黒狼吠ゆ 2
リセアは固唾を呑むティズの気配を感じつつ、左手を像へと伸ばした。そして指が像の鼻先に触れた瞬間、口が開いて手に食らいついた。衝撃、ついで太い釘を何本も振り下ろされたような痛み。
「ぐっ!」
「リセア!」
ティズが身を乗り出す。リセアは右手でそれを制した。
とっさに手を引こうとしていたのか、肉が裂かれたように痛んだ。脂汗がにじむ。像が幅の広い舌で指先から手のひらまでを舐め、やがて満足したとでも言いたげに口を開いた。手には一つの傷もなかった。
男が像の頭に手を載せる。その途端、水晶の目が赤く濁った。リセアは膝の上で手の甲をなでる。
「――ふむ。なかなか厄介ですな」
舌の根に水晶を転がしながら男が言った。
「さて、記憶を見晴るかしましょう。なんでも問うとよろしい」
「ニオヴェは何者だ?」
「父をよく訪ねてくる男」
「理由は? 父とどういう関わりがある」
「父が会うのを望んでいたように見えます。友ではありませんが、信じ、頼っているようですね。少なくとも父は」
「では――あの夜、私はどうやって生き延びた? 伯父さまに助けられるまでに何があった?」
男の歯と水晶が音を立て、像の左目で赤が揺らいだ。
「知りません」
少しの沈黙をおいて男が言った。リセアは眉根を寄せる。
「あなたの知らないことは私の知るところでもありません。あなたはそれを記憶したことがないか、あるいは記憶を根こそぎ失ったということになります。これが厄介なものということです」
像の眼の奥で幻の血が沸き立ち、黒ずんで消える。男が水晶を吐き出し、袖口でぞんざいに拭う。
「記憶を失ったということは、大きな怪我か、あるいは――」
男が唸った。
「魔術に長けた者は、記憶を消し飛ばしたり封じたりすることもできると聞きます。その術を受けたのやもしれませんな。お心当たりは?」
「ない」
リセアは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。男は尖った顎を何度かしごいたきり、何も言わなかった。
手元に情報がないならば、やはり知りうる者をあたるしかなかった。当てはまるのは思いつく限りただ一人。リセアは名前を思い浮かべる。ベノシュとイゴルの弟であるオルダという人物。顔を合わせた記憶もなく、人となりも詳しくは知らなかった。ただ聞いた覚えがあるのは、三兄弟のうちで最も賢く、学都と呼ばれる町で魔術の研究に携わっているということ。
金を払って外へ出た。空はいよいよ雨模様だった。
「心当たりがないって言ってたけどさ、」
草を踏み倒してティズが歩く。
「なんていうか……それ、本当なのか?」
リセアは言葉に窮した。ベノシュを疑いたいわけがない。その一方で、疑わないでいることができないことも分かっていた。
「ベノシュ伯父さんも魔法が使えたんだよな? もしかしたら、記憶をどうこうっていうのも伯父さんが――」
「黙れ」
リセアはティズを睨み、しかし二の句に迷う。ティズの目が怯えるように見開かれていた。
「――それ以上言うな」
声を抑え改めて告げる。ティズが詫びを口にして、大きな背中を丸めた。
互いに口を閉ざしたまま歩いた。町に着く頃には小さな雨粒が落ちはじめていた。リセアは後方に気配を感じ、振り返らないまま宿に入った。荷物を置いて間もなく、兄を探してくると言ってティズが立ち上がり、リセアは無言で見送った。それからしばらくして部屋の外で声がした。扉を開けると宿の主人が顎で玄関を示した。
「お客さんがおいでですよ。外でお待ちだそうで」
リセアは雨よけに外套を着た。宿が面する路地に人気はなく、窓からこぼれる明かりもまばらだった。雨音と湿った臭いのなか見回すが、それと思しき人影はない。踵を返しかけた時、景色が明滅した。首を絞められていると分かった時には建物の陰に引きずり込まれていた。巻きつく太い腕に爪を立てるが、力が徐々に失せてゆく。背後か、それとも遥か遠くか、雨音に紛れて声が低く交わされる。視界がぼやけ、意識が暗い海に浮き沈みする。ばたつかせる脚に細い何かが絡みついた。蜘蛛の糸が蔦のように巻きついていた。上へともがく指の間を水が虚しくすり抜ける。糸の源で赤い光がせせら笑う。七年前に刻みつけられた忘れようのない声。リセアは黒い泡を吐いて絶叫した。
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