咲む雫 3
「骨が折れるな。海をまたいで人探しか」
ゲルトが焼いた小魚に頭からかじりついた。ティズが見よう見まねでそれに続く。
最寄りの港で応急の修理を済ませた船は、予定から数日遅れて西の大陸に到着した。船長はリセアとゲルトに謝礼として小さな金の袋を渡した。
「坊主は生き別れの兄貴、お嬢さんは――」
「親の知り合いを」
「なるほどな。しかし用心した方がいい」
リセアは目を上げる。脳裏で氷の欠片が鳴った。
「魔法使いを狙った殺しさ。アズリッツァを出るちょっと前にも、トルドノの近くであったそうだ」
「トルドノって……」
ティズがつぶやく。
「家は」
リセアはゲルトの灰色の瞳を見つめた。
「家は燃やされたか?」
「あ? ああ、そういえばそうだったな。死体も骨の欠片ぐらいしか見つからないって噂だから、相当な火の手だったんだろう」
リセアの視界に炎が立ち上がる。あの日、本棚を、天井を、床に広がる血を染め上げた、誰かの腕の中から垣間見た炎。誰か。父か、母か? 違う。二人はあの時すでに――。
「なんだ、お嬢さん」
「――え?」
ゲルトがリセアをまっすぐに見返していた。
「俺に惚れたか?」
リセアは視線を窓の外へ放り出した。背の低い民家の間に、夕闇に沈む海がのぞいていた。
「ゲルトには奥さんがいるのか?」
ティズが小魚を次々と口に運ぶ。
「いや、独り身だ。妹ならレウァンツにいる――ここからすぐの大きな町だ」
「へえ! なあリセア、遠回りにならないなら寄ってみないか?」
ティズの方を向いた拍子にあばらが痛み、リセアは眉を震わせた。
「蛸にやられたんだろう。折れてはいないだろうが、悪くならないとも限らん。妹に診せるといい」
ゲルトが酒の杯を傾けた。
三人は食堂の二階に部屋をとって休み、明け方に出発した。灰色がかった空と海の境が淡い金色に燃えていた。西に進むと、葉のない森を従えるようにして市壁の影があった。リセアは一歩ごとに呻くのをこらえた。服越しに触れても腫れているのが分かる。
「やっぱり痛いのか?」
ティズが眉尻を下げる。
「急ぐこともない。休みたいならいつでも休める」
ゲルトも振り返って言った。リセアはかぶりを振る。自分の声さえ響いて痛みを生むようだった。ティズが軽く咳払いをしてから口を開く。
「ゲルト、妹さんは医者なんだよな」
「まあ似たようなもんだ。よくできた奴さ、ハンネは。二人で右も左も分からんレウァンツに引っ越したが、仕事もこなすし家もしっかり守ってる」
「俺も兄さんとは仲良しだぞ。兄さんが俺を育ててくれたんだ。遊び相手にもなってくれた。毎日森で走り回ったんだ」
「ずいぶんとわんぱくな兄弟だな。森で狼なんかに出くわさなかったか?」
リセアの視界の隅で、ティズの鼻がかすかに引きつった。
「安全なとこだったから――それに兄さんは強かったし」
「そうか。それなら安心だな」
ゲルトが目を細めて笑った。
リセアはその後も二人の話を黙って聞いていた。様子をうかがうティズと時々目が合った。途中で短い昼食を済ませ、日が傾いて少し経った頃にレウァンツの門をくぐった。変わらずゲルトが先頭に立ち、人混みを縫って二階建ての住居にたどり着く。大通りから外れた静かな界隈だった。階段を上って扉を開けると同時に、人影が間仕切りの向こうから顔をのぞかせた。
「どうぞ、お入りくだ――あ、兄貴っ!」
スカートを軽やかに揺らして駆け寄り、ハンネがゲルトに飛びついた。ゲルトが腕を回して受け止める。
「元気にしてたか?」
「はい! 兄貴も怪我はありませんでしたか? 治しましょうか?」
「大丈夫さ、このとおり」
「安心しました。ふふ、お帰りなさい!」
頬をすり寄せた後、ハンネがゲルトから離れる。それから扉を背に立つリセアとティズに目をとめた。
「兄貴、お友達ですか?」
「行きずりの仲間ってとこだな。アズリッツァで知り合った」
「まあ、そうなんですね! 兄がお世話になっております。ハンネといいます」
ハンネが栗色の瞳をきらめかせる。リセアとティズも続けて名乗った。
「さあ兄貴、お土産話を聞かせてください。よければリセアさんとティズさんも!」
「そうしたいが、まずはお嬢さんを診てやってくれ」
途端にハンネの口元が引き締まった。ゲルトがティズを振り向く。
「な、なんだ?」
「ティズさん、ちょっとだけ待っててくれますか? リセアさんはこちらに――ああ、お代は頂きませんよ! 兄貴のお仲間なんですから」
ゲルトがきょとんとしたままのティズを促す。リセアに向き直ったハンネが、間仕切りの陰にある台を指差した。
「上着をお腹まで脱いで、そこに寝転がってください」
リセアはベルトの上まで服をはだけ、台に身を横たえた。間仕切り越しにティズとゲルトの声が聞こえる。
「兄貴から聞いたかもしれませんけど、」
ハンネが草をすりつぶし、汁を手のひらに伸ばした。青い匂いが鼻をかすめた。
「この町では魔法使いもそうでない人も、みんな同じように暮らしてるんです。兄貴も私も術を使ったところで石を投げられたりしないし、堂々と魔法使いとしていられます。きっとリセアさんも過ごしやすいはずですよ」
「なぜ分かった」
リセアは問う。ハンネが首を傾けて笑った。巻き毛が軽やかに揺れる。
「なんとなくですけど、そんな気がして。――それじゃあいきますよ。一瞬だけ痛いですけど、我慢してくださいね」
「ああ」
リセアは天井を眺めていた。
「えいっ!」
脇腹にハンネの手のひらが触れる。その瞬間、船で味わったものと同じ痛み、そして肺がつぶれるような衝撃が走って消えた。
「はい、終わりましたよ」
ハンネが朗らかに告げた。リセアは脇腹にそっと触れる。腫れが消えていた。軽く押したが痛みもない。
「骨が折れかけてたみたいです。完全に治ったわけではないので、三日ぐらいは激しく動かないようにしてくださいね。あと腕も診ておきました。こっちはきれいに元どおりですよ!」
「ありがとう」
リセアは胸元の紐を結びながら言った。
「いえいえ、このくらい朝飯前ですから」
ハンネが両手を振り、輝くような笑みを広げる。
「さあ、旅のお話を聞かせてくださいな!」
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