第十話:旅立ちの朝
それは、本当に小さな墓だった。
台石をふたつ重ねた上に細長い石がひとつ乗せられただけの三段墓。
その高さは、小柄な葵の膝上にすら届かない。
多くの墓石が乱雑に屹立する古寺の墓所にあって、ともすれば埋もれて見失ってしまいそうなほどの大きさだった。
秋山葵はそんな墓石の前にしゃがみ込み、じっと
しばしの間まぶたを閉じ、無言のまま墓前に祈る。
彼女の携えてきた花と線香とが添えられた縦長の墓石には、そこに葬られている者の名がはっきりと刻印されていた。
「
それは、直心影流・秋山弥兵衛の妻にして葵の産みの親でもある、ひとりの女性の名前であった。
葵さんのお母さんか──そう聞いて、なんだかかしこまらずにはいられなかったケンタもまた、眼前の少女に並んでその大きな身体をしゃがませた。
遅ればせながら、目をつぶり合掌する。
葵の母・雅は、葵が八つの時、水難事故でこの世を去った。
梅雨の長雨で増水した川に、足を滑らせて落ちたのだという。
葵は父・弥兵衛からそのように聞いているし、その彼女から又聞きしたケンタも当然認識を同じくしていた。
「優しい母でした」
大分前のことになるが、ケンタは葵の口から直接に、いまは亡き生母の印象を語られたことがある。
彼女は特に悲しそうな素振りを見せるわけでもなく、まるで事実のみを淡々と告げる学者のごとくに言葉を紡いだ。
「生前、厳しく私を躾けて下さったにもかかわらず、怒った顔など見たこともありませんでした。お父さまにお仕えする妻として、そして私を育む母として、あの方はいつでも一所懸命になっておられました」
良いお母さんだったんですね。
それを聞かされたケンタは、この時、そんな風に応じることしかできなかった。
彼は、身近な肉親の死というものをいまだ経験したことがない。
だから、それがいったいどのような心境をおのれにもたらすものなのかを実体験として知り得る立場になかった。
しかし、そうした出来事がとてつもない喪失感をともなうものであることぐらい、十分わきまえているつもりだった。
物事の機微に鈍感な自分自身をはっきりと認めているケンタだったが、その一方で、さすがにその程度の想像力は持ち合わせているぞ、という自負もあった。
実のところ、この件でケンタがもっとも意外に感じたものは、当事者である葵本人が、「母の死」に対してさほどの感傷を抱いていないという現実だった。
八つと言えば、まだまだ両親に甘えていたい年頃でもあったろう。
その甘えるべき対象の一方を無惨にも奪われてしまったのだから、もっとこう「悲劇のヒロイン」的な陰を彼女がその身に帯びていたとしても不思議ではない。
そんな風に彼は思ったのだ。
だが、ケンタの意に反して、葵はこんな言葉を口にした。それは、彼女の静かな語り口とは裏腹に、現代人・古橋ケンタの後頭部をしたたかに打ち据える「何か」をその中心軸に秘めていた。
「ひと」の生死は天命が決めること。
私たち「ひと」がどれほど懸命に抗おうとも、果たして天の意志を覆すことなどできましょうや、と彼女は言った。
ケンタは、これに返すべき言葉を持たなかった。
「運命とは『ひと』の手で切り開くものです」といった美辞麗句も、彼女の発言を前にしてはその説得力を失うのではないかとすら思ってしまったからだ。
自分たち二十一世紀の人間とはまったく異なる死生観──すなわち「死」という現実を極めて間近で感じながら、なお前向きな「生」を営もうとするこの時代の人々。
それをケンタはしかと噛み締めた。
と同時に、まだ少女と言っていい葵が宿した心から尊敬すべき「強さ」というものの存在に、彼は素直な感嘆を覚えずにはいられなかった。
そのことを唐突に思い出しながら、ケンタはまぶたを閉じ続けた。
心中で、葵の守りを墓の主に向かって何度も何度も約束した。
本人にその意志はなかったにしろ、そのさまは、まるで我が妻とする娘の親に
それも瓜が熟する
暦の上ですでに秋は始まっているのだが、体感的にはまだまだ夏真っ盛りとでも言うべき時期だ。
果てしなく高い青空からさんさんと降り注ぐ陽光は、まだ早朝であるにもかかわらず、日中の猛暑を約束するような鋭さでケンタたちの身体を照らし続けている。
だが注意深く耳を澄ませば、あぶら蝉どもの奏でるあふれんばかりの大合唱のなか、わずかばかりの
秋の訪れが間近であると精一杯主張しているのだ。
そう言えば、ふわりとふたりの頭上を吹き抜けていく微風も、まだ青臭い夏草の香りを濃厚に孕みながら、どこか涼しげな風情を感じさせている。
どうも季節の移り変わりとは、斯様にさり気ない足取りをもって人里へと歩んでくるものらしかった。
「では、そろそろ参りましょう」
まるで、その一陣の風を皮切りとしたかのように葵はすっと立ち上がり、凛としたいつもの声でケンタに告げた。
「尾張名古屋までは長うございますから、明るいうちに進めるだけ進むのがよろしいかと存じます」
「わかりました」
ケンタもまた、彼女に応じて腰を上げる。
天を仰いで背筋を伸ばし、はつらつとした声で彼は言った。
「空も晴れていることですし、ここはひとつお互い頑張るといたしますか」
どこか遊び場へ向かう子供にも似たケンタの言いように、葵はくすりと相好を崩し「ええ」と短く相槌を打った。
◆◆◆
古橋ケンタがこの世界へやって来てから、三月ばかりが経過していた。
途中まではここで過ごした日数を律儀に数えていたケンタであったが、いまでは面倒臭くなりそんな手間などかけなくなってしまっていた。
だから、三月という表現も彼の体感的な日にちの経過にほかならない。
とはいえ、その三月でケンタがこの時代の生活にすっかり馴染んでしまったこともまた疑いようのない事実だった。
内心はともかく、表向きにはもとの時代に帰ることなどとっくのむかしに諦めてしまったかのようにさえうかがえた。
秋山家における彼の立場は、いまのところ居候という以外の何者でもなかった。
もう少しきれいな言葉を用いるのであれば「食客」とでも言い換えられるのだろうが、だからといって衣食住ほとんどすべての面倒を肩代わりしてもらっている現状に変わりなどない。
ただし、担うべき物事をまったく持たないただ飯喰らいの穀潰しなのかといえば、実のところそうでもなかった。
ケンタには、家長である弥兵衛から直々に依頼された大事な「仕事」がちゃんと用意されていたからだった。
弥兵衛の愛娘・葵の身を守ること。
それを直接聞かされた時は思わず懐疑的な態度をとってしまったケンタだったが、もとより糞真面目な性格の持ち主である。
ひとたびやると決めたあとは、その道の者ですらかくやと思われるほどの熱心さでもって自らの役目に邁進した。
葵が外出する時にその供を務めることのみならず、当初は屋敷内においてもほとんど彼女の側を離れることがなかったほどだ。
湯浴みの際は離れの湯殿のすぐ外で、就寝の際は襖戸一枚隔てた隣室で。
雨が降ろうが風が吹こうが、この大男はおのれが守るべき少女にふたたび危険が訪れないかどうか、四六時中らんらんとその目を光らせていたのだった。
だが悲しいかな、それは少々、いや誰の目から見てもあまりに過剰なやり口だった。
いかに葵を狙った曲者どものやって来たのが深夜だからといって、それを理由に寝ずの番を幾日も続けていては、どれほどケンタが強靱な肉体を持っていようとも持ちこたえられる道理などどこにもなかった。
なんとまあ愚直な御仁だこと。
正直、これほどとは思うておらなんだ。
感心半分、呆れ半分、度を過ぎた仕事ぶりを見かねた弥兵衛が介入した段階で、さすがのケンタも寝不足と心身疲労でふらふらの状態になっていた。
これではまともな警護などできようはずもない。
少し肩の力を抜かれてはいかがか。
そうやんわりと弥兵衛に諭されたケンタだったが、当初、彼ははっきりとその進言を拒絶した。
「葵さんを守るのは、ほかの誰でもない俺の役目です。手なんて抜けません!」とまで言い放った。
だが、守るべき対象である葵本人からぴしゃりと叱責されてからは、さすがにその態度を改めるようになっていた。
「そうまでしてこの身をお守りいただけるのは大変ありがたいことでございますが、それゆえに古橋さまのお身体が害されるようでありますれば、葵は少しもうれしくなどございませぬ!」
まっすぐ背筋を伸ばした小柄な少女を前に身の丈六尺余りの大男が萎れた青菜のごとく頭を下げる様子など、そうそう見られるものではない。
ましてや、それが襲いかかる曲者どもを素手で一蹴した剛の者とくればなおさらのことであった。
それからというもの、少なくとも陽の昇っているうちにおいてケンタの役割は下男の茂助と変わり映えのしない肉体労働へと変化した。
掃除、薪割り、荷運びなどなど、厨房に絡まぬさまざまな雑用がそれにあたる。
初めのうち、そんなケンタの扱いに葵は反対の意を示した。
「大事な客人に下人の真似ごとをさせるとは何事ですか!」というわけである。
だが、その真理を父・弥兵衛から知らされるに至り、徐々に彼女はケンタの処遇へ口を挟まないようになっていった。
弥兵衛が命じケンタが司る労働のすべてが、実のところ剣術における基礎修行の一環だったからだ。
夜明けとともに寝所から出て、まずは道場の清掃をひとりで行う。
隅々まで丁寧に掃き、そして拭く。
弥兵衛は、その手法を実に細かいところまでケンタに伝え、かつ忠実にそれを実行させた。
薪割りもそうだ。
木の幹を輪切りとした台の上に原木を置き、それを振り下ろした斧で縦に割る。
あえて手斧の類は用いない。
それは老年の域に足を踏み入れた茂助の仕事だ。
ケンタが振るうのは、大きく重い両手持ちの割斧である。
何も知らされていないケンタにとって、それは単に糧を得るため必要な日常業務に過ぎなかった。
しかし、弥兵衛がわざわざ詳細を指示してまでやらせているそれら一連の動作には、直心影流独自の鍛錬法が密かに含み込まれていた。
つまりケンタは、知らず知らずのうちに剣術つかいとしてその身体を整えられていたのだ。
そしてそれは、ある意味で弥兵衛がどれほど彼を信頼しているかを端的に表す指標でもあった。
そういった朝の労働がひと段落したのち、ようやく朝餉の時間はやってくる。
さすがに食事時においては、ケンタも秋山家の客人という立場を完全に取り戻すことができた。
葵とおみつの給仕を受けながら、ケンタは毎日、山盛り飯に箸を付けた。
ここ最近では、その量も三合半と、当初より一合ばかり増えている。
濃いめの汁と味噌だけをおかずによくもまあそれだけの飯を平らげられるものだと現代人なら思うのだろうが、朝起きがけの肉体労働とは本来それほどの空腹感をもたらすものなのだった。
食事の際のしきたりもまた、ケンタが弥兵衛から指示されたもののひとつである。
ひとたび口にしたものは、液になるまでよく噛んで食すこと。
そして、食後のおよそ半刻は、目を閉じたまま背筋を伸ばして横臥すること。
秋山弥兵衛はその実行を、「ゆめゆめ疑うことなかれ」との言葉を添えて告げていた。
食事が終われば、今度は彼一流の自己鍛錬が開始される。
ケンタの言葉をそのまま用いるなら、それは「身体をなまらさないために汗を流しているだけ」の基礎運動らしいのだが、その長さときたらおよそ二刻にも及ぶ時があった。
この時期、道場で門人たちの発する熱気も凄まじいが、全身汗だくになりながら発散するケンタの熱量はその総和に匹敵するのではないかと感じられるほどだった。
そして、葵はほとんど毎日のようにそんな彼の様子をじっと縁側で座しながら見守っていた。
特に何かを語りかけるでもない。
ただ楽しげに笑みを浮かべたまま、その一挙手一投足を眺めているだけなのだ。
そんな行状を一月ほど続けた時、彼女は父・弥兵衛から「退屈ではないのか?」と尋ねられたことがある。
その時、葵は「いいえ、少しも」とだけ言葉を返したのだそうだ。
これに弥兵衛は苦笑して、以後は彼女の好きなようにさせている。
まだ年若い門人たちの何人かはそんな葵を見知るにあたり、この「どこの馬の骨ともしれぬ居候」に向けてある種嫉妬に近い憎念を抱いた。
もっとも、それが葵とケンタふたりの関係に影響を与えるようなことなどなかったのであるが。
葵が父・弥兵衛から呼び出されたのは、そんな日常が続くある日の夜のことだった。
「お呼びでしょうか、お父さま」
す、と丁寧に襖戸を開けその場に座ったまま小さく一礼した愛娘を見て、弥兵衛は書き物をしていた手に休息を命じ、やや強張った表情で口を開いた。
「すまぬが、明日、私の名代として旅に出てもらいたい」
「旅に、でありますか?」
唐突な依頼を受け、葵はその眼を丸くした。
「いったいどちらまででありましょう」
「うむ」
彼女の問いかけに弥兵衛は答えた。
「この手紙を、尾張名古屋の
そう言いながら差し出された彼の手には、きちんと蝋により封がなされた一通の封書があった。
柳喜十郎は秋山弥兵衛と同門の剣士で、彼にとってはちょうど弟弟子にあたる人物だ。
年齢は三つ下。
山田一風斎門下においては、弥兵衛とともに双璧とまで謳われた力量の持ち主だった。
二、三年ほど前に故郷の尾張名古屋へと戻り、同地で剣術道場を開いたと聞いている。
そのおりに秋山道場へも訪れ弥兵衛と親しく旧交を温めたことを、葵はうっすらとだが記憶していた。
確か、剣術道場の先生などとは思えぬほどに、柔和で優しげな風貌の男性だったはずだ。
「本来ならば、ほかに人を頼むところなのだが」
弥兵衛は言った。
「大事な要件ともなれば、やはり身内の者に届けさせるのが筋かと思うてな」
「畏まりました」
しずしずと部屋に足を踏み入れた葵は、封書を両手で受け取りながら了承の言葉を口にした。
「ですが、私ひとりで、というのは──」
「不安か?」
「正直に申しますれば」
「案ずるな。古橋殿に供をしてもらうゆえ、存分に頼るがいい」
「それならば」
ケンタが同行する。
それを聞いた途端にぱっと表情を明るくした葵を見て、弥兵衛もまたそのしわの寄った目尻をわずかに下げた。
「葵」
彼は尋ねた。
「あの御仁のことをどう思う?」
「え」
父の意を図りかね、葵は一瞬返答をためらった。
質問に質問でもって返す。
「それは、いったいどのような意味でございましょう?」
「意味などない。おまえがどう思っておるのかを聞いておきたいだけだ」
弥兵衛は言った。
言葉の裏に、娘への強いうながしが透けて見えた。
「良い──御方であると思います」
やや恥ずかしげに顔を伏せ、それでも葵は父の問いかけにはっきりと答えた。
「私は、二度もあの方にこの身を救っていただきました。そのご恩は生涯忘れるものではありませぬ。ですがあの方は、少しもそれを恩着せがましくなさらないのです。それがなんとも清しく感じられて、私は──」
「ふむ」
弥兵衛は鼻を鳴らして娘の台詞に割り込んだ。
この者らしからぬ粗野な仕草であったが、あるいはこれこそが若き日より押し込んでいた秋山弥兵衛の本性であったのかもしれない。
彼は言った。
「なれば問題はない。今後どのようにその身を振るかは、おまえ自身がおまえの意志で決めるがよかろう」
「お父さま。身を振る、とはいったいいかなる意味でありましょうや?」
「何、いまそのことを気にする必要はない」
弥兵衛は葵の疑問を煙に巻いた。
「明日は晴れのようだから、早いうちに朝餉を済ませて立つがいい。古橋殿には私のほうから伝えておく。おまえはもう休みなさい」
◆◆◆
ふたりが旅支度を終え秋山家を出立したのは、まだ夜の明けきらぬ
ケンタにとっては随分と早い出発時間に思えたものだが、実際は準備に時間がかかってしまったためにこの時間となったしまったものらしい。
本来ならば、空がまだ暗いうちに家を出るのが常道とのことだった。
着替えその他の生活品を肩から左右に下げた小物かごに振り分けて入れ、手足には
二十一世紀の時代劇ではお馴染みとも言える旅姿だ。
護身用として男女ともに武器も持つ。
葵は母親・雅が愛用していた懐剣を懐に刺し、ケンタもまた道中差と呼ばれる脇差の一種を弥兵衛から貸し与えられていた。
面白いのは、携行品の中に筆と墨──すなわち筆記用具が含まれていることだった。
もちろん、文字を記すべき紙も、である。
なんのためかと言えば、道中記、つまり日記をしたためるためだ。
学生時代、武士の世を「身分制度と男尊女卑に縛られた暗黒時代」という風に教えられた覚えのあるケンタにとり、いかに武家の出とはいえ年若い女性である葵がそれなりの教養を備えているという事実を知ることは、文字どおり目から鱗が落ちる思いであった。
足袋を履いた足に
ふたりはそのまま飛騨川沿いに
その後、中山道太田宿を経由しつつ尾張名古屋城下へと至る目論見を立てていた。
距離にすれば四十里強。
メートル換算だとおよそ百六十キロにも及ぶ。
あたりまえだが、徒歩の人間が二日や三日で辿り着けるような旅路ではない。
正直な話、それだけの道のりを歩いて行くのだと考えるだけで思わずげっそりした気分に陥ってしまうケンタであった。
「まずお母さまに出立のご挨拶をしてから、改めて街道を行こうと思います」
杖を手に秋山家の門を潜った葵は、見送りに出てきた弥兵衛と
弥兵衛はゆっくりとそれに頷き、慈愛に満ちた表情で彼女に応えた。
「道程を急ぐ必要はない。何事もだが、おのれの足に無理をさせることは忌むべきことだと心得よ。背伸びすることなく、確かな、そしてできうる限りの道のりを歩みなさい」
「はい、お父さま」
「古橋殿」
はきはきした愛娘の返事を聞き届けた弥兵衛が、ケンタに向かって深々と頭を垂れたのはその時だった。
「
妙に仰々しい態度だった。
まるでひとり娘を嫁に出す父親のようなその言いようにケンタは少なからずうろたえたが、すぐ「この時代ではこんなものなのかな」と思い直し「わかりました。任せてください」と型どおりの言葉を返した。
弥兵衛が顔を上げた。
一瞬だけだが、その目がケンタのそれと重なり合った。
どきりとケンタの心拍が高まる。
弥兵衛の瞳に、何やら強い覚悟めいた色彩を感じ取ることができたからだった。
「先生」と、それに違和感を覚えたケンタが弥兵衛に向けて呼びかけた。
だが、この痩身の侍は不意に見せた破顔をもってその呼びかけを拒絶した。
ケンタもまた、いささかのわだかまりを胸中に残しながらも、それ以上の追求をしなかった。
葵とケンタ──歩き出したふたりの背中がはるか遠くに見えなくなるまで、弥兵衛はただじっと門前で佇んでいた。
ひと言も発することなく、背筋をまっすぐに伸ばしたままほとんど身動ぎすらしなかった。
彼が並んで同じ方向を見詰めていた若い下女の名を口にしたのは、そんな停滞した時間が過ぎ去ってまもなくのことであった。
「おみつ」
彼は言った。
「すまぬが、いまから使いに出てはくれまいか?」
「ようございますよう、先生」
素朴な言葉づかいでおみつはそれを請け負った。
「で、どこへ向かえばよろしいんですか?」
「御家老・姉倉玄蕃様のお屋敷だ」
こともなげに弥兵衛は告げた。
「用人の生島殿に『弥兵衛は明後日に返事をいたす』とだけ伝えて欲しい」
それを聞き、いささか驚いたような色を浮かべた
言葉にならぬ思いを弥兵衛は、それが決して届かないことを知りながらそれでも告げずにはいられなかった。
心の中で彼は叫んだ。
葵。これが今生の別れぞ。達者で暮らせ──と。
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