第5話
シベリア鉄道の道のりは長い。ウラジオストクを出発して、ハバロフスク、チタ、ウラン・ウデなど大きな都市を通り、四日目の朝にイルクーツクに着くまでは車中で過ごすことになる。ときどき、ツアー客が僕たちの寝台車にもやってきていた。愛想のいい高橋さんは、隣の部屋の大学生グループとトランプをしたり、結婚式の話などを披露していた。ユカリさんは窓の外から変わらない白樺の木々が広がる景色を僕の横で眺めていることが多かった。
ユカリさんとの会話はずいぶんと少なくなっていた。ユカリさんが下のベッドに座っていると言っても、僕たちのあいだには人が二人座れるくらいの距離があった。僕は日本から持ってきた一冊の恋愛小説を繰り返し読んでいた。
深く傷ついた女性が語り手で、彼女は日本を離れてイタリアで静かに暮らしている。そこで出会った男と恋人として一緒に生活をしていて、幸せなはずなのに、その彼女は深く傷ついたきっかけとなるある男のことを忘れられない、といった三人を巡る恋物語だった。僕はここ最近、この小説にかかわらず恋愛小説や少女マンガばかり読んでいた。それは、その世界の中で僕のことを発見することができるからだった。
恋愛物語においては、たいてい、主役となるヒーローとヒロインがいて、そして多くの場合、その二人の恋を盛り上げる役割を担う人物が出てくる。もちろん、僕はその盛り上げ役だ。例えば、ヒーローの親友だとか、ヒロインの幼馴染だとか。
盛り上げ役もヒロインに恋をしていて、しかも、一度はヒロインとうまくいきそうになる。最大瞬間風速の風のごとく、ヒロインはその盛り上げ役に心を委ねるのだ。しかし、最終的にはヒロインは必ずヒーローのもとへと戻っていく。盛り上げ役の彼には、淡い線香花火のような思い出だけが残り、最後にはその二人の恋を応援するという、したくもない演技を作者から強要されるのだ。その姿に僕は同情してしまう。
その点、この恋愛小説はよくある少女マンガよりはいくぶんマシだった。盛り上げ役が抵抗し続ける物語で、読んでいてどこか心が静まる気がした。結局のところ、抵抗は無駄に終わり、結末は同じになるのだけれど。それにしても、人はずいぶんと簡単にセックスをするのだな。フィクションの世界も、僕の恋した人も、ユカリさんも。
僕は本を閉じて、それをバッグに投げ入れた。うまく入らずに、ばさりという音が妙に響いた。高橋夫妻は食堂車へ出かけており、今はユカリさんと二人きりだった。
「ねえ」
ユカリさんが窓の外に指をさして、僕の顔を見た。
「少しだけ、景色が変わった気がしない?」
外を見ると、白樺の木々と湿地帯の景色が変わらず広がっていた。
最初の頃はシベリアの景色に心踊っていたが、どれだけ美人でも三日で飽きてしまうという言葉に賛同できるくらいには、その変わらない景色に対する興味は薄れ始めていた。でもユカリさんは違うらしい。
「そうですかね」
「少しだけ木々の背丈が高くなったのよ。そのぶん印象が深くとなったというか」
「そうやって、ずっと変わらない景色を見ていて楽しいですか」
ユカリさんの眉毛がぴくりと動く。
「もちろんよ。同じ小説を繰り返し読み続けるよりは、ずいぶんと有意義だと思うけど」
僕は首を横に振っていた。
「本は読むたびに姿を変えるんですよ。知ってましたか?それが本の魅力ですから」
「でもいま君が読んでいる本は、読むごとに姿を変えているとはとても思えないけどね」
何を読んでいるかも知らないくせに。僕が黙っていると、ごめんごめんとユカリさんは近づいてきて、「そんなに怒るとは思わなかった」と言い、ユカリさんは手を握ってきた。
「やめてくださいよ」
僕はその手を勢いよく払う。
「なに、びっくりした」
「だって、恋人じゃないんですよ」
ユカリさんは僕の方を見て、しばらくしてから「姉弟でもないか」と言った。大きなカーブに差し掛かり、客車が揺れ金属音が響き続けていた。力強く走る鼓動のように聞こえたこの音も、なんだか今は無機質に感じる。
「ねえ、もうあの本読まないの?」とユカリさんがカバンの横に転がっている本を指さした。僕が答える前に、彼女はその本を手に取り、部屋から出て行った。
ウラジオストックを出て四日目の朝、ロシア号はイルクーツク駅構内に入り込んだ。「シベリアのパリ」と呼ばれるイルクーツクは人口約五十万人の比較的大きな都市で、「シベリアの真珠」と呼ばれるロシア最大の湖・バイカル湖が近くにある。この駅では僕たちだけでなく、多くの乗客が降りていった。
僕は寝台車から降りると同時に大きく身体を伸ばした。ツアーコンダクターの指示に従い、僕たちパックツアーのメンバーは、ここから少し離れたバイカル湖のあるリストビャンカという街までバスで移動することになった。バスの中では簡単な軽食が配られた。乗り物が変わっても、ユカリさんはずっと外の景色を眺めていた。席は隣だったけれど、ユカリさんから僕に声をかけてくることはなかった。
一時間半ほどバスに揺られて、僕たちは今日泊まる小高い丘の上にあるホテルに到着して、荷物を置いてからバイカル湖のほとりまで足を進めた。
僕の目の前には太陽の光をたっぷりと浴びた、まさに海と言える景色が広がっていた。湖と言われない限り、誰も湖とは思わないだろう。ほとりは大小さまざまな茶色の石ころが散りばめられており、海と同じような波が引いてはやってきていた。波は底が見えるほど澄んでいた。その透き通った水に触れてみると、まるで身体が清められているようだった。
ツアーコンダクターがこれからの予定をアナウンスし始めた。明日の朝八時にはここをバスで出発する。それまでは自由時間とのことだ。観光名所としてニコリスカヤ教会とシャーマンの石、そしてバイカル湖を一望できる展望台などが紹介された。紹介が終わり横目でユカリさんを視界に捉えると、彼女は一人、バイカル湖からホテルの方へと向かっていた。僕はその後ろ姿をじっと見つめた。
「ちょっといいか」
振り向くと、高橋さんが立っていた。二歩後ろには高橋婦人がいて、その表情は緊張と不安が入り混じっている。
「君さ、人に迷惑をかけているって自覚はあるのか」
高橋さんの目つきは鋭く、僕にまっすぐに向けられている。鼓動は瞬時に大きくなり、そしてその刻むスピードは速くなる。
迷惑だって? それを高橋さんが言うのか。そう思っても、言葉はなかなか出てこない。高橋さんは大げさに首を横に二回振った。
「俺が最初、君にかけた言葉を覚えているか」
高橋さんの声はささくれ立つ。
「なんか言ったらどうだ」
高橋さんは力強く、一歩、二歩と距離を縮めてきた。僕は思わず、後ずさりする。
「俺は、一番楽しい部屋にしようって言ったんだよ。せっかくの一期一会の旅行だからだ。君は、旅の醍醐味をわかっているのか。いや、わからないんだろうなあ。彼女と姉弟なんてバレバレの嘘をついて、俺たちを近寄らせないようにしてさ。まあ、それは百歩譲るさ。お盛んな大学生だ。でもさ、その恋が成就しなかったときの配慮くらいしたらどうなんだ。君たちが険悪になると、こっちは本当に迷惑だ。さっき、ツアーコンダクターにクレームを入れてきたところだ」
「ちょっと、もうやめよう」
高橋婦人が止める。
「自業自得だろ」
「なんだって?」
「僕は、自業自得だって、言っているんだ」
僕の声が震えている。
高橋さんは怒りのこもった言葉を吐きながら、さらに踏み込み僕の左肩を強く押した。僕は押されて足がもつれ、そのまま尻餅をついた。僕は両手で身体を支えて、高橋さんを見上げた。
「なんだこいつ。これだけで倒れるのか。その怯えた顔はなんだよ。そんなんじゃ相手にされなくて当然だろ」
「ねえ、もうやめて」
「いや、やめないね」
「もう私は大丈夫よ。ほら、元気出てきたわよ。ごめんなさい。私、勝手に落ち込んでいて。でも、彼らとは関係のないことなのよ」
「そんなわけがないだろ」
ツアーコンダクターが慌ててやってくる。ツアーのメンバーは遠巻きで、様子を傍観していた。ふんと鼻を鳴らして、高橋さんは去っていった。高橋婦人は本当に申し訳なさそうに、頭を下げながら、高橋さんのあとについていく。
ツアーコンダクターに状況を尋ねられたが、僕は大丈夫ですと一言だけ言って、その場を逃げるように後にした。
僕はコートに付いた砂を払い、湖に沿って続く道路までやってきた。そして、人が少なそうな方向を見定めて、歩き始めた。湖は僕の心と打って変わって、驚くほど輝いていた。空気は澄んでいて、雲は一つなく、湖と空の境界線がまるでないように思えた。ときどき、ランニングをしている現地の人とすれ違った。しばらく歩くと、僕は丘の上にある小さな公園を見つけた。道路を外れて階段を登っていくと、そこは小さな砂場とベンチのある公園だった。ベンチには誰ひとりいなかった。僕はそのベンチに座る。バイカル湖が遠くの方まで見渡せた。
心が静かになっていくのがわかった。
ようやく一人になれたと思った。
僕はそこから、空と湖が混ざり合った一面に広がる青々とした風景を眺め続けた。しかし、眺め続けても僕の心はその湖とは相容れずに、赤褐色に濁った泥水のままだった。ようやく一人になれたのに、何か有益な答えが出てくることは決してなかった。ウラジオストクの公園で同じように空を眺めていたことを思い出す。あのときは、二日酔いであったけれど、あんなにも晴れやかだった。違いはなんだろうと、その理由をわざわざ考えるまでもなかったのだけれど。
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