シベリア鉄道の夜に

川和真之

第1話

 僕が一人、ビーフ・ストロガノフの味を堪能していると、彼女は僕がその肉を飲み込むよりも自然に、向かいの席にすっと座った。そして彼女は、その透き通った瞳で僕を覗き込む。

 しばらくして彼女は手を挙げて、ウエイトレスを呼び止めた。

 ウラジオストク市街にあるホテルに併設されたレストランのため、ロシア語だけでなく英語も通じるが、彼女はメニューの説明が全くわからない様子で、ちらりと僕の方に目をやった。まるで「それ、美味しいの?」と尋ねるように。

 僕は何と言えばいいのかわからず、しばらくの沈黙のあと、結局はぎこちない笑みを浮かべた。すると彼女は微笑みかえし小さく頭を下げたあと、僕の料理を指さしながら「同じのをください」と日本語ではっきりと答えた。

 僕は間を持たせるために、残りのサラダを食べ終え、ビールを飲んだ。ビールを飲みながら、彼女の様子をひっそりと窺うが、すぐに目が合ってしまう。

「たばこ、すってもいい?」という台詞が、僕に向けられた最初の言葉だった。僕が「どうぞ」と言うと、彼女はマルボロのメンソールライトをポケットから取り出して、慣れた手つきで火を付ける。煙を吐き出す彼女の姿には、どこか安堵感があった。

 すらりとした身体に、肩に優しくかかる髪、そして艶のある口紅。秘書のような容姿と不釣り合いな煙草をふかす姿が、大学生の僕には大人の女性を感じさせた。

『シベリア鉄道十日間の旅』という今回のツアーパックに参加しているメンバーと成田空港で顔合わせをしたときも、彼女は一際目立っていた。こんな綺麗な女性が海外で一人旅をするなんて、現実にあるものなのかと。

 僕はビールを飲むペースが速まり、グラスが空っぽになった。手持ち無沙汰になり、慌ててメニューを手に取る。メニューを見ても、内容がなかなか頭に入ってこない。彼女はどうして僕の向かいの席に座ってきたのだろうか。

「迷惑、かな」と彼女は言った。

 僕はメニューから目を離し彼女の方を見る。彼女のその瞳からは言葉通りの様子が伺えた。僕はどう反応すればいいのかわからず、まばたきをすることしかできない。

「シベリア鉄道は初めて?」

「あ、まあ」

「私も初めてなのよ」と彼女は嬉しそうに口元を緩めた。そして「有休を取ったのかな」と言葉を続けた。

「僕はまだ大学生なので、時間、いくらでもあるので」と言うと、彼女は驚いた様子だった。

「落ち着いているから、もう少し年上かと思ったわ」

 彼女がそう言い終わると、日本語の声が背後から聞こえてきた。座ったまま振り返ると成田空港で顔合わせをしたときに新婚旅行だと言っていたカップル――高橋夫妻の姿があった。

「おいおい、もう仲良しになったのか。一人旅の目標は早くも達成かい?」と高橋さんは笑いながら言った。

 僕はその言葉に顔が熱くなる。こういう冗談を言われたとき、なんて返事をすれば正解なのかいつもわからなくなる。僕は申し訳なさそうに小さく頷きながら、さきほどと同じような苦笑いをした。高橋さんは言葉を続ける。

「さっきツアーコンダクターの人に聞いたんだけど、寝台車は俺たち夫婦と君たちで四人一部屋のようだ。一番楽しい部屋にしような。よろしく頼むよ。貴女もだ、いい旅行にしよう」

 高橋さんはそう言うと、手を振って出入り口に向かっていった。その後ろに高橋婦人がついて行く。僕は小さく息を吐いた。身体が突然重たくなったような気がする。旅行中、彼はずっとあの調子で話しかけてくるのだろうか。一人になりたくて、ゆっくりと考え事をしたくて一人海外に出てきたはずなのに。

 視線を戻すと、僕だけでなく、目の前の彼女の表情もずいぶんと険しくなっていることに気づいた。

「ねえ、お願いがあるの」と、真剣な目で彼女は言った。

「私たち、姉弟ってことにしてもらえないかな?」

「え?」

「ほら、どことなく似ているような気がしない? すっとした目元とか、小さめの唇とか。身長も平均よりお互い高いし、ね?」

 しばらく、うまく答えることができなかった。夢の中でだってこんなお願いはされたことはない。ぼくは慌てて反論の言葉を紡ぐ。

「いや、それは、どう考えても無理だと思いますよ。僕にはそんな嘘を突き通す演技力なんてないし、第一、成田空港で顔合わせをしたときに、もう一人旅だって自己紹介してますよ。名前もそのときに言ってますから」

「生き別れていた姉弟ってことにすれば、問題ないんじゃないかな? 両親の離婚を機に。そうすれば苗字が違うことは当然だし、最初は別々であることも納得がいくわ。それに、明日から始まるシベリア鉄道の旅の前夜にこうやって二人で会話をしているのも、とっても自然なことになるし」いささか、ロマンティック過ぎる再会のような気もするけど、と彼女は付け足した。

 この人はいったい何を言っているのか。

 困惑する僕を見た彼女はホテルのレストランを見渡した。パックツアーのメンバーの多くはここで夕食をとっている。時々、視線を感じることは自覚していた。確かに、今こうして二人で食事をしていることがすでに目立っていた。わざわざ声をかけにきたのは、高橋夫妻のみであったけれど。

「いや、でも。今回僕は一人きりになりたくて、わざわざ海外まできたんですよ。僕にだって僕の都合がありますよ」

「そこは、むしろ利害が一致すると思うのよ。彼らは私たちと仲良くなりたがっているでしょう。私たちが感動の再会を果たした二人であれば、気を使って、きっとあまり声をかけてこないと思うの」

 僕はややこしい問題に巻き込まれたくないことを言っているのに、彼女は気づいていないみたいだ。彼女は高橋さんに声をかけられたくないのだろうか。ただ、さっきの口ぶりでは、高橋さんも彼女のことをあまり知らない様子だったけれど。僕が黙っていると、彼女も黙りこんでしまった。そしてふうと小さく息を吐いた。

「こんなことってあるのね。もう二度と会うことがないと思っていた人に、こうやって会うことになるなんて」

 彼女は、悲しみと困惑が共存したような表情を浮かべた。

「さっぱり、話が見えないですよ。姉弟のフリをするだって? いったい何のために?」

「それは、ちゃんとおいおい説明するわ。私だって、むちゃくちゃなお願いをしているって自覚はあるのよ。本当に、これが正解なのかもよくわからないし」

 申し訳なさそうな表情から、この人が本当に困っていることは間違いがなさそうだった。

「なるべく、迷惑はかけないようにするわ」と、彼女は両手を合わせて、再び見つめてきた。しばらくの沈黙の後、

「まあ、それなら」と僕が言うと、彼女は目を見開いた。

「ありがとう。迷惑をかけないようにするのは、なるべく、だけどね」と彼女は言い、笑みを浮かべて右手を差し出してきた。

 彼女の手のひらはほんのりと温かく、そしてその握る力は力強くもあった。短い握手を終えた後、彼女は僕の一人旅の理由を聞いてくることもなく――彼女自身の一人旅の理由も語ることもなく、ホテルのレストランを後にすることになった。

 部屋に戻ってからも、僕の手のひらには彼女の温もりがはっきりと残っていた。ベッドに横になり、静けさを感じる。腕時計を見るとモスクワ時間で十三時をさしていた。ロシアは世界最大の国のため、国内で最大十時間の時差がある。ウラジオストクとは七時間の時差があるため、いまは二十時だった。

 英語がほとんど話せず、そのためバックパッカーをする勇気も生まれずに、結局はパックツアーを選んでしまった。とはいえ、少なくとも静かな一人旅になるであろうと思っていた目論みが、こんなに早くも崩れ去るとは思ってもみなかった。

 僕は身体を起こして部屋のカーテンを開けた。部屋は九階で、ここから見えるウラジオストクの街並みは輝いていた。窓を開けると、季節はまだ秋なのに、冷たい空気が身体にはり付くようだった。僕はそのままコートを着て、部屋を後にした。

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