第276話 フルスロットル

 ゴムボートは徐々に傾き、それに比例して速度が落ちてゆく。

 俺は必死に電動モーターの出力を上げる。

 それと同時に、非常用の救難信号をオンにした。


 これで非常事態が発生したことは無線で仲間に届くと思うが、港の船倉からここまでは、通常の船外機を搭載した『仙廻船』一号艇でも、辿り着くには三十分以上かかってしまう。


 なんとか、俺達は足羽島から数百メートル離れて、鉄砲の弾が届く範囲からは逃れたと思うが、背後から大きな声が聞こえてくる。

 振り返ると、数艘の手漕ぎの船が追ってくるのが確認できた。


「……拓也さん、どうしよう……泳いで逃げようか?」


「……いや、いくらなんでも、10キロ……二里半以上以上離れているんだ、阿東藩の海岸までは辿り着かない。足羽島に戻るのは自殺行為だ……アクアラングでスキューバダイビングしてごまかすのも、限度があるか……」


 そう言っている最中に、電動モーターは完全に停止してしまった。

 慌てて何度も操作し直すが、復旧しない。

 島の方を見ると、もういくつもの手漕ぎの船が、かなり迫ってきているのが見えた。


 俺だけならば、ラプターを利用して現代に時空間移動することができる。

 しかし、そんな事をすれば、残された薰はどうなるのか。

 今度こそ、男共の慰みものにされ、さらに厳重に監禁され、命を奪われるかもしれない。


 それが分かっていて、俺だけ逃げるような訳にはいかない。

 そう悩んでいるときに、また、パーンという乾いた音が響いて、俺と薰は同時に肩をすくめた。


「……鉄砲を持って追ってきているのか……まずい、このままじゃあ追いつかれる……」


 必死に対応策を考えるが、持ってきている荷物もすでに海水をかぶり、その多くが使い物にならなくなってきている。


「……しかたない、一時凌ぎにしかならないかもしれないが、もう一度海中に潜って、酸素が続く限り進んで、後はなんとか泳ぐしかないか……」


 一応、緊急用のライフジャケットは持ってきている。それも、この時代で使っても違和感がないように、わざわざ目立たない色に着色したものを、予備も含めて二つだ。

 これさえ着用すれば、溺れることはないかもしれない。後は潮の流れに任せるのみになる。

 とりあえずそれを長い紐でつないで海上に浮かせ、スキューバダービングで引っ張るようにして進めるだけ進んで、限界となった時点で浮上し、そして体に着用して漂流する……。


 なんとも行き当たりばったりの作戦だ。

 そもそも、不自然に浮いて移動するライフジャケットが見つかった時点で、それを追ってこられるのではないか……。


 いっそ、最初からライフジャケットを着込んで、泳げるだけ泳いでみるか……。

 しかし、既に空は白み始めている。目が良いと思われる海賊達から逃れるのは、不可能に近い……。

 絶望的な思いに駆られている、まさにその時だった。


 ヒューッ、という、何かが高速で飛行する音、ついでパーンという、鉄砲とはまた違った破裂音。それが、二発、三発と続いた。

 驚いてそちらを見る。

 すると、島とは反対の方角から、明け始めた夜空を切り裂くように、幾筋もの閃光が音を立てながら迫ってきているではないか。


「な、何……向こうからも攻撃がっ!?」


 さらに怯える薰。俺にしがみついてくる。


「……いや、違う。援軍だっ! 三郎さんが『仙廻船』で助けに来てくれたんだっ!」


 俺のテンションが一気に上がる。

 甲高い4ストローク船外機のエンジン音が、心強く俺の耳に届いた。

 そして続けざまに、ヒュン、ヒューッ、ヒュンと幾本もの光の筋が迫り、俺達の頭上を飛び越えて、追ってくる手漕ぎの船の海賊達のいる付近に着弾する。


「……すごい、あれも仙界の兵器?」


「いや……あれは単なる虚仮威こけおどし、ロケット花火だ……でも、効果はあるみたいだ!」


 追ってくる四、五艘の船からは、わめき声や怒号が聞こえてくる。相当混乱している様子だ。

 それでも、パーンという鉄砲の音は聞こえる。対抗して発砲しているようで、俺も薰も低い姿勢をとり続ける。


 そうしている内に、ものの数分で、『仙廻船』はもうほとんど沈みかけているゴムボートまで辿り着いてくれた。

 乗っているのは忍装束を身に纏った三郎さん一人。そして彼は、笑顔だった。


「……無事、薰を救い出したか。さすが拓也さん、見事な手腕だ。けど、やっぱり無謀が祟ったみたいだな……間に合ったようでよかった」


「ええ、本当に助かりました! でも、思ったよりずっと速かったですね?」


「ああ、念のために、船外機の音が聞こえるかどうかのすぐ近くまでこっそりとやって来て待機していたからな……まあ、積もる話は後だ。さっさと脱出しよう」


「はい、分かりましたっ!」


 俺も薰も、急いで『仙廻船』に乗り移る。

 その際にも、パーンという発砲音が聞こえ、それに驚いた薰は持っていたアルミブランケットを海に取り落とした。


「あっ……」


「ど、どうしたっ! 弾が当たったのか!」


「ううん、そうじゃなくて、あれ落っことした……」


 薰は、全裸になったことよりも、俺から渡されたブランケットを落としたことを気にしたようだった。


「そんなの、放っておいていいから! 俺もゴムボートと荷物は全部あきらめてる! 三郎さん、出してくださいっ!」


「分かった……飛ばすぞっ!」


 三郎さんはフルスロットルで『仙廻船』を走らせた。

 ゴムボートの倍以上の速度で、みるみるうちに手漕ぎの海賊船を引き離した。


 ――数分後、ようやく落ち着いたところで、三郎さんは自分が着ていた忍装束の上着を脱いで、俺に手渡してくれた。

 俺はそっと、それを薰にかけてあげた。

 彼女は、それまでずっと全裸だったことを思い出したようで、急に赤面したが、


「……ありがとうございます……本当に……本当に助かりました……」


 と、俺と三郎さんに小さくお辞儀する姿は、なんとも可愛らしいものだった――。

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