あかね

轂 冴凪

あかね

今からお話いたしますのは、私の大切な、大切な親友のお話です。

彼女は、あかねは、あの年の夏祭り、神様の下へと嫁いでいきました。



 家庭の事情と言うもので、私は中学生と呼ばれるようになって二度目の春を、母親の実家のある街で迎えました。

 ああ、どうか街の名は訊ねないでください。彼女との大切な思い出が詰まったあの街を、あのやしろを、好奇の目にさらしたくないのです。

 あの自然豊かな小さな街と比べれば幾分都会から来た私の事を、新しい中学のクラスメイト達はみな遠巻きに見つめているのがわかりました。私は私で、その当時は心も金銭面も余裕がなく、あてがわれた教室の一番隅の席で、なるべく目立たないようにと小さくなっていました。虐められることもなく、さりとて構われることもなく。淡々とひと月が過ぎました。

 風薫る五月、私と茜は親友になりました。

 その日のことは今でも思い出せます。窓際の最後列という、今思えば特権のような席で、ぼんやりと窓の外を眺めていました。そこに茜が寄って来て、声をかけてくれたのです。

「ねえ、あなたのお名前、天音あまねと言うのでしょ。私と一文字違いなのね」と。

 その一言がきっかけで、私はあのクラスで居場所を見つけたようなものです。茜は、得体のしれない闇へ沈みかけていた私を、明るい世界へと救い上げてくれました。丁度、金魚すくいで掬われ大切に持ち帰られた、金魚のように。私は新しい水槽で、新たな世界を見ることができるようになったのです。

 茜はクラスの中心という訳でもなく、特別お洒落でも、運動が特別できるわけでも、話が特別うまいわけでもありませんでした。小さな街の小さな公立中学校に居る、わずかに切れ長な茶の瞳と林檎のような赤い頬、柔らかそうな唇を持った、ごく普通の女の子でした。けれど、周りの子とはほんの僅か違う、どこか古めかしい、年に似合わない大人びた言葉遣いをしておりました。そしてほんの少ぅしだけ、唐突な物言いをする少女でした。

 彼女を際立たせるもうひとつは、つややかで長い黒髪でした。もう少しで腰まで届くという絹のような髪を、彼女はいつも、高く一つに結っていました。

 そして何よりも、不思議な存在感――あれは俗に言うオーラなるものだったのでしょうか、とにかく、人とは違う特別な空気を彼女は纏っていました。それは彼女を神秘立たせるような、彼女に触れることをためらわせるような、何とも説明のし難いものでした。

 私たちは時間が許す限り、ずぅっと一緒にいました。休み時間も、帰り道も。塾など通う子の方が少ない街でしたから、私たちは学校帰りものんびりと、小さな商店街を冷やかしたり、互いの家に遊びに行ったり、時には図書館で教え合いっこをしたり、そうして楽しい毎日を送っていました。当時ふさぎ込んでいた母も、茜が家に遊びに来てくれる度に、少しずつ笑顔を取り戻していくようでした。夏休み前のある日、久方ぶりにパウンドケーキを焼く母の姿を目にしたとき、私は思わず茜に抱き付いていました。

 どうしてか、当時私が可愛がっていた猫のタマだけは、茜に懐きませんでした。けれどもそんなタマの様子を見て、茜は綺麗な笑顔を見せていたのを思い出します。

 そうして、楽しい一学期はあっという間に過ぎ去り、あの夏休みがやってきたのです。



 私と茜は、八月の終わりに行われる、あの辺りでは有名な神社の夏祭りに行くことを約束しました。私と茜の二人だけで――もちろんクラスメイト達も行くとは言っていましたが、ここでは、心配性の母に付き添われたくないという意味でした――祭りに行きたいと懇願した私に、母の出した条件は、その日までにすべての宿題を終わらせることでした。八月の中ごろまでには宿題を終わらせていた私の様子は、想像に易いでしょう。

 母から新しく出された、遅くなりすぎずに帰ってくること、生き物は買わないこと、怪しい場所には足を踏み入れないこと。この条件を軽く聞き流しながら、祖母に浴衣を着つけてもらい、私は意気揚々と茜の家へと向かいました。恐ろしさを覚える程に夕焼けが美しく、私は茜の色だ、と呑気に思いながら、からんころんと下駄を鳴らしていました。

 茜は、門の前で待っていました。白地に赤のしゃぼん玉を散らした浴衣と、合わせるように鮮やかな茜色の帯。遅れた事を詫びる言葉すら出て来ず、私はただただ目を奪われていました。

「茜さん、……とても綺麗ね」

 そう声をかけるのが精いっぱいでした。私たちは、親友の契りを立てていたその当時でも、さん付けで呼び合っていたのです。呼び捨てることをためらわせるような空気を、彼女は持っていたものですから。

 胸が詰まって、苦しくなるほどに愛おしい彼女を、見つめているのさえ許されないような気がして、私はほんの僅か、空へと視線を逸らしました。視界の隅では、しっとりとした黒髪を、紙ひものようなもので、後頭部で緩く結んでいる茜の姿が伺えました。私の髪は当時、肩につくかどうかの長さでしたので、今日こそは茜にそろえようと高く結いあげてもらったのですが、後れ毛がひどく、髪飾りで何とか誤魔化しているようなていでした。

「ありがとう、天音さんも、とても素敵。何て綺麗な天色。天音さんに良く似合っているわ。本当に、貴女の色ね」

 茜の返事は、確かこのようなものだったと思います。私がその時着ていたのは、淡い青地に朝顔をあしらった浴衣に、黄色の帯を合わせたものでした。こんなに褒められたことなど今までの人生に無く、私はお恥ずかしながら、道端にも関わらず赤面してしまいました。

「茜さんが――天色あまいろがお好きと言っていたから」

 何とか言葉を胸の奥から絞り出すと同時に、学校の屋上での思い出が蘇りました。私と茜の名前が一文字違うだけではない、もう一つの共通点。

 私たち、どちらも名前に色が含まれているのね。茜はそう言いながら、図書室で借りてきた色の事典を開き、「あまいろ」という色を見せてくれました。それは秋の空のような、水色には少し哀しくて、青にはなり切れない、まるで今の私をそのまま体現した色でした。

 私、この色、大好きよ。そう微笑む茜に、私も茜色が大好きよ、と、身を乗り出しながら答えたように思います。それ以来、茜は赤、私は青を身に着けることが多くなりました。

 思い出に揺蕩っていたのも、ほんの一瞬でした。茜の華やいだ笑顔が眼前ではじけ、私は何も、考えられなくなりました。

「嬉しいわ、天音さん。私も茜色を探したの。貴女が好きだと仰ったから」

 大切な親友にそんなことを言われて、喜ばない者がどこにありましょう。何と返事をして良いかと言葉を探しているうちに、茜が私の手を取ってくれました。

「さあ、行きましょう」

 丁度その時、茜の家からは、お母様が顔を出しました。私はお母様に頭を下げて、茜は無邪気な笑顔で手を振って。そうして私たちは、手をつないで、神社へと向かいました。手のひらが汗で湿っていないか、力は強すぎないか、そんなことを気にかけてばかりで、かちこちになっていたと思います。

 祭り会場は、小さな街にもかかわらず、盛況でした。街中の人が集まっているのではないかと思うほどに。広くない境内の、参道の両側には縁日が立ち並び、参道は端も真ん中もないと言わんばかりに、人が往来していました。昼から行われているはずの祭りは、あの時間に丁度、最も盛り上がっていたのでしょう。

「ねえ天音さん、迷子になったら、あの杉の木の下で落ち合いましょう」

 そう言って茜が細い指で示したのは、本殿の横に立つ、立派な杉の木でした。しめ縄が施され、宵闇にすくりと立つ姿は、まるで守り人のように心強く見えました。

 私は、りんご飴に目を引かれました。当時から、甘いものが大好きでしたので。薄暗くなった空気の下で、屋台の豆電球に照らされた紅の飴は、茜の色に輝いていました。私は思わず飴を一本、手に取っていました。もうお小遣いを使うの、と横で茜がからりと笑っていて、私はなんと申して良いのやら、黙って財布から小銭を取り出していました。りんご飴は袋に入れてもらい、手首から下げて、私たちは再び連れ立って歩き出しました。

 本殿へ向かおうとしたとき、クラスメイトの姿を見つけ、私は茜に声をかけようと振り向きました。けれど彼女は、横に居りませんでした。どこに行ったのだろう、と後ろへ振り返ると、そこにはある屋台の前で佇む、茜の儚げな姿がありました。

 それは屋根もない、普通に歩いていれば気づきそうもない屋台でした。何せ、私も最初は見落としていたのですから。地面に蓆が敷かれ、小箱に白い布をかぶせたような小机がちょこんと置かれており、その上には、白塗りに朱で化粧が施された、狐のお面が3つほど、並んでおりました。

 ところが、茜の眼は、お面ではなく、売り子の方へと向いていました。小さな木の椅子に腰かけ、狐のお面をかぶった、顔の見えない方。白の着物に黒の袴姿で、面の後ろからは短い白髪が飛び出していました。おじいさんなのかしらとも思いましたが、膝の上に置かれた手はごつごつとして男らしくもみずみずしく、まだ若い男性であることが伺えました。その方もくいと顎を上げて茜の顔へと面を向け、まるで二人は、恋人同士のように、見つめ合っておりました。

 茜さん、と呼びかけようとした私の声が、喉もとで引っかかりました。ああ、これは邪魔をしてはいけない、二人の世界なのだ、と頭の片隅で悟ったのです。一目ぼれなのか旧知の仲なのか、街に来て数か月の私には判断のつきようもなく、ただ、茜が自分の知らない世界を持ちあわせていたことを知って、心の臓がひんやりと冷たくなりました。

 茜がどこかへ行ってしまう。私の知らないところへ。そう思い、無意識に一歩を踏み出していました。その時です。踏み出したその右足の鼻緒が、ぷつりと切れたのです。

「あっ」

 と、声が出てしまいました。途端に茜は振り返り、私の姿がようやく目に入ったのか、駆け寄ってきてくれました。

「大丈夫、天音さん。……まあ、鼻緒が切れたのね」

 心配そうな顔を見せる茜に、私は何と答えたか、覚えておりません。ただ茜に促されるまま、細い肩を借りて、参道を外れた、裏の森に近いあたりへと移動しました。

 焼きそばの屋台と狐の面の屋台には少し隙間があり、私たちはそこを抜けることにしました。通り抜ける刹那、ちらりと私は、あの狐の面の男性へと視線を送りました。男性は私の視線など歯牙にもかけず、ただ真っ直ぐに前を見つめておりました。横顔も面で隠され、伺うことができずじまいでした。面の横に描かれた、くるりと巻いた朱の髭は、今でも思い出せます。

「さあ、ここに腰を掛けて。なんてやくざな鼻緒でしょう」

 そう言いながら、茜は私を裏山と神社とを仕切る石塀に腰かけさせ、白い薄手の手巾と五円玉を、巾着から取り出しました。

「やくざ?」

「役に立たないもののことだそうよ。宮沢賢治の本で知った言葉なの。やくざな、という言い回し、何だか不思議な響きでなくて?」

 私は無知を恥じました。そうこうしている間にも、茜の細い指は手巾を裂いておりました。どこにそんな力を秘めていたのか、と思えるほどに、それは自然で滑らかで、力強い動きでした。

「さあ、下駄を脱いで。直してあげましょう」

 流れるような動きで、あっという間に、茜は下駄を直してくれました。足を通してみると、しっとりとしっくりと指の間に収まります。

 けれど、私はまだ立ち上がりたくありませんでした。参道の賑わいが遠く聞こえます。後ろに森を背負い、うす暗い闇の中で、もう少しだけ二人きりでいたかったのです。茜を独り占めしていたかったのです。それは心の中に巣食った、不安と焦り、寂しさ、茜は私のものだという独善的な想いからだったように、今となると思います。私の心の中が見透かされたのか、茜も急いて立たせることはしませんでした。代わりに、茜は整った唇を開きました。

「それじゃあ、もう少しお話をしましょう。ねえ天音さん、来週の天体観測会には行くのかしら?」

 それは街と学校が協力して主催し、参加者を募っていた、小さな催しでした。学校の屋上で夜半、星を見ようというもの。たしかその時は、丁度流星群が近づいていたのではなかったかしら。それに合わせて企画されたものだったように思います。

「お母さんが許してくれたらね」

 私はそう答えるにとどめました。今日だって、これほど条件を付けられてきたのですから。七月に、茜の家で彼女と彼女の姉と共に花火をしたときにも、家まで迎えに来ていたのですから。学校行事と言い切ってしまえば、多少母の心配も薄れるのかとも思いましたが、学校から持ち帰った書類には、しっかりと「任意参加」の文字がありました。

「そうだったの。天音さんと参加できれば、私も嬉しいのだけれど」

 茜はそう言って、ため息をひとつ、つきました。

「皆と一緒に天体観測だなんて、一生で何度もできることではないでしょう。天音さんの横で、夜空を見上げたいわ。きっと天色を水飴のように煮詰めて練ったような、深ぁく、美しい夜空なのでしょうね」

 その、ほんのわずか憂いを帯びた横顔を見て、私は、帰ったら母に頼み込もうと心に決めました。今すぐにでも走り出して母に懇願したい思いを、腹の中と喉元で押さえているうちに、茜は顔をさっと上げました。

「このお話はもう終わりにしましょう。――ねえ、天音さん。ファーストキスはもう済んで?」

 不意につづけられた言葉に、私は息を飲みました。茜の瞳が、真っ直ぐ私を見据えてくるのがわかりました。その瞳には冗談の色が点っていましたが、私は、その中に別の色を探そうとしていたように思います。

「いいえ、……まだよ」

 その言葉は嘘偽りではありませんでした。男性と話すことさえ恥ずかしいと思う私が、どうしてそのような行為に及ぶことができましょう。

「そう。私もまだなの。天音さんのような都会から来た方なら、もうとっくに済ませているのかと思って」

 茜が参道に目を向けました。その視線の先に、あの狐面の男がいないかと、私はついうたぐってしまいました。その儚げな横顔を両手で挟んで、こちらへと向けて、ぐいと顔を近づけてしまいたい、その唇の紅色に自分を重ねたいという衝動が、ほんの一瞬、私の中を走りました。ああ、何という小娘だったのでしょうね、私は。

 茜はとても鋭い子でした。あるいは、私が相当へんてこな表情をしていたのでしょう。振り向くとにこりと笑いました。けれど顔を近づけることはありませんでした。

 代わりに彼女はすぅと笑みを消し、綺麗な紅の唇で、そうだわ、とぽつりと呟きました。

「私、天音さんにひとつ、伝えておきたいことがあるの。とても大事なことよ、しっかりと聞いてくれるかしら」

 何を言われるのだろう、と私は、不安と期待で固まってしまいました。そして次に聞いた彼女の言葉は、……ああ、思い返すと、今でも胸が引き裂かれるようです。

「私がある時ふいと居なくなっても、どうか探さないで頂戴」

「なんてことを言うの」

 私は金切声のような高い声を上げたように思います。けれども茜は、取り乱す私に動じず、淡々と言葉を続けておりました。

「私が居なくなったら、神様に嫁いだのだと思ってね?探さなくて良いの、この世界にはいないはずですもの」

 気づけば私の両腕は、彼女の細い肩を掴んでいました。伸ばしきった腕で、抱き寄せることもできず、突き放すこともできず、手のひらにこめる力が次第に強くなっていくのを、他人事のように感じていました。

「天音さん、どうぞ落ちついて。約束してほしいの」

 茜の声も、耳を滑ってどこか遠くへ行ってしまうようでした。私は、嫌、いや、と駄々をこねる子供のように、何やら訳の分からぬ言葉を口にしていたように思います。

 茜は、そう、と言ったきり、黙り込んでしまいました。私は次第に冷静になり、彼女の気分を害してしまったのではないか、爪を立てるほどに力を込めていたために、肩を痛くしてしまったのではないか、と、不安が湧き上がる中、そっと腕を下ろしました。

「ごめんなさい」

 そうやっとの思いで伝えると、茜は寂しげな瞳で私を見つめてきました。

「貴女には、もっと早くに伝えておくべきだったのね。けれど、きっとそれはもうすぐ。私とあの方との、約束の時が近づいているの」

 彼女は、声を震わせることもなく、きっぱりと言い切りました。その言葉は私の中に真っ直ぐに染み込み、ああ、そうなのか、と不思議な納得をもたらしました。

「ひとつ、昔話をしても良いかしら。誰にも話したことはないのだけれど、貴女には、知ってほしいの」

 彼女の言葉を拒む権利など、私にはありません。私は黙って一つ、こくりと頷きました。茜の細く、しなやかで、少しだけひんやりとした手が、膝に置かれていた私の両手にかぶさりました。彼女の言葉を一言たりとも聞きもらさないようにと、体全部の神経を張りつめさせて、私は彼女へともうひとつ頷きました。

 彼女はわずかに小首を傾げ、考えを回すように、思い出すように、私の後ろの宵闇を見つめた後、話し始めました。



 私はね、天音さん。七つになった年、このお社で、不思議な出会いをしたの。家族はみんな、神隠しにあったといっているのだけれど。

 その日も夏祭りだったわ。まだ私とおねえちゃんは小さかったから、おとうさんとおかあさんと一緒に、昼先からこの神社に来て、見て回っていたの。おねえちゃんと水風船をどちらが多く釣れるかと競争したり、屋台の食べ物を食べたり。

 そうしているうちに、私は家族とはぐれてしまったの。どうしてだったのかしらね。おねえちゃんと手をつないでいたというのに。人ごみに押しつぶされてしまいそうで、私は、参道から逸れて、大回りで社殿の方へと向かったの。迷子になった時には、あの杉の木の下に来るように、両親から言われていたから。そう、さっき約束した、あの杉の木よ。

 杉の木の下には、見知った顔はだれも居なかったわ。きっとまずは、参道の来た道を探し回っていたのね。賑やかな様子を眺めながら、私はふと、ぐるりと社殿の周りをまわってみることにしたの。そんなことをすればもっと迷子になるって、わかっていたのにね。

 社殿の裏側を一人で歩いているうちに、境内に白くぼんやりと霧のようなものがかかり出したの。人の声も聞こえなくなって、水風船を持ちながら、ぼんやりと私は歩いていたわ。ずぅっとずぅっと歩いて、草履を履いた足が痛くなってきて、それでも境内は終わらないの。この道はどこへ続くのだろう、私はどこへ行ってしまうのだろう。そう思っていた時、白い霧のかかった道の先に、小さなさびれたお社と、一人の男性を見つけたの。

 ええ、狐の面をつけた、若いのか年老いているのかわからない、袴の男性。――ああ、天音さん、落ちついて。

 私は、その人に訊ねようと思ったの。私の家族はどこですか、と。この人なら、皆の居場所と、帰り道を教えてくれないかしらと思ったから。けれどその男性は何も答えずに、私の手首をつかんだの。そのままお社の方へ、私を引っ張っていこうとして。怖くて、でも手を振り払うこともできなくて。ただ足に力を込めて突っ張って、首を振ることしかできなかったわ。

 私の髪は、その時も今と同じくらい長かったの。ええ、腰丈まで。それを下ろしたまま、首を振ったものだから、ばさりばさりと髪が舞ったわ。それを見てあの男性は、握る手の力を緩めてくれたの。そうして、どこからか紙縒りを取り出したの。

 あの人は紙縒りで私の髪を結って、懐から剃刀を取り出したわ。私は心細くて、泣き出したくて、でもこれ以上何かをしたら怒られて、何もかも終わってしまう気がして、じぃっとあの人を見つめていたわ。そうして、頭が軽くなって、彼の人の手には、私の髪が載っていたの。

 そうしてやっと、あの人は口を開いたわ。

「この髪は預かる。お前の髪が、これと同じ長さになった夏、迎えに行く」

 とね。

 私はただ頷くことしかできなかったわ。そうしたらあの人は、また私の腕を掴んで、私が来た道を引き返し始めたの。ああ、赦してもらえるんだ、帰してもらえるんだ、と、その安堵で胸がいっぱいで、あの人の言葉の意味など、その時は全く理解していなかったわ。

 そうして霧が晴れる頃には、もとの賑わいが戻ってきたわ。ふと腕にかかっていた重みがなくなって、振り返ろうとしたら、だめだ、というあの人の声が聞こえたの。

 急に恐ろしさが戻って来て、見えた杉の木に走っていくと、そこにはおねえちゃんとおかあさんの姿があったわ。安心してしまって、びぃびぃ泣いたの。

 それから家族に怒られたり、心配されたり、驚かれたり、駐在さんにいろいろ聞かれたり、いろいろあったわ。でも、私もうまく説明できなかったし、あんな不思議なこと、誰が信じるかしら。おばあちゃんだけが、私を抱きしめて、ただ黙って、うんうんと頷きながら、私の話を聞いてくれたわ。

 私の髪の毛は確かに短くなっていて、おかっぱのようだったわ。今の貴女の髪よりも短くて。それを鏡で見た時、あの人との約束を思い出したの。また腰まで伸ばしたら、あの人に連れ去られてしまうように感じたわ。けれど、髪が伸びるのは、私の力で止められることではないものね。その後一年は怖くて、毎月のように髪を切ってもらっていたわ。その約束のことは誰にも話していなかったから、家族もさぞ心配したでしょうね。――ええ、あの人との約束を知っているのは、貴女と私だけ。どうか誰にも、私の家族にも、話さないで頂戴ね。

 でもね、一年後の夏祭りの日、私は夢を見たの。私はその年、お祭りにはいかなかったのだけれど、夢の中で私は、あの白い霧のかかる境内を歩いていたわ。だぁれもいない参道を真っ直ぐに。鳥居の先、社殿の横に立つ人影が見えて、その夢はそこで終わったわ。

 けれど、それから毎年、毎年。夏祭りの日には、同じ夢を見続けたわ。一歩一歩、私は社殿へと近づいて行くの。少しずつ、あの人の姿もはっきりと、見えてくるの。良く見ると、あの人は社殿ではなく、その横の小さなお社のほうへ、少しずつ移動していたわ。

 三度目に夢を見てから、私は髪をまた伸ばし始めたの。それからもう、四年くらい経つのかしら。今年、私の髪は、腰まで伸びたわ。だから、もう、すぐ。



 私は茜の話を聞きながら、今すぐ家へ飛んで帰って、剃刀を持ち出したい衝動に駆られておりました。そのつややかな黒髪を、今すぐ切り落としてしまいたい。その男との約束など、私が反故にしてやる。茜は行かせない、と。

 けれど茜の髪から顔へと視線を移した時、私は、不思議な心持になりました。茜は、微笑みを浮かべていたのです。それは幼い少女のものではなく、もっと大人びたもの。子供の世界から一歩足を外に踏み出した、そんな穏やかな、綺麗な、笑みでした。それと同時に、私の心のどこかで、その時は近い、と悟りました。

「……ああ、お話が長くなってしまったわね。天音さん、私、喉が渇いてしまったわ」

 ぼんやりとする私に何を見たのか、茜は再び、子供っぽい笑顔を見せて、立ち上がりました。彼女の手が私の手からするりと離れ、慌てて私も立ち上がりました。

 私が傍に置いた巾着とりんご飴を手に取っている間に、茜は私の前を歩き出しました。

「参道へ戻りましょう。ラムネか何か、売っていないかしら」

 今の話など、日常会話の一つであったかのようにさらりと流し。その足取りが、あの狐の面の屋台へ向かっていることに気付き、私は無意識に空いた手で茜の手首をつかんでいました。不思議そうに振り返る茜に、私は、あちらにラムネを売る出店があった気がする、などと適当なことを言って、腕を引っ張り体の向きを無理やりに変えさせました。

 参道は先ほどよりは人が少なくなっておりました。社殿でなにやら出し物が行われるからと、人がどんどんそちらに流れていっておりました。その中を、私たちは逆向きに歩き、飲み物を売っている屋台を探しました。先ほどまでは茜が前に立っていましたが、その時は私が前に立っていたように思います。

 私は鳥居の近くに、飲み物を売る屋台を見つけました。やっと見つけた、と言いながら、――ああ、そのとき私は、つないだ手を離したのです。繋いでいなかった片手には、巾着とりんご飴を持っていたものですから。屋台を指さし、振り返ろうとした瞬間、おでこにぽつりと何かが当たりました。何だろう、と見上げると、そこには綺麗な宵闇に、星が輝いていました。ああ、天色を練った色だ。先ほどの茜の言葉を思い出し、私は呑気にも、ぼんやりと眺めておりました。けれどもその晴れ渡った夜空から、ぽつり、ぽつりと水が落ちてきます。ぼんやりと眺めているうちに、雨脚は突然強くなりました。

 きゃあ、わあ、と、あちらこちらで悲鳴が上がりました。

「通り雨かしら」

「狐の嫁入りかしら、ね」

 呟いた私にかぶせるように、後ろから小さな茜の声が聞こえました。その瞬間、私の心臓は何か氷の手でつかまれたように、冷たくなりました。

私は社殿の方角へ背を向けたまま、茜の方へと振り返ることができずにいました。竦んでいた足が震えはじめておりました。

 わあ、と小さな子供たちの声が背後で聞こえました。その声に引き戻されるように、ばっと私は振り向きました。けれどもその刹那、振り向いた目の前を小さな男の子たちが5人ほど、駆け抜けていきました。その子供たちが運んできた生ぬるい風が、私の体をかすめました。

 そうしてようやく目を上げると、参道を人々が右往左往しておりました。そこに、白地に茜色のしゃぼん玉の浴衣は、見当たりませんでした。

 それに気づいたとき、雨がさっと止んだのを覚えています。まるで私に、思い知らせるかのように。

 私はなりふりもかまわず、参道の人ごみを押しのけて、駈け出しました。茜、あかねと叫びながら。

 視界の端に過ぎ行く中にも、茜色は見当たりません。鳥居をくぐり、社殿前の広場をざっと見渡し、慌てふためく人の流れに目を凝らしました。そうして私は、社殿の横にある、小さな古ぼけたお社を目にしたのです。

 そこには、狐のお面が一つ、置かれておりました。

 走り寄ろうとした瞬間、左足に何かを感じて、次の瞬間には地面に全身を打ち付けていました。目の粗い砂利が痛かったし、天色の浴衣が、湿った土に汚れてしまいましたが、あの時の私にそんなことを気にかけている余裕などありません。鼻緒が切れてしまった左足の下駄を脱ぎ、右足の下駄も脱いだところで、茜の手巾の切れ端が目に留まりました。同時に、その手巾を裂く天音のしなやかな指先も。

 ああ、お社へは、もうこれ以上近づいてはいけない。

 なぜだか、そんな確信が、私の頭の中をよぎりました。そうして私は、参道を駆け戻ったのです。神社の敷地から飛び出し、やくざな下駄を手に持ったまま、裸足で一路真っ直ぐと。

 息を切らしながら茜の家の前にたどり着いたとき、丁度茜を迎えに来た時と同じように、玄関が開きました。不安を隠しきれない茜のお母様の顔が見え、それはすぐに、驚きに変わっていたのを覚えています。

「天音ちゃん、茜はどこ?」

 そう問いかけられましたが、私は何も答えることができません。俯き、ぶんぶんと首を横に振ると、いつの間に結っていた髪紐がとれていたのでしょう、短い自分の髪が視界の端に見えました。目頭が熱くなってきて、胸が苦しくて、私は道に座り込み、道端にもかかわらず、おいおいと泣き始めました。まるで、迷子になった子供のように。

「今ね、縁側に居たら、茜の声が聞こえたの。今までありがとう、行ってきます、って」

 私の様子で、何かを察したのでしょう。茜のお母様は、涙声で私に語りかけながら、私の肩に手を置いてくれました。

「茜は、お狐様のところへいったのね」

 私はただ、認めたくなくて、ぼろぼろと涙をこぼすことしかできませんでした。



 そうして茜は、それ以来、あの街から姿を消しました。

 駐在さんや先生たち、街の有志が必死になって探し回りましたが、茜の姿も、巾着も、浴衣の切れ端一つも、見つからなかったそうです。街の外の人間に連れ去られたのなら大ごとだと、全国的に捜索願を出すことも議案に上ったそうですが、茜の両親がそれを止めさせたと聞きました。

 私は夏休みの残りの日々を、家の中に閉じこもって過ごしました。天体観測会も中止になったと、連絡網を受けた母親が伝えてきましたが、どうにも私はぼんやりとして、何も感じることができませんでした。クラスメイトとその保護者が、捜索隊を立ち上げるとは聞きましたが、家の外へ出ることはその夏、どうしてもできませんでした。

 あの時、どうして私は、茜から手を離してしまっていたのだろう。茜がいないと気づいたときに、どうして狐のお面の屋台を覗かなかったのだろう。あの杉の木の根元をへ足を運ばなかったのだろう。社殿の後ろを、探してみなかったのだろう。

 いくつもの後悔は針山のようで、今でも、時折思い出してはちくりと胸を刺していきます。

 そうして私は、茜がいない中学生活を抜け殻のように過ごし、隣町の高校に入り、そうして18の時、母と祖母、ほろ苦く大切な思い出を置いて、あの街を出ました。それからあの街には、祖母の葬儀と遺品整理を除いて、帰ることはありませんでした。

 あの神社へは、あの日以来、一度も足を寄せておりません。そこに茜か、あの男の姿がちらりとでも見えたら、飛び込んで捕まえる気概ではありましたが、神社の前を通ろうとすると、どうしても足が震えるのです。



 これで私のお話は終わりです。

 私はこれからも、茜の思い出を胸に抱き続け、生きていくつもりです。


 どうか皆様、大切な人の手は、決して離さないでくださいね。

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