異聞録・本能寺の変

イトー

前編

 その大軍は川を前にしたところで、その歩みを止めた。

 まだ夜の闇は帳を落とし、兵達は少しうんざりしたかのような顔でひそひそと言葉を交わしている。

「このようなところで止まってどうすんだ?」ひとりが隣に尋ねる。

「さてな」聞かれた者は答えた。初めから答えなど知るはずもない。

 その時号令がかかった。

「皆の者、よく聞けい!我らはこれより京の本能寺へと向かう!」

 おおっ!という声が挙がり、大軍は再び動き始めた。

 天正六年、六月二日早朝の出来事である。

 

 時は遡る。

 五月十五日

 明智光秀はこの日より、主君・織田信長より徳川家康の接待を任されていた。しかし当日になって、信長の元に備中高松城を攻めている羽柴秀吉より書状が届いた。それは、高松城の城主である清水宗治をはじめとして、農民までもが頑なに籠城をして攻めあぐねているというものだった。

 信長は書状を読んで一笑に付した。

「あの禿げ鼠めが…この程度で弱音を吐くなど戯れ言が過ぎるわ。成利、光秀を呼べ」

「上様、明智様はただいま徳川様の接待中にございます」森成利は即座に答えた。

「構わぬ」信長は意にも介さずに答えた。こうなっては誰も意見できるものはいない。


「何と仰せに?」光秀は少し驚いたように信長の言葉を聞き返した。

「猿が戯けた書状を寄越した」信長は書状を放った。光秀は拾い上げて目を通す。

「羽柴殿が手こずるとは余程のことでございますな」

「儂に落城の時を見せたいという奴の茶番かもしれぬが勝家は上杉、一益は北条と動きは取れぬ。信忠も考えたが早々と終わらせるなら光秀、お主が適任だ。無論、儂も志気を上げるために出向かなくてはならぬが、家康殿のこともある」信長は体を乗り出してさらに続けた。

「それとな、武田が滅んだ今、お主の兵を遊ばせておくのも勿体なかろう。備中が済めば毛利は後が無くなる。されど、その先にいる島津も倒さねばならぬ。そこでだ、今は毛利の所領ではあるが、出雲、伯耆 ほうきもしくは石見 いわみをお主に任せる」

「何と…国替えせよと仰せですか」光秀は愕然とした。

「そうではない。今の所領はそのままで構わぬ。儂とて戯れにお主に丹波や近江を任せたわけではない。猿にはお主と入れ替えに戻るように伝えを出す」

「毛利と島津攻めを私めにお任せくださると…」

「おうよ、金柑頭のお主なら領民をうまく手なずけるのもわけなかろう」信長はにやりと笑った

「はっ!ありがたき幸せ。坂本に戻り、急ぎ支度を整えます」光秀は笑みを返して礼をすると早々に去っていった。

「成利、猿に伝えを出せ。毛利側が籠城しておるならそうそう打っては出てこまい。おう、それと家康殿には接待役の代わりを忘れるでないぞ」

 五月十七日、光秀は安土を出て坂本へと戻った。


 五月二十六日

 坂本に戻った光秀は、十日の間に丹後の長岡藤孝、大和の筒井順慶らに留守の間の近畿一円の警戒などを頼んだ。信長と嫡男・信忠が後から来るとなれば手薄になるからだ。

 そして、光秀は近江の丹波亀山城に入り出陣の準備を整えた。

「羽柴様への加勢とは上様も人が悪い」三宅弥平次はぼやいた。

「言うな、弥平次。此度の出兵はお館様が上様に信頼されている何よりの証」斎藤内蔵助が答える。

「されど…」弥平次は言い淀んだ。

「ほれ、さっさと行くぞ。お館様は愛宕大権現様に参られるそうだ」

 城内は出陣の準備でざわついていた。鎧や刀の擦れ合う音、留守を預かる者たちから出陣する者達への激励…ところ狭しと色々な人間が慌ただしく動き回っていた。

 光秀の所領である丹波・近江は近畿における重要な地域である。信長の居城である安土城は琵琶湖を背にしており、その周辺地域である丹波、近江、さらに丹後、大和の総合指揮権は光秀にあった。また信長麾下の武将としては初めては城主として坂本城を任されているため、光秀に対する信長の信頼は揺るぎない。秀吉の毛利攻め支援の話も光秀にとっては意外ではあったが、手柄を立てられる前線に赴くのは更なる地位の向上に他ならない。


 愛宕大権現への道すがら、馬上の光秀は空を見上げ、感慨深げに呟いた。

「羽柴殿は野心が過ぎるのだ」

「何か仰られましたか?」内蔵助が尋ねた。

「うむ、羽柴殿のことだ。羽柴殿が苦戦とはそうそう聞いたことはない。水攻めの城に毛利の援軍が来ようと早々しくじることは無かろう。儂が思うに、上様を呼んで志気を上げたいだけではないかと、な。派手なことを好んでおるからなぁ」

「左様ですな、羽柴様には策士、黒田殿がおります。恐れながらあのお二方ならお館様に双璧を為す知恵を絞り出すかと」

「ふふん、内蔵助、言うようになったな」光秀は笑った。

 愛宕山を訪れた光秀は、威徳院で愛宕百韻を催した。光秀にとって戦いの前に少し心を落ち着けたかったのだ。備中を攻め落とせば、強敵である毛利氏の懐に飛び込むことになる。

 毛利氏の結束とその強さは当然ながら光秀も知っていた。そして秀吉の苦戦…懐疑的な見方をしてはいるものの、裏を返せば信長を呼んで一気に潰しにかかりたいと思うことも確かだった。

 何よりも信長は時に自ら刀を振るうこともあった。石山合戦で光秀が窮地に立たされた時は、敵一万五千に対してわずか三千の兵で助け出されたこともある。

 光秀は静かに歌を詠んだ。それは静かに降る雨、そして中国出陣へ賭ける意気込みだった。

 

時は今 雨が下しる 五月哉

(ようやく時が来た。五月の雨と共に(中国に)参ろう)

 

水上まさる庭のまつ山

(水に沈んだ城を越えれば、私の庭(領地)が待っている) 


 五月三十日

 愛宕百韻を終えた光秀は丹波亀山に戻り、出陣の最終準備を整えた。

「いよいよですな」弥平次が言った。

「うむ」光秀は頷くと並び座った将兵に向かって声を張り上げた。

「明朝出陣!良いか皆の者、抜かるなよ!」

「おおっ!」将兵達の声が城内に響き渡った。


<後編へ>

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