何度でも

川和真之

第1話

 ついに卒業論文が完成する。残すは最終ページに謝辞を書くだけであり、お世話になった指導教授、大学院生、そして同級生たちの名前を一人ずつキーボードで打っていく。思いつくままに打っていき、最後の一人である、唯川真帆さん、と打つ指はゆっくりとなった。そして打ち終わったあと、僕は椅子に深く寄りかかり、画面をおぼろげに見つめた。

 しばらくしてマグカップを手に取り口をつけるが、中身はからっぽであった。僕はそのカップを片手に、台所へと向かった。インスタントコーヒーをカップに適量よそい、置きっぱなしの鍋に水をいれ、そして火をかけた。1Kの間取りの場合は大抵そうなのだろうけど、扉を境に台所側はひどく寒くて、僕はパーカーのフードを被った。沸騰したお湯をカップにいれて、スプーンでかき混ぜながら元の椅子に座り直した。そしてゆっくりとため息をついた。パソコンの時計は、午前一時をさしていた。

 僕は書き途中のワードを閉じて、インターネットでラジオを立ち上げた。聞き慣れた、僕も好きなお笑いタレントがMCをつとめるラジオ番組だ。

 ――なんとか、先延ばしする方法はないのだろうか。

 明日が提出期限だった。卒業論文の本文はもう完成していて、提出が間に合わないというわけではない。この謝辞を書き上げて、印刷して製本用のファイルに綴じ、事務室に提出すれば僕の大学生活は完了する。

 そう、全てが終わってしまうような気がした。

 パソコンから、饒舌な語りが流れている。このあいだのお笑い賞レースを振り返り、自分は最近天狗になっていたと、ユーモアを加えながらの懺悔であった。これだけ売れているにもかかわらず、謙虚でいられる彼をすごいと思った。そして、話題は彼が尊敬していたという、先日亡くなった落語家の話へと広がっていった。何度もゲスト出演してもらったと、思い出話を始めたところで僕はラジオを止めた。

 謝辞を書き終え、〈了〉という文字を打ってみたが、充実感は沸いてこなかった。僕はもう一度目次から読み直した。不思議なもので、読み返すと隠れていたかのように誤字脱字が顔を出す。ページを進めては、腕を組んでその画面を遠くから眺めた。エアコンの暖かい風がちょうど僕の頬を優しく撫でた。

 目をつぶり、やり残したままの最大懸案事項に思いを馳せた。しばらくして、いまの気持ちを謝辞に託すことを思いつく。

 どんな言葉なら、彼女に響くだろう。

 しばらく考えてみたが、僕は再び大きくため息をついた。

 正攻法でうまくいかないからと言って、こんなまわりくどい方法で成功するとは思えなかった。この懸案事項が、ハッピーエンドで終わると思えたことがない。想像ですらうまくいかないのだ。もう一度、味わうかもしれない大きな痛みを、ちゃんと癒せるだろうか。

 僕は考えることをやめた。目をつぶったまま首をゆっくりと傾けると、静かに鳴り続けるエアコンの音が遠ざかっていく。

 ――次に気がついたとき、時計の針はもう正午をさしていた。

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