第五話:木刀vs筋肉

 秋山道場の稽古場は、床面積にしておよそ二十坪。

 メートル単位に直すと、だいたい六十平米といったところになる。

 現代風に言えば、二十人強が余裕を持って使用できる会議室とほとんど同じ大きさだと思えばいい。

 それは、決して手狭なものとは言えないまでも、同時に大道場とも言いかねる規模であった。

 門人の数もさほどではない。

 いまの時点では、かろうじて二桁に手が届くくらいであろうか。

 事実、今日の朝練に顔を出している剣士たちの顔触れは、両手の指で数えきれる程度の人数に収まっていた。

 だが、それは道場主である秋山弥兵衛の剣名が低い位置にあることを意味していない。

 むしろ、その真逆であるとさえ言えた。

 直心正統流・山田一風斎に師事した彼が故郷の飛騨にて剣術道場を開いたのは、いまからおよそ六年前の出来事だ。

 師である一風斎が流名を「直心影流」と改めたことに合わせ自らもその流派を名乗った弥兵衛の力量は、この飛騨国においてさえ広く知られていた。

 それは、高山藩が碌をもって彼を召し抱えようとしたことから見ても明らかだった。

 だが、弥兵衛はその割の良い申し出をきっぱりと固辞した。

 多くの剣客にとって、藩お抱えの剣士となる道がある種の夢であるにもかかわらず、だ。

 それは、彼が「剣は出世の道具に非ず」との強い信念を抱いていたからにほかならなかった。

 藩の依頼に従いその家中の者へ剣を伝えることはすれども、自ら主を持ちその庇護の下に安穏とすることは望まない。

 それが、「剣客」秋山弥兵衛の回答だった。

 そんな彼が指南する剣法は、それゆえに極めて猛烈峻厳なものであった。

 剣による心身の鍛錬をこそその本分とするため、いわゆる「箔を付ける」ことを目的に彼を師とした門人たちは短い間に姿を見せなくなるのが常だった。

 中には入門初日にして逃げ出した者さえいる。

 その激しさを端的に表したものが、行われる稽古の内容だった。

 秋山道場では、一風斎が積極的に進めていた袋竹刀と防具の使用による試合稽古スパーリングというやり方にあえて背を向け、旧来どおり素面素籠手で木太刀を用いる型稽古を中心に行っていた。

 それは怪我人の続出する危険な稽古であった。

 刃の付いていない木太刀とはいえ、当たりどころによれば十分に骨を砕くだけの威力がある。

 頭蓋を直撃すれば、生命に関わることもあり得るのだ。

 いかに型稽古であっても、全力で打ち込まれた一撃を受け止められなかった場合の危険度には想像を絶するものがあった。

 だがしかし、それゆえに秋山道場の門人は、藩内において一目置かれることが多かった。

 戦国の世が終結して数十年が経ち天下が太平の空気を楽しんでいるさなかであっても、文字どおり武芸としての剣術を尊ぶ者はいまだ少なくないからである。

 食事を終えたケンタが葵とともに稽古場を訪れた時、壁際には屈強の剣士たちが並んで膝を折っていた。

 どの者も、出来物特有の引き締まった顔付きをその顔面に貼り付けている。

 そんな彼らからの視線が、たちまちケンタに集中した。

 歓迎の意を備えたものではない。

 まるで道場破りに来た他流の剣士を見据えるかのごとき、敵意すら感じられる眼差しだった。

 ぴりぴりと張りつめた空気が板張りの室内を満たしていた。

 それが、あたかも決闘場のような雰囲気を濃厚に醸し出している。

 場の上座に座るのは、乾半三郎だった。

 代稽古たる彼は、道場主である弥兵衛が不在のおり、師になりかわり門人の稽古を監督する役目を任された若者だ。

 詰まるところ、秋山道場におけるナンバーツーの人物というわけだ。

 当然ながら、その技量について言うべきことは何もない。

 事実、いま道場にいる門人のうち、なんとか半三郎と打ち合える者は三名といなかった。

 達人とまでは言えないが、凄腕と評しても構うまい。

 それほどの剣士であった。

「不躾な申し出を快諾していただき感謝いたす」

 門人たちからの鋭利な視線に晒されながら自らと向かい合って座したケンタに向け、半三郎はそう言って小さく一礼してみせた。

 彼は尋ねた。

「失礼ながら、古橋殿は体術を得手となされているとのこと。よろしければ、その流派をお教えいただきたい」

「プロレスです」

 ケンタは即答した。

 迷いなどどこにもなかった。

「ぷろれす?」

 それを聞いた半三郎が、怪訝そうな顔をする。

「そのような流派、これまで耳にしたこともござらぬ。これはぜひとも、その神髄をこの場にて拝見させていただかねばなりませんな」

 苦笑しながら立ち上がり、彼は静かな口振りでケンタに告げた。

「では、始めるといたしましょう」

 稽古場の中央にて向かい合うふたりを入り口付近から眺めつつ、葵は心臓が高鳴っていくのを止められなかった。

 それは、これから行われる立ち合いに前向きな期待感を抱いたからではない。

 むしろ、それは後ろ向きな不安感からきたものだった。

 朝餉のさなかに現れた半三郎が古橋ケンタに堂々立ち合いを申しこんだ時、葵は軽く半三郎を叱咤して彼の行為を戒めた。

「乾殿! いきなり客人に手合わせを申し込むなど、失礼だとは思われませんか?」

 すぱっと鋭刃で切り落とすかのごとき口調だった。

 それは可憐な少女のそれではなく、明らかに名のある剣客の娘としての立場が放たせた物言いであった。

 だが半三郎は退かなかった。

「御言葉なれど」

 半三郎が反論した。

「剣客たる者、力ある武芸者を前に我が腕を試したくなるのはいわば必定のことにございます」

 彼は力強く主張した。

 曰く、剣の技とは、これすなわち戦場いくさばの技である。

 他流と相対す時、おのれの身に付けた技に隙があったなら敵は必ずやそれを突こうと試みるだろう。

 なればこそ、剣術つかいを志す者は機会を逃さずさまざまな技と接し、自らの幅を広げ、その見識を磨いてゆかねばならない。

 自己研鑽とは、狭い視野の中で行われるべきものではないのだ──と。

「これは、秋山先生御自らが常々申しておられる御言葉でござる」

 半三郎は、そう言い切って語りを終えた。

 葵は、これにも食い下がった。

 しかし、その言葉にはさきほどみせた切れ味が、ごっそりといっていいほど抜け落ちていた。

 ほとんど惰性のみによって自らの意志を投げ付けているに等しい口振りだった。

 もはや駄々をこねているに等しい。

 利発であっても経験そのものが不足している少女にとって、それはある意味で仕方のない展開だったのかもしれない。

 いわば、引き際というものをわきまえていないのだ。

 論戦の袋小路に追い込まれた葵に助け船を出したのは、黙って成り行きを見守っていたケンタだった。

「自分はかまいませんよ」

 軽い口調で彼は言った。

 了承の意だった。

 ただし、言葉が向けられたのは半三郎にではなく葵のほうにであった。

「仮にも剣術道場の代稽古までなされる人が技を教えてくれって言うんだから、これはむしろ光栄な話じゃないですか」

 まるで他人事のような口振りだった。

 不敵に笑って半三郎が頭を下げる。

 それでも葵は、何か言いたげな顔付きを崩そうとしなかった。

 しかし、本人の意向を曲げてまでさらなる抗議をしようともしなかった。

 立ち合いの当事者同士で同意がなされたのだから、第三者である自分の言うべきことは何もない、と悟らされたからだった。

 実のところ、ケンタにはこの時代の剣術稽古を二十一世紀のそれと同じように考えている節があった。

 面・胴・籠手といった防具によって身を守り割竹刀を用いて打ち合う、近代的な「剣道」という名のスポーツ。

 あたりまえだが、そこには命のやりとりに繋がる血生臭さなど一片もない。

 ケンタが半三郎からの申し出をほとんどふたつ返事で請け負ったことの背景には、彼の持っていたそんなイメージが色濃く姿を見せていた。

 まさに昨日、真剣を用いた生命の取引をその身で経験したばかりだというのに、だ。

 だから、その性質を「暢気に過ぎる」と評するのも、まんざら後知恵だとは言い切れなかった。

 ケンタがその異常さに気付いたのは、自身が半三郎と対峙するまさにその時となってからだった。

 自分にも半三郎にも防具の類は与えられず、しかも相手が手にしている得物は間違いなく木刀だ。

 さすがに「これはおかしいぞ」と葵を含めた周囲の顔触れに向けて目線を投げたが、誰ひとりとしてこれに異を唱えようとする者はいない。

「まさか、その木刀を使うんじゃないでしょうね?」

 思わず尋ねたケンタに対し、半三郎は「何をいまさら」とばかりに苦笑いをしてみせるに留まった。

 まずい。

 ケンタの背筋に冷や汗が流れた。

 竹刀による殴打であれば、若手時代から数えて幾度もその身で受け止めた経緯験がある。

 それは、皮が裂け、血が滲み、身体がのけぞるほどに痛烈な一撃だった。

 だがそれは、骨身に染みいるほどの打撃ではなかった。

 音と苦痛こそ凄まじいものの、それが人をノックアウトできるような得物でないこともまた、ケンタは実体験として知っていた。

 しかし、木刀は違う。

 確かに真剣などと比べれば「兵器」として大分見劣りするだろうが、それが他者を傷付けることを目的とした「武器」であることに変わりはなかった。

 あたりまえだが、そんなもので本気の打ち込みを食らった経験をケンタはこれまで持っていない。

 思わずごくりと息を飲んだ。

 逃げ出したくなる気持ちが、心のどこかに湧き上がってくる。

 明らかな恐怖だった。

 そんなケンタに半三郎が告げた。

「どちらかが降参するか、はたまた動けなくなれば決着といたします。いざ!」

 有無を言わせぬひと言だった。

 退路は寸断され、ケンタはこの若い侍とおよそ二間弱、すなわち三メートルほどの距離で睨み合う羽目に陥った。

 はなはだよろしくない状況であることは、十二分に認識できていた。

 だが、いまさらそれに背を向けることも、ひとりの男としてできる相談ではなかった。

 了承を明言したのは、ほかならぬケンタのほうなのだ。

 いったん口にした約束事を反故にするなど軽々に許されるわけもない。

 これも自業自得か、とケンタはようやく覚悟を決めた。

 ただし彼の肉体と精神は、まだ本質的なところでそれを現実の脅威として捉えていなかった。

 所詮は稽古事なんだろうという甘い考えが、心の張りをどこかで弛めていたのだ。

 まさしく完全な油断だった。

 それがこの時、ケンタの側に完全な隙を産んでしまった。

 半三郎から音もなく初撃が打ち込まれた。

 面打ちだった。空気を切り裂く音が、ケンタの耳を確かに捉えた。

 咄嗟に身を捻るケンタ。

 彼が半三郎の初太刀を紙一重でかわし得たのは、九分九厘まで偶然の産物だった。

 ただし、被弾自体を避け得たわけではない。

 裂帛の勢いで振り下ろされた木太刀は頭部への落下こそ叶わなかったものの、筋肉で小山のように盛り上がったケンタの左肩あたりをしたたかに殴打した。

 ばしん、という鋭い破裂音とともに、爆弾が体表面で炸裂したかのごとき感覚がケンタの脳髄へ突き刺さった。

 それは、文字どおり「痛み」ではなく「衝撃」だった。

 痛覚が反応するよりもはるかに速い速度で、打撃によるインパルスが神経繊維を駆け抜けたのだ。

 小さく顔をしかめながら、ケンタは数歩後退った。

 ぺろりと舌なめずりをし、ふたたび目の前の剣士と向かい合う。

 両腕が上がり、ガードが固まる。

 すっと息を吸い込みつつ、中段に木太刀を構える半三郎を、ガードの隙間からケンタは見据えた。

 いまの打ち込みから、ケンタは手加減の意志を微塵も感じることができなかった。

 間違いなく、半三郎はこちらの額を割ろうとしていた。

 そのことを、彼はこの初太刀を受けることで確信できた。

 この男は──ケンタの目の色が鈍く変わった。

 この男は、俺にを売っている。

 彼は思った。この俺に、「プロレスラー」であるに喧嘩を売る。

 それはつまり、「プロレス」そのものへ喧嘩を売っているに等しい行いだ。

 ケンタは、おのれの身に付けたプロレスという代物が、いわゆる「究極のエンターテイメント」であることを自覚していた。

 プロレスは、断じて格闘技ではない。

 ただ相手を倒せばいいそれらと異なり、プロレスには、戦いを通じて見る者すべてに示さなくてはならない大事ながあるからだ。

 それは「強さ」か?

 いや違う。

 それは「夢」だ!

 そう、プロレスラーが背負っているものは、勝敗という「現実」ではない。

 「夢」なのだ。

 だからこそ、プロレスラーはリングの外でこそ強くあらねばならなかった。

 目の前の喧嘩リアルから逃げること。

 目の前の喧嘩リアルに敗れること。

 すなわち、「夢」が「現実」に敗北することなど、絶対にあってはならない出来事なのだ。

 売られた喧嘩は必ず買う。

 そして、必ずこれに勝利する。

 それこそが、すべてのプロレスラーに課せられた、究極の使命なのだった。

 それこそが、人々の「夢」を背負った者に課せられた、至高のさだめなのだった。

 新弟子時代からことあるごとに叩き込まれてきたその哲学を、ケンタはアドレナリンの苦みとともに口の中で反芻していた。

 心臓の鼓動が激しくなり、血液の流れが爆発的に速度を増す。

 次第に肌が赤みを差し、着物の下で全身の筋肉がぐっとひとまわりボリュームを増した。

 半三郎は、眼前に立つ対戦相手の様子が一変したことを即座に察した。

 目の色も肉体が発する空気も、何もかもが仕合開始時点の彼とは雲泥の差だ。

 どうやら本気になったか。

 彼は内心でそう呟いた。

 ありがたい。

 そうでなくては数馬殿からの依頼を果たすことなどできぬからな。

 小さく口の端を綻ばせ、改めて構えた木太刀の先に剣気を込める。

 ゆらりとその身体が左右に振れた。

 姉倉家用人・生島数馬からの使いが半三郎のもとに訪れたのは、昨日の夜のことだった。

 その者から直接手渡された手紙には、本日秋山道場を訪れた客人に他家隠密の疑いあり、との記載があった。

 藩内にそのような者が足を踏み入れたのだとすれば、それは容易ならざる事態である。

 藩として、一刻も早くことの真偽を確かめねばならない。

 数馬は剣士として藩内に名の通った半三郎へ向け、ひとまず立ち合いによりその者の実力を査定するよう求めてきたのだ。

 足軽の出である半三郎の生家は、これまで何かと本家筋にあたる生島家によって支えられてきた。

 ことに半三郎の伯母が生島家に嫁ぎ、そのそくである数馬が当主となってからは、両家の繋がりはなお一層強固なものとなっていた。

 その、半ばおのれの主とさえ言っていい数馬からの指示である。

 断る理由などどこにもなかった。

 気の毒だが、確かめさせてもらうぞ。

 相手の力量を推し量るための立ち合いとはいえ、手慰みのようなじゃれあいでそれを叶えるだけの眼力を半三郎は有していない。

 ゆえに無理矢理にでも本気を出させ、それを見極める必要があった。

 そのためには、寸分たりとも手を抜くわけにはいかなかった。

 相手に底力を出し切らせるには、こちらもまた全力を尽くす必要があったからだ。

 ある意味、それは危険な仕合にほかならなかった。

 稽古などとは到底言えず、身命のかかった真剣勝負にすら近かった。

 だが、この時の半三郎はおのれの優位に絶対的な自信を持っていた。

 確かに、自身とケンタとの体格差には圧倒的なものがある。

 例えるなら、熊と猟犬のようなとさえ言えるだろう。

 組み合いはおろか、殴り合いであっても完全な劣勢を否定できなかった。

 しかし、ひとたび得物を手にしたいま、半三郎は無手のケンタを恐れる理由など何ひとつ思い付かなかった。

 根拠はふたつ。

 間合いと打撃力だ。

 無手に対する剣術側の優位は、その得物によるものこそがすべてであると言っていい。

 得物を持つことで無手の相手よりも大きくそして広い間合いが約束され、さらに鍛えられたパンチやキックに匹敵あるいは凌駕する打撃力をより小さなモーションで放てるようにもなる。

 半三郎は、ケンタと無頼者たちとがどのように戦ったのかを知り、その経緯に関して自分なりの分析を済ませていた。

 無頼者たちの敗因は、真剣の威力を過信する余り自らケンタの間合いへ踏み込んだことだ。

 重い真剣を打ち込みながら先手を打てば、あたりまえだがその身は大きく前に出る。

 それは、得物を持つことでせっかく手にした間合いの優位を自ら投げ捨てる行為に等しい、と半三郎は断じていた。

 確かに、それで相手を仕留められるものならば何も問題は発生しない。

 しかし、その一撃がかわされるかもしくは当たっても深手を負わせることができなければ、その行為はわざわざ相手をこちらの懐へと招き入れる利敵行為に早変わりする。

 そんな博打めいた行動は、まったくの愚策だとしか、半三郎には思えなかった。

 剣術側には圧倒的な間合いの優勢があるのだから、無手側の間合いに入らず一方的な要撃さえ続けていけばおのずと勝利は転がり込んでくるではないか。

 彼はそう考え、そしてその構想のままに戦術を組み立て立ち会いに臨んだ。

 一撃必殺とは程遠い、ある意味いじましいとさえ言える選択であったが、その中に否定できない正当性があることを誰もが認めざるを得なかった。

 ケンタがじりっと詰め寄る呼吸に合わせ、半三郎は一足飛びに打ちかかった。

 目にも留まらぬ三連打。

 瞬きする間もなくケンタの左肩、左肩、左脇腹にそれぞれ剣撃を叩き込み、次の瞬間にはもといた間合いへと立ち戻る。

 そのどれひとつをとっても、剣術試合であるならば一本を取れるだけの見事な一撃であった。

 なんだこれは。

 まったくの隙だらけではないか。

 策もなく剣撃をまともに受けた対戦相手を内心で嘲笑しつつ、半三郎は思った。

 旅の武芸者だと聞いてはいたが、これではまるで素人同然だ。

 剣撃に反応して動くことすらままならないのでは、隠密だのなんだのはもはや笑い話の類に過ぎない。

 いくらお役目とはいえ数馬殿もとんだ取り越し苦労をなされたようだ、と知らず知らずのうちに半三郎は口の端を綻ばせた。

 だがその直後、彼は気付く──眼前に立つケンタの巨体が、文字どおり微動だにしていないということに。

 なんだと。

 はっと我に返り、半三郎は刮目した。

 木太刀で打たれた経験は自分にもある。

 だからこそ、その強烈な痛みはわかっているつもりだ。

 それが人である限り、痛みを感じていないわけなどなかった。

 着物に隠れて判然としないが、おそらく打ち込みのあった部位は、肉が裂け、赤黒く内出血をしていることだろう。

 にもかかわらず、ケンタの表情に変化の兆しは見られない。

 頭部への直撃を避けるためがっしりと上げた両腕の高さもそのままに、なおも摺り足で半三郎へとにじり寄ってくる。

 莫迦な。

 半三郎の背筋に冷たい汗がひと筋流れた。

 効いていないのか?

 そんなはずはない。

 思わず自問自答する。

 それも当然のことだった。

 これまで嫌と言うほど剣術修行を続けてきた半三郎であったが、木太刀による一撃を平然と受け止められる人間に出くわしたことなど一度もない。

 無論、自分自身ですらもそうだ。

 たとえ致命の箇所ではなくとも、あの硬い木製の棒で身体を打たれたなら、その痛みと衝撃とは容易く人の忍耐心を超越する。

 それがあたりまえだった。

 例外などないと思っていた。

 では、目の前に立つこの男はいったいなんなのだ?

 痛みを感じる神経を持っていないとでもいうのか?

 困惑が焦りを呼び、それが彼に意図せぬ拙速を試みさせた。

 次の瞬間、まさしく嵐のごとき乱打がケンタめがけて降り注いだ。

 肩。

 腕。

 腹。

 腰。

 腿。

 脛。

 滅多打ちと言うに等しかった。

 あらゆる方向から襲いかかる木太刀が、文字どおり息つく暇もなくケンタの身に着弾した。

 衣服に守られていない部位の肌がえぐられ、かすかな鮮血が宙を舞った。

 しかし、ケンタは一歩も退かなかった。

 それがあたかも幼子の投げる紙つぶてであるかのごとく、半三郎の剣撃をもろともせずに前進してくる。

 凄まじい圧力だった。

 ねっとりとした濃厚な空気が半三郎の身体に吹きつけ、そして絡みついた。

 頭部をガードした両腕の隙間から、戦意にあふれたケンタの眼光がぎらりと輝く。

 ごくりと喉を鳴らし、半三郎は後退した。

 本人も、そして立ち合いを見ている者たちも気付いていなかったが、彼は間違いなく怯んでいた。

 しかし、衆目の目に半三郎がいったん退いたことは呼吸の間を取るためとしか映っていない。

 これ以上は、古橋さまのお命に関わる。

 そう考えた葵が立ち合いを止めようと腰を上げたのも、だからさほどに不思議な行動ではなかった。

 ボクシングで言えばスタンディングダウン、TKOテクニカルノックアウトに近いと彼女は感じたのだ。

 いかに巨漢の武芸者とはいえ、徒手空拳で練達の剣士を相手取るのはやはり無謀な企てだった──そのように悟った彼女は、制止の声を上げるべく大きく口を開いた。

 いや、開こうとした。

 何者かがそれを制した。

 唐突に肩へ置かれた手の感触が、そんな彼女を引き留める。

 振り向いた先にいたのは、いつの間にかやってきていた父・弥兵衛であった。

 彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、小さく首を左右に振る。

 その真意を読み取れず、葵はその眼を見開いた。

「お父さま」

 彼女は父親に抗議した。

「なぜお止めになるのです? もはや誰の目にも勝敗は明らかではありませんか」

「さにあらず。古橋殿はまだ動いてはおられぬよ」

 狼狽えたように唇を震わす愛娘に向かい、淡々とした口振りで弥兵衛は告げた。

「まあ、見ているがいい。結末はまもなく訪れるだろう」

「結末?」

 弥兵衛に言われ、葵はふたたび試合場へと視線を向けた。

 仕合は膠着を続けていた。

 圧倒的な主導権を握っていたはずの半三郎が、なぜか改めて攻勢に出ない。

 そのことについて、さすがに門人たちから不審の声が出始めた。

 乾殿は、いったい何をなさっているのだ。

 よもや、人を打ち据えることに臆されたのではあるまいな。

 門人たちにとって、代稽古である彼が得体の知れない余所者に真剣勝負セメントを挑むのはまったく了承済みの出来事だった。

 自分たちが学ぶ剣術を他流の武芸者へと叩き込む。

 そのために少々痛い目を見せることがあっても、それはむしろ必須の行為だと考えてすらいた。

 確かに、彼らの代表たる半三郎は一方的な仕合運びを展開している。

 身体中に木太刀の直撃を受け生傷だらけのケンタに対し、半三郎は完全な無傷。

 これを一方的と評せずしてなんとしよう。

 だがまさにそれだからこそ、彼がケンタを打ち倒せない事実は、門人たちにとって不満の対象として捉えられた。

 まさか「打ち倒さない」のではなく「打ち倒せない」のか。

 乾殿の剣は、所詮、道場剣法に過ぎず、実戦で敵を討つ力を持たぬ非力な剣なのではなかろうか。

 あからさまな疑惑をその背に受けた半三郎は、いまや追い詰められた我が身をひしひしと感じていた。

 こうなれば、なんとしてでも目の前の敵を倒さねばならぬ。

 おのれの剣のために、おのれの自尊心のために、なんとしてでも。

 半三郎の構えが変わった。

 それは素人目にはわからないほど小さな変化であったが、明らかに機動よりも攻撃を重視した構えであった。

 「突く」つもりだ。

 半三郎の意図を正確に予測した葵の喉がこくりと鳴った。

 刹那、閃光のごとき中段突きが半三郎の手から繰り出された。稲妻のように伸びた木太刀の尖端が、ケンタの腹部を見事に穿った。

 だが浅い。

 急所のみぞおちをわずかに外している。

 無論、常人にとっては到底耐えがたい一撃であったろうが、それは鍛えあげ練り上げられたケンタの腹筋を貫通するには至らなかった。

 当の半三郎自身がその事実を認めていた。

 それでもよかった。彼の狙いは続く二撃目にこそあったからだ。

 そびえ立つ巨木のように揺るぐことのなかったケンタの巨体が、かすかだが「くの字」に曲がった。

 おのれの仕掛けた目論見が当たったことを確信し、半三郎はさらに半歩を踏み込んだ。

「せやあっ!」

 気合とともに二段目の突きが放たれた。

 面突きだ。

 電光石火の連撃である。

 無防備な顔面に対する突き技は、確実に稽古の範疇を越えていた。

 相手に死の河を越えさせることさえ厭わない──そんな意志を無言のもとに潜め持つ鮮烈な一撃であった。

 その殺意すら秘めた剣先が、あろうことか空を切った。

 ほんの一瞬前までケンタの眉間が存在していた場所を、鋭利な念が虚ろに貫く。

 あたかもその攻撃を予測していたかのごとき正確さで、ケンタが身体を右に滑らせたのだ。

 紙一重と言える見切りだった。

 木太刀の端が掠めたものか、左のこめかみから赤い血が飛び散る。

 両者の間合いが一気に狭まった。

 腰の入った突きを放つため相手の懐へ深く踏み込んだ半三郎にとり、それはある意味覚悟のことと言えた。

 だが、その攻撃が見切られるとは思っていなかった。

 彼はこれまでの打ち込みで、ケンタがこちらの太刀筋に反応できないものと考えていたからだった。

 それが、全部こやつの「振り」だったとしたら──…

 剣撃を避けられなかったのではなく、こちらを油断させるため、あえてそれを受けていたのだとしたら──…

 予期せぬ事態に半三郎は困惑し、同時に心の底から戦慄した。

 すべてが罠だった。

 この男は、初めから狙っていたのだ。

 打撃に倒れぬ対戦相手にしびれを切らしたこの俺が、自ら深い間合いに入ってくるであろうこの時を。

 いつ訪れるやも知れぬ瞬間を、凄まじい乱撃と身をよじらんばかりの苦痛に耐えながら、それでもなおこの男はただじっと待ち続けていたのだ。

 なんという自信。

 なんという胆力。

 なんという──まったく、なんという「男」なのだ、こいつは。

 半三郎の脳裏をよぎったその感情は、どこか憧憬にすら近いものだった。

 ひとりの男として自分よりも強い存在に憧れる、子供のように素直な思い。

 しかし、彼は勝利の二文字を自ら相手に捧げ奉るほど愚劣な男ではなかった。

 剣士としてのプライドが、そんな真似を決して許しはしなかったからだ。

 だん、と激しく床を蹴り、身体ごとその懐から脱出しようと試みる。

 渾身の一撃をかわされ敵の間合いへと呼び込まれたものの、おのれの身体がその手足に絡み取られたわけではない。

 しょせん、相手は徒手空拳。

 組まれさえしなければ、ふたたび我が間合いに立ち戻ることさえ叶えば、勝敗の行方はまだ一向に判然とせぬ。

 いや、彼の目論見を知ったいま、もはやその手に掛かりなどしない。

 なれば、勝利は我が手の内だ!

 だが、その場から飛び退かんとした半三郎の意図は、思わぬ抵抗によって完全に阻止された。

 ケンタが伸ばしたごつい左手が、彼の右袖を鷲掴みしていたからである。

 半三郎は悟った。

 ケンタの狙いは、攻撃の際におのれの間合いへと侵入してくる「腕」そのものであったのだと。

 本身に対し、組み付き、あるいは拳足で打つことの叶わない間合いであっても、得物とともに伸びてくる腕であるなら十分捕捉の可能性がある。

 あの乱撃のなか、その「間」と「機」すら計っていたのか、この男は──半三郎は、かっと目を見開きケンタの顔を凝視した。

 その直後だった。彼の身はぐいっとケンタの懐へ引き付けられ、次いでその丸太のような右腕が股の間に差し入れられた。

 そしていったい何が起こったのかを半三郎が察するより早くその身は大きく抱え上げられ、同時に天と地とが彼の視界で勢い良く逆転した。

 バン!

 耳をつんざく響きとともに怒濤の衝撃が半三郎の胸を貫いたのは、まさしく次の瞬間の出来事だった。

 ボディスラム。

 プロレスにおける基本中の基本とも言える技のひとつ。

 逆さまに抱え上げた相手を背中から前方へ叩き付けるそれは、試合の中で「つなぎ」として位置付けられることの多い投げ技である。

 しかし、その認識はあくまでも受け身の取れるプロレスラーをマットの上に投げ付ける前提において評されるべきものだった。

 その前提に準じない場合、すなわち受け身を知らぬ者を硬い板上に投げ落とすような場合なら、そんな温い評価の与えられる技ではない。

 事実、技を受けた半三郎は、仰向けに横たわったまま身動きひとつできなかった。

 大きく目を見開き、口をわずかに開閉させながらその身を小刻みにひくつかせているのみである。

 いまやその呼吸はずたずたに引き裂かれ、思考は那由多の彼方へと押しやられていた。

 かろうじて意識はあるようだった。

 しかし、彼が戦える状況にないことはたとえ素人であっても容易くうかがい知ることができた。

 勝敗は決した。

「それまで」

 凛とした宣告が弥兵衛の口から放たれたのは、まさにそんなおりの出来事だった。

 異議を唱える者は誰もいなかった。

 半三郎を見下ろすように仁王立ちしていたケンタが肩越しに振り返った。

 どこか体裁悪そうに苦笑いを浮かべてみせる。

 そんな彼に向け、弥兵衛は告げた。

「まさしく『肉を切らせて骨を断つ』の極意ですな」

 その表情には、まるで頼もしく育った息子でも見ているかのような輝きが感じられた。

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