たすことができません」

「手紙のことでござるな」

 そう確認したのち、頭白は応じた。

「なればその任、この頭白が責を持ってお預かりしよう」

 彼は言った。

 それは、葵が父・弥兵衛から託された手紙を名古屋城下の柳喜十郎道場へ届ける役を自らが代わって引き受けるという内容だった。

 毎日の托鉢等で街並みの隅々まで熟知している自分であれば、いかに土地勘があろうとも侍たちの追跡をまくことは実に容易い、と彼は自信ありげに主張した。

「無論、ただ引き受けるというわけではござらぬ」

 昨日会ったばかりの他者を私事に巻き込むことへ強い抵抗を隠しきれない葵に向かって、頭白は破顔しながら付け加える。

「その代わりとして、そこな鼓太郎の身を葵殿らのほうで預かっていただきたいのでござる」

「鼓太郎さんを?」

「左様」

 小さく頷き、彼は言った。

「そこもとらのみならず、鼓太郎もまた此度の一件に関しては紛れもなき当事者のひとり。子供とはいえ、あれらがみすみす見逃してくれるとも思えませぬ。だとすれば、このまま当地に留め置くのはあまりに危険極まりなきこと。それゆえ当面の間、そこもとらとともに飛騨国へ逃したいと考えた次第なのでござる」

 いささか唐突感が拭えない頭白からの依頼を葵はふたつ返事で引き受けたが、当の鼓太郎本人はいかにも子供らしい態度でもってぐずぐずと難色を示した。

 やはり、長年ともに暮らしてきた頭白や仲間たちと別れるのにはそれなりの抵抗があったのだろう。

 もっとも、それとて頭白が「手紙の件が片付けば、皆とともに自分も高山へ参る」という言質を与えたことで至極あっさりと収まってしまったのであるが。

 こうしてケンタたち三人は、慌ただしく旅支度を済ませて頭白の寺をあとにした。

 途中の茶店で鼓太郎用の小さな草鞋を調達し、善光寺道を槙ヶ根追分に向けてひたすら歩く。

 いかに歩き慣れているとはいえ、しょせん鼓太郎は十そこそこの子供に過ぎない。

 その歩幅に合わせて進める距離はやはり大したものではなく、ケンタたちが追分を抜け中山道に乗ったのは出立から二日目の昼近くになっていた。

 警戒していた侍衆の待ち伏せその他の狼藉は、幸いなことに一切発生しなかった。

 およそ十太夫たちの魔手も、一行が恐れていたほど長くはなかったということだろうか。

 だとしたら、それは彼らにとって何よりの僥倖と言えた。

 このまま国境くにざかいたる木曽川を越えて美濃国に至れば、十太夫たち尾張藩士は他国の住民であるケンタたちにそうそう手出しができなくなるはず。

 その日のうちに大湫宿を過ぎ細久手宿で一泊した葵やケンタは、おおむねそんな風に考えていた。

 たとえ十太夫らがどれほど高い家柄の生まれにあったとしても、彼らはあくまで尾張徳川家に仕えるいち家臣に過ぎない。

 そんな彼らが他家の領内で揉め事を起こせば、そのことに対し公儀からきつい咎めの下ることはまず必然であったからだ。

 翌日、土田宿で木曽の渡しに到着した一行は、悪天候のため丸一日足止めを喰らったものの明くる日の朝には問題なく対岸の太田宿へと至り、そのまま一路飛騨国を目指し益田街道を北上した。

 結局、予定外の天候不順はその一日だけで、彼らはほぼ目論みどおりの日程で順調に旅を続けた。

 さすがにこのあたりまでくれば、「もしかしたら、名古屋からの追っ手が迫っているかもしれない」という不安は誰の心中からも霞のように消え去っている。

 葵が唐突に金山宿での逗留を言い出したのも、そんな心理の産み出したある種の安心感ゆえのことだった。

 飛騨国と美濃国との境に位置する金山宿は、尾張藩・苗木藩・高山藩・郡上藩、以上四藩の領地が混在するという少々特異な地域性の上に成り立っていた。

 だがそれは、同地がそれら四つの藩を繋ぐ交通の要衝なのだと言い換えることもできる。

 事実、その宿場商店街としての街並みは、多数の旅人やさまざまな物資の往来によって、近隣ではまれなほど大層な賑わいを見せていた。

 ケンタたちが金山宿へ到着したのは、朝四ツ半午前十時頃を若干過ぎたあたりの時間帯だった。

 飛騨川と馬瀬川の合流するあたりから街道に沿って大小さまざまな旅籠の軒先が続いている。

 その中から葵は、「清水屋」という一軒の旅籠を今宵の逗留先として選択した。

 清水屋は、規模的に決して大旅籠大規模の見世というわけではない。

 だが中旅籠中規模の見世の割には建物が立派で、その繁盛具合は素人目にも明らかだった。

 おそらく、客あしらいや出される料理がそれなりに上等なのだろう。

 目の付け所としては、なかなかのものだと言えた。

 店の前で打ち水をしていたふくよかな年配の女中に声をかけ、その案内に導かれるがまま一行は清水屋の玄関で草鞋を脱ぐ。

 ケンタたちが入り口の土間でその足を洗っている間、宿泊客らしい人影はほかに見られなかった。

 どうやら清水屋にとって、彼らは本日初めての客ということらしかった。

 見世の間から二階にある八畳ほどの客間へ通されてすぐ、葵は髪結いの者を呼んで欲しいと女中に伝えた。

 本来なら自分で髪を結う行為は成人女性の嗜みとも言えるものだったが、さすがの葵も旅先にまで髪結いの道具を持ってきてなどいなかった。

 宿場町の抱える本職を呼ぶのも、まあ仕方のないことであったろう。

 一方ケンタはと言えば、まずはひとっ風呂とばかりに手拭い片手に鼓太郎を引き連れ、建物の一角にある浴場へと向かっていた。

 清水屋の浴場は大人が四、五人ゆったりとくつろげるだけの大きさを持っていた。

 さすがに萩原宿の温泉宿・山元屋にあったそれと比べれば格段に狭くはあったが、中山道の宿場町でケンタたちが泊まったほかの旅籠のものからすれば十分広い浴室だった。

 ケンタと鼓太郎はまず洗い場にて汗を流し、丁寧にかけ湯をしたあとでしずしずと湯船に入った。

 一番風呂であったのだろう。

 少々熱めのさら湯がことさらに快感だ。

 並んで肩まで湯に浸ったふたりはほとんど同じタイミングで長々と息を吐き、口々にこれまた変わらぬ感想を述べた。

「いい湯だなぁ」

「いい湯だねぇ」

 それは、知らぬ者から見ればまるで血の繋がった親子でないかと見紛われるほどの見事なハーモニーだった。

 しばらくお湯の熱さに身を任せたのち、ケンタは目の前にぷかぷかと漂っている一個の水筒ヒョウタンをおもむろに掴み取った。

 蓋を抜いて口を付ける。

 中に入っていたものは、高山への帰路に着く際、彼が頭白より送られた濁り酒の類だった。

 その水筒は、きれいな湯に身を浸しながら気分だけでも軽く一杯と洒落込みたくなった彼が、わざわざ浴槽へと持ち込んだものだった。

 入浴中の飲酒は身体に悪い。

 もちろんそのこと自体はわかっていたが、それでもケンタは舐めるように水筒の中身を口にした。

 普段なら決して試みなかったであろう真似を彼があえて行った理由は、実のところ至極簡単なものだった。

 過日の深夜、頭白とともに語り合った内容を、どうしてもいま一度噛み締めたくなったからだった。

 強い酒の香りが口内に広がるが、その量は決して巨漢のケンタを酔わすほどのものではない。

 だが、彼はそういった肉体の反応をあえて歪め、無理矢理に酩酊の快感へとおのが身体を沈めてみせた。

 頭白さん──ふわり浮かびあがるような心地良さにすべてを委ね、ケンタはあの僧侶の異相を思い出した。

 機会があれば、ふたたびゆっくりと語り合いたい。

 そんな思いが脳裏を過ぎる。

 聞きたいことはたくさんあった。

 どれもこれも、彼の口が紡ぐ回答を耳にできればそれがおのれの血肉となるだろう、そう思える内容ばかりだった。

 いずれ彼が高山にやってくる時が、いまから楽しみでならなかった。

 そんなケンタの夢見心地を突如として妨害したのは、彼の隣に並んで座る鼓太郎少年のひと言だった。

 「なあケンタ兄ちゃん」と呼びかけてきた鼓太郎に、ケンタは「ん~、なんだ鼓太郎?」と半ば酔ったような様子でもって応じる。

 鼓太郎はいささか間延びした彼の口振りを顧みず、あくまでも自分のペースで話を続けた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「ああ、俺の答えられることならな」

「兄ちゃんにしか答えられないことだよ」

 固く絞った手拭いを改めて頭の上に載せなおし、彼はさらりとした口調でケンタに尋ねた。

「葵姉ちゃんとの祝言は、いったいいつにするつもりなんだい?」

 ケンタが身体ごと湯船の中で爆沈したのは、まさしく次の瞬間の出来事だった。

 ど派手な水音とともに飛沫しぶきが周囲に飛び散った。

 それを頭から被った鼓太郎が思わず抗議を口にする。

 だがケンタはそんなものは聞こえていないと言いたげに、わたわたとおのれの言を吐き出した。

「な、な、なんでいきなりそんな話が出て来るんだ!」

 両手を振り回しつつケンタは言った。

「俺はあくまで葵さんの護衛ってだけで、断じてそんな関係じゃないぞ。第一、あのの旦那さんは秋山の先生が見付けてくるってことだから、俺みたいなどこの誰だかわからない馬の骨が葵さんとどうこうなんてありえるわけがないだろう?」

「鈍いなぁ、ケンタ兄ちゃんは」

 妙に表情を浮かべながら、鼓太郎はにっと口の端を吊り上げた。

「その秋山の先生本人が並みいるお弟子さんたち差し置いて大事な葵姉ちゃんの連れに選んだのが、何を隠そうケンタ兄ちゃんなんだぜ。そこはさ、『俺、もしかして婿に選ばれたんじゃ』って考えるのが普通なんじゃないかな。俺の言ってること、何か間違ってる?」

「か……考えたこともなかった!」

 鼓太郎の紡いだ子供らしからぬ正論にケンタは心の底から驚愕し、その顔面をものの見事に硬直させた。

 およそ「後頭部を一撃されたような衝撃を受けた」とはこのことなのであろう。

 いや、彼の生業に合わせて評するなら、「垂直落下式の技で脳天から叩き付けられた」としたほうが相応しいか。

「責任重大だねえ」

 そんな彼を、すかさず鼓太郎が追い討った。

 浴槽の縁を枕代わりに体を預けて、流れるように持論を語る。

「でも、葵姉ちゃんだってまんざらじゃないと思うぜ。だってさ、あの橋の上やお寺で見た兄ちゃんの戦いっぷり、滅茶苦茶格好良かったもんな。おいらが女だったら、絶対に惚れちまってるなあ。間違いない」

「ま、待て待て鼓太郎。早まるな」

 どことなく自分自身を説得するかのごとき必死さで、ケンタは否定の言葉を発する。

「葵さんはまだ十四だぞ。結婚なんて全然早いし、たぶん俺なんかよりもっとあのひとに相応しい男が今後絶対現れる。そっちのほうが間違いない」

「兄ちゃんって本当に世間知らずだよな。二十歳はたち過ぎたら女は年増。十四で嫁に行って子供産むなんて、おいらの村じゃ結構普通にあったもんだぜ。それとも、兄ちゃんの産まれた土地ところじゃ違ってたのかい?」

 鼓太郎はケンタの発言を、文字どおり一刀両断切り捨てた。

「それにさ、葵姉ちゃんの家って剣術の道場なんだろ。姉ちゃんの旦那になるってことはそこの跡取りになるってことだからさ、要するに『強い男』じゃないと務まらないんじゃないの? だったら、全然兄ちゃんに相応しい話じゃん」

「おまえ、そう簡単に言うけどな」

 少し落ち着きを取り戻したケンタが、諭すように言った。

「俺なんて、秋山先生とかと比べたらまだまだ未熟な餓鬼みたいなもんだ。嫁さんもらうだの道場主になって弟子の面倒見るだの、そんなことができるような器じゃない。周りから強い強いと言われても、なかなか自分じゃ実感ないしな」

「何情けないこと言ってんだよ!」

 不意に鼓太郎が大声を上げた。

 言葉尻にわずかな怒りが匂い立つ。

 それはまるで、敬愛の対象を侮辱された者が時折見せる、曲がりなき激情のごとくにさえうかがえた。

 続けざまに彼は言った。

「大体さ、兄ちゃんが強くないなんて言ったら、一体全体世の中のどんな奴が強いってことになるんだよ。ケンタ兄ちゃん、いままで負けたことなんてほとんどないだろ。違うかい?」

 そんな言葉を叩き付けられたケンタは、初めきょとんとした表情を浮かべ、次いでおかしそうに相好を崩してみせた。

 その態度を見た鼓太郎は莫迦にされたとでも思ったのだろうか。

 不満気に「何がおかしいんだよ」と言いつつ口先を尖らせてみせた。

「いやいや、俺って誤解されてるな、そんな風に思ったのさ」

 いまの笑みは自嘲のそれだと主張して、ケンタは頭上の手拭いで顔を拭いた。

「鼓太郎。俺が負けたことない、なんて買い被りもいいところだ。新弟子の頃の俺は全然負けっぱなしだったし、いまだって試合に勝てると自信を持って言えない相手は山のようにいる。自分の強さに実感が持てないっていうのは嘘でも謙遜でもなんでもないぞ」

「そんなの信じらんないよ」

 鼓太郎が言った。

「ケンタ兄ちゃんは強い。強いんだ。おいらがこれまで見てきた大人たちの中じゃあ、間違いなくふたつもみっつも抜けてるよ。そんな兄ちゃんがむかしはころころ負けてたなんて言われても、おいら、全然信じられない! 信じられるわけない!」

「そうか?」

 すぐ脇で蠢動する小さな活火山の様子を心のどこかで楽しみながら、ケンタは饒舌に言葉を紡いだ。

「負けることって、おまえのなかではそんなに『強さ』と結びつかないか?」

「そりゃあそうさ。仕合で相手に負けるような奴が強いわけないだろ。そんなのおいらみたいな子供にだってわかる理屈さ」

「なるほど。おまえの言う強さってのは、要するにいまこの瞬間の強さってことになるわけか。理解した」

「なんだよ。そんなに変かよ。じゃあ、兄ちゃんの思ってる『強さ』ってのはいったい何なのさ。おいらに教えてくれよ」

「俺が思ってる本当の強さってのはな、鼓太郎──」

 ケンタは告げた。

「絶対に諦めない心のことだ」

「諦めない、心?」

「そうさ」

 どこか鳩が豆鉄砲を喰らったような感のある傍らの少年に向かってケンタは、この不器用な男としては実に珍しく、蕩々とおのれの考えを語って聞かせた。

「負けるってことは、自分が何かに挑んだ結果生じるものだ。そこはわかるな? そして、負けたってことは、だ、立ち向かった相手がいまの自分よりも強かったってことをこの身で直接味わったってことになる。いいか、鼓太郎。負けるってのは絶対に自分からの持ち出しなんかじゃない。自分が何かを手に入れたっていう立派な証なんだ。

 でも残念なことに、負けたらそこで挑戦を止めてしまう人もいる。いや、何度かは挫けそうな自分を奮い立たせることができても、目の前の壁を乗り越えられない限りその挑戦を止めてしまう人のほうが普通だ。やっぱり自分には無理だった。壁の向こうは夢だった。そんな風に言い訳して、おのれの分って奴を自分勝手にわきまえてしまう」

 ケンタは湯船に深く身を沈め、静かに息を吐きながら湯気の籠もる天井を見上げた。

「だけどごく希に、何度当たっても砕けても絶対に挑戦を止めない人がいる。たとえいま勝てなくても、明日こそ勝てることを信じて、歯を食い縛って頑張ってる人がいる。俺は、そんな先輩たちを何人も見てきた。そんな先輩たちを心底凄いと思ってきた。その背中から、俺は不屈の精神、絶対に諦めない心ってものを学んだ。

 諦めてしまえば、そこで前進は終わってしまう。諦めない限りいつまでも前進は終わらない。仮に目の前の壁を乗り越えても、そこは決して頂点なんかじゃない。その先にあるのは、それ以上の高さを持つ新しい壁さ。終点なんて、いつになっても来やしない。結局のところ、終点を作るのは自分自身なんだ。いまの場所が終点だと決めるのは、いつだって自分自身の諦めなんだ。

 人生ってのは本当に酷い奴だ。奴は、こっちが傷付き疲れ果てるほどの苦労なしにはなんにもくれやしないし、そもそも労力に見合ったものをくれるわけじゃない。くれるものの大半は役にも立たないがらくたで、どうしても手に入れたくなるような魅力なんてどこにもない。

 でもそれだからこそ、俺はそいつを目指して頑張る人に憧れる。最後まで……そう、その人生の最後の瞬間まで諦めず次の勝利を求め続けた人のことを、俺は素直に尊敬できる。腕っ節の強さなんかじゃなく、その心の強さにこそ俺は感動させられる。そんな風に生きたいと、心の底からそう思う。いまこの時も、俺はそう思ってる。

 鼓太郎。この俺は、いや、この古橋ケンタの心と身体ってのはな、頭のてっぺんから足の爪先まで、ことごとく失敗と敗北の積み重ねでできてるんだ。しくじったから諦める、負けたから諦めるじゃなくって、そいつらを肥やしにして経験っていう水をかけて、芽の出た何かを一所懸命になって育ててきたからこそいまの俺があるんだ。少なくとも、俺はそんな風に確信してる。

 だからこそさ。俺は諦めない心って奴こそがこの世で何よりも強いもの、何よりも自分に力をもたらしてくれるものだって信じてる。誰に向けても自信を持って断言できる。

 まあ、おまえにはまだわからないことかもしれないけどな。とりあえず、俺はそんな風に考えてると理解しといてくれ」

 柔和な微笑みを浮かべながら、そう彼は自分の言葉を締め括った。

 ケンタがおのれの哲学を語っている間、鼓太郎はひと言も発することなく、その内容にじっと耳を傾け続けていた。

 およそ十年程度の人生しか送っていない彼がどれほどまでその言を理解できたのかは定かでない。

 ただ、それが鼓太郎のまだ幼いはずの魂になんらかの共鳴を与えたことだけは間違いなかった。

 続く反応が、それを如実に証明していた。

「ケンタ兄ちゃん……」

 ぶるっと一度その身を震わせたのち、鼓太郎はおそるおそる口を開いた。

「もしおいらもそんな風に諦めなかったとしたら、いつか兄ちゃんみたいな男になれるのかな?」

「俺みたいなのを目標にするのは、果たしてどうかと思うけど」

 ケンタは答えた。

「おまえが諦めさえしなければ、必ずそこに道は開けるとだけは言っておくぞ」

「それ、間違いないかい?」

「ああ、約束する」

 鼓太郎の顔に満面の笑みが浮かびあがったのはその時だった。

 瞳の中に稲妻にも似た閃光が走る。

 それは、子供が持つ無邪気さゆえの輝きではない。

 明らかに人が何か重大な決意をした瞬間生じる超新星の煌めきだった。

 「決めた!」と短く自分に言い聞かせた少年は、やにわに湯船から立ち上がるや否や、傍らに座る大男に向け決然とした表情で言い放った。

「ケンタ兄ちゃん。おいらを、ケンタ兄ちゃんの弟子にしてくれ!」

 突然の申し出に目を丸くしたケンタが咄嗟に言葉を返すのより早く、まさしく怒濤のような勢いで鼓太郎は畳みかける。

「おいら、兄ちゃんを目指すことに決めた。兄ちゃんを俺の師匠にして、もう二度と莫迦な連中のされるがままにならない男になるんだ。兄ちゃんみたいに、大事な誰かを守れる男になるんだ。そう決めた。いま決めた! 誰が何と言おうとおいらは決めた! 言っとくけど、おいら絶対諦めないからな。いま兄ちゃんが言ったとおり、強い男になるために、おいら絶対に諦めないからな!」

「俺の弟子になって俺を目指すってことは、その、なんだ。要するに俺と同じ『プロレスラー』になりたいってことか?」

 その発言を受け止めたケンタは、小さくため息を吐いたあと、優しげな口振りで鼓太郎の意志を確かめる。

「それ、いいかげんな気持ちじゃないよな。人生賭けるだけの気持ちなんだよな。確認しとくぞ。挫けず、折れず、諦めず、最後までその気持ちを持ち続けるだけの覚悟はあるんだよな?」

 鼓太郎は無言で大きく頷いた。

 強靱な意志力を秘めた眼差しがケンタの心臓を一直線に貫通する。

 その刹那、彼は鈍い痛みを胸腔に感じた。

 だが瞬時にしてそれは別種の快感へと変化し、たちまちのうちに今度は身体中へと拡散していく。

 それがきっかけとなった。

「よしわかった!」

 ケンタもまた水音高く立ち上がり、鼓太郎の鼻先に右の握り拳を突き付けた。

 見上げてくる少年の視線に自らのそれを真正面から叩き付け、彼は誤解のしようもない言葉でもって向けられた思いを受け止めた。

 ケンタが告げ、鼓太郎が応えた。

「おまえは、いまこの瞬間から俺の弟子だ」

「よろしくお願いします、ケンタ兄ちゃ……いや、ケンタ師匠!」

 どこか態とらしさの残る態度でケンタが頷く。

 彼は口の端を綻ばせながら、この新しくできた年若い弟子に向かって、新米師匠らしく一直線にこう告げた。

「よし。じゃあ、さっそく風呂から上がって練習に行くぞ。実は道中ずっと考えてたメニューがあるんだ。名付けて『飛騨川清流特訓』だ。鼓太郎、いますぐ用意しろ!」

「わかりました、師匠!」

 勢いに押されるがまま、鼓太郎は答えた。

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