第7話

 起床して朝食をとりにホテルのレストランに行くと、もうユカリさんの姿はなく、バスに乗り込んで見渡してみても、やはりその姿は見えなかった。ユカリさんは昨日、ツアーコンダクターにこの旅行を中断する旨を伝えたようだった。そのためであろう、特にユカリさんがいないことを確認することもなく、定刻の八時にバスはイルクーツクに向けて発車した。

 ユカリさんがいないことに気づいている人もいるようだった。その証拠に、僕の後頭部には視線が集まっている感覚があった。でも僕にどうすることができるのだろう。

 バスを降りて、一時間ほど自由時間になった。それぞれが残り三日間の長旅に備えて、買いだしをしているようだった。ユカリさんからお金を借りっぱなしだったことを思い出す。食堂車の費用はいつもユカリさんが払ってくれていたため、僕の財布はまだ比較的潤っていた。しかし、これからは本当の一人旅になる。毎回、食堂車に行くわけにもいかないだろう。僕は駅前でミネラルウォーターや韓国製のインスタントラーメンなどを購入した。これを食べながら、変わらない景色を眺めながら、静かに終わる旅を想像する。

 駅に戻りホームに足を運ぶと、すでに「ロシア号」が到着していた。バスの中で配られた新しい乗車券を用意する。乗車券を確認しながら自分の寝台車と照らし合わせていると、目の前には高橋夫妻の姿があった。高橋婦人は、僕を力強く見つめてくる。

「どうして、止めなかったのよ」

 彼女はそう一言だけいって、先に寝台車へと乗り込んでいった。

「はは、確かに。恋愛成就まで頑張ればいいものをさ」

 高橋さんも婦人の後について行く。

 僕はプラットホームに立ち、これから過ごすであろう部屋を窓越しから見つめた。「ブウァン」と、電気機関車が調子を確認するように警笛を鳴らしている。あと数分で発車する。このシベリア鉄道に乗り込めば、三日後にはモスクワにつき、そして五日後には日本について、また変わらない日常が淡々と続いていくのだろう。

 ――僕はまだ、この旅行で何もしていないんじゃないか。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 このまま乗り込んで、高橋夫妻に馬鹿にされながら過ごす旅と、ここから駆け出して、自分をさらけ出す旅と、どちらの方が重要かなんて、考えるまでもないことだった。

 僕は乗車券をさっと破り捨てた。自分でも驚くほど自然に。

 これでもう引き返せない。僕の心は高揚していく。

 適当に、怠惰に、そして無計画に――それが今回の旅行のテーマだ。

 僕の旅は、いま、ここから始まる。

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