番外編7 空と海の交わる時

 あなたは空、私は海。

 青と碧が交わって、彼方へ続いてゆくように。


 鏡に映る己の姿を、エリサ・セリシア・ランバートンは、他人事のようにぼうっと見つめていた。

 自分は今日、嫁ぐのだ。幼い頃から想い続けた男性ひとのもとへ。

 だが、これは本当は幸せすぎる夢なのではないだろうか。きらきらしく化粧を施し、髪をきっちり結い上げて、真っ白いドレスに身を包んだ自分を実際に目の当たりにしても――いや、現実味の無い格好をしているからより一層なのか――まだ実感がわかない。

 これが夢でない事を確信する為に、彼女は回顧する。

 彼との出会いを。


 それは十年も前だったろうか。

 東の大陸からやって来た賓客をもてなすとの事で、ハミルの城内は活気に満ち溢れていた。

 客人は、ヴァリアラの国王と王子だという。魔獣グリフォンを駆り、空を飛び海を越えて辿り着いた二人の歓迎の為、父王と姉姫は、大広間に行ったきりだった。

 エリサは、その式典に出られなかった。魔力がより高い姉エリルは、ランバートンの後継者として公の場にしょっちゅう参加していたが、王位継承から外れた子、しかも双子の妹であるエリサは、列席を許されない事が多かった。

 世界の王家の黎明期には、凶兆として片方が排除されるのが当たり前だったという、双子の王族。今でこそ、そんな非人道的な事は無くなったが、古いしきたりに縛られがちな父王は、明らかにエリサを疎んじ、遠ざけていた。

 母を早くに亡くし、父にも距離を置かれた姫の唯一の理解者は、姉のエリルだった。姉はエリサを見捨てず、優しい笑顔を向け、目一杯妹と時間を共有して、大切な家族として慈しんでくれた。

 それが恵まれたものの優越感によるものだったら、エリサも反発して孤独を享受する事ができただろう。だが、姉の好意は真心からだった。だから姉を大好きだったし、姉を奪う父に薄暗い気持ちも抱いたし、いつかその父が王位を退いて姉が国を継いだら、彼女の為に尽くそうと思った。


 その日も、一刻も早く歓迎の宴が終わって姉と過ごせる時間がやって来ないかとじりじりしながら、エリサは供もつけずに、城の中庭の噴水の縁に腰かけ、水の循環をぼんやり眺めて、遅々とした時間の流れを浪費していた。

 そんな時。

「……あれ?」

 がさがさと茂みが揺れる音と、間の抜けた声がしたので、そちらを向くと、紫水晶のような瞳と視線が交わった。

 紫髪の少年だった。エリサより二、三歳は年上だろうか。ひょろりとした細長い身体が、まだ成長途中である事を示す。

 少年はまじまじとエリサを見つめていたが、やがて声変わり前の高い声を発して、首を傾げた。

「エリル姫じゃ、ないね」

 その台詞に、思わずエリサは目をみはった。

 思春期を過ぎた以降は、差異をつける為にも、エリルは髪を伸ばし、逆にエリサは短くとどめたが、この時、姉妹の髪の長さにほとんど差は無かった。そのせいで、家臣たちは二人の王女を見分けるのに一苦労をしていた。

 それを逆手に取って、時に双子が彼らをからかって遊んだ事もあるが、父である国王さえ、エリルと名を呼んで返事をした方がエリル、という判別しかできていないのだと知ると、エリサがこの遊びを嫌うようになり、妹の心中を察して、姉も悪ふざけをやめた。

 それほど似ている双子の姫を、姉姫ではないと一発で見抜いたこの少年に、エリサは感嘆の念を抱いたのだった。

「ランバートン第二王女、エリサ・セリシア・ランバートンと申します」

 姉と見分けてくれた少年に報いる為に、エリサはドレスの裾をつまみあげ、ランバートンの正式な挨拶をしてみせる。

「え? ああ、そうか、妹姫がいらしたのか」

 少年は一瞬きょとんとし、それから、女性に先に名乗らせてしまった非礼を詫び、エリサの前にひざまずくと、貴婦人に騎士がするように、恭しく手を取ってくちづけた。

「僕は、レジェント・リュード・ヴァリアラ。どうぞお見知りおきを、エリサ姫」

 その名に、エリサは二度目を丸くする。ヴァリアラの苗字を持つという事は、東の国からやって来た王子だ。

 歓迎会に出席しているはずの王子が、何故こんな所にいるのか。エリサの疑念の視線を少年は察したようだった。きまり悪そうに苦笑を向ける。

「姫と同じように、堅苦しい場にいるのは苦手なんだ」

 宴に出なかった理由を、エリサが嫌がったからと思っているようだったが、その勘違いを訂正しようとは思わなかった。面倒だったとか、真相を知られたくなかったとか、そういう訳ではなく、ただ単純に、この少年に真実を伝える必要はなく、ただ、今、共にいられる為の共通の理由があればいい、そう思ったのだ。

 そんな考えを持った自分にはたと気づくと、何を考えているのかと頬が熱くなる。いきなり真っ赤になったエリサを、レジェントは不思議そうに見つめていたのだが、やがて。

「そうだ。こんな所にいたら、退屈じゃないかい?」

 エリサの手を引いて少し開けた場所へ進み出ると、彼は左手で指笛を形作り、思い切り吹いた。春の空に、高い指笛の音が響き渡る。

 次の瞬間、ばさりと風を巻き上げて現れた影に、エリサは一瞬目をつむり、そして、みたび目を見開いてしまった。

 二人の前に、銀色の羽根を持つ巨大な鳥が降り立っていた。本の挿絵でしか見た事がないが、これは伝説の幻鳥ガルーダだ。

 これを目の前の王子が呼んだというのか。驚きの目を向けると。

王都クライスフレイン郊外の森で卵を見つけて、雛から育てたんだ」

 少年は歳相応の得意気な笑顔を見せ、相棒の翼を軽く叩く。

「僕だけのガルーダだよ」

 そして、ひらりとガルーダの背に飛び乗ると、エリサに向けて手を差し出した。

「一緒に行こう。誰にも見つからない内に」

 初対面の男の子にいきなり相乗りを提案された気恥ずかしさと、空飛ぶ動物になど乗った経験が無いゆえの多少の恐怖、それを上回る、ちょっとした冒険への期待。色々な思いがないまぜになって、心臓がどきどきと大騒ぎした。

 が、最後には好奇心が勝ち、エリサは差し伸べられた手をとった。やはり少年といえど男の子、大きく力強い手がエリサを引き上げてくれ、ガルーダの背、王子の前に、エリサはちょこんとおさまる。

 レジェントが手綱を繰り合図を送ると、ガルーダはばさりと翼を広げ、またたく間にハミルの空へと飛び立った。


 はじめは、びょうびょうと耳元を流れる風の音しか聴こえず、いきなり高くなった視界に頭がくらくらして、初めての空を楽しむどころではなかった。

 だが、自分から手を取ってしまった手前、降りてくれなどと言う事も、なけなしの矜持プライドが許さず、目をつむると、すーはー呼吸をして、それからゆっくり、目を開ける。するとまず、青い空が視界に入った。

 流れる雲を見やる余裕ができると、眼下へ視線を落とす。ハミルの城下街が、箱庭のように小さく見え、さらに遠くへ目をやれば、空の青と、エリサの瞳と同じ海の碧が、はるか遠くで交わっている光景が目にとまった。

「……綺麗」

 我知らず、感嘆の言葉が口をついて出る。

「良かった」

 背後から、安堵の吐息が髪を揺らす。

「この背に誰かを乗せたのは初めてだったんだ」

 初めて。その単語にエリサの心臓がまた早鐘を打つ。最初の特別な一人なのだという優越感が、心に満ちた。

「思うんだ」

 エリサがどぎまぎしているのに気づかぬまま、レジェントが言葉を重ねる。

「この世界の空と海はこうしてどこまでもつながっている。同じように、僕の国と君の国がつながっていけたら。風のヴァリアラと水のランバートンが交わって、この世界を守っていけたら、と」

 いずれ王となる者の決意に満ちた瞳で少年は語る。が、エリサは自分の動悸をごまかすのに必死で、ただひたすらうなずく事しかできなかった。


 二人の空中散歩は十数分程度だったが、城の中庭へ戻った時、待ち構えていた人物に、エリサはびくりと身をすくませてしまった。

「どこへ行っていた」

 騎士を引き連れ、親愛の情のかけらも無い瞳で、こちらをじとりと見すえる父王。

「お前は王族といえど、儂の役には立たぬ身。せいぜい面倒をかけないように振る舞えと、いつも言っているだろう」

 無神経に投げかけられる言葉に、しかしエリサは何も言い返せずに萎縮してしまう。

「私がお連れしたのです」

 それをかばって、彼女の前に少年が進み出た。

「無断で姫君を連れ出してしまった事は、お詫びいたします。ですが」

 紫の瞳をすっと細め、自分より遙かに大きく地位も上の人間に怖気づく事もなく、反駁はんばくする。

「彼女はあなたの人形ではない。自分の意志で動く事があっていいはず。その結果、何か問題を起こしたとしても、それを受け入れ、あるいはただして導くのが、親というものではありませんか」

 いずれ王となる者の威厳を満たして、彼は王をにらみつけた。

「あなたは彼女を言葉で縛る事で、親としての役目を放棄している」

 父王は、少年の静かな気迫に呑まれ、唖然とすると、一、二歩、あとずさった。が、仮にも王、踏みとどまると、怒りに任せて恫喝する。

「だ……黙らぬか! 身内でもない者が我が王家の事情に口出しすると、たとえ客人でも容赦せぬぞ!」

「では、身内であればよろしいのですな」

 不意に飛び込んで来た第三者の声に、誰もがそちらを見やる。微笑を浮かべながら歩み寄って来る壮年の男性。少年と同じ紫の髪と瞳を持っている事、そして、

「父上」

 と少年が呟いた事で、彼が東の国の王であると、エリサは悟った。

「どうやら察するに、そちらの姫君はエリル姫と違い、まつりごとには関われないご身分の様子」

「双子でな。国はエリルあれに継がせるが、こちらは用途が無い」

 ヴァリアラ王の言葉に、父は無愛想を崩さぬまま答える。あれ。用途。娘たちさえ物のように扱う父の性質たちの悪さには、聞いているこちらが情けなくなってきてしまう。

「さようですか。ならば」

 だが、エリサの落ち込みを察してか気づかなくてか、少年の父は、名案とばかりに、笑みを崩さぬまま声を高めた。

「我が愚息の将来の妃にこの姫君を望むのは、いかがでしょうか」

 瞬間、ヴァリアラ王以外の全員が目を丸くして、硬直してしまった。

「ち……父上、何を!」

 遅れて文意を理解した少年が驚いた声をあげるが、彼の父親は飄々として。

「そうすれば身内になるし、ランバートンとヴァリアラの友好の証になる。そもそも、将来の約束をしてもいない女性を連れ出したのだ。それくらいの責任は取れ」

 王子も、姫も。顔を真っ赤にして、続けるべき言葉を失ってしまう。

 エリサは父王の顔色をうかがった。父はしばらくむっつりと黙考していたのだが、やがて、

「……よろしいでしょう」

 相変わらず感情の乗らない無愛想で、短く了承したのだった。


「すまない」

 父王たちが立ち去った後、少年はエリサに向き合って頭を下げた。

「僕が軽々しかったばかりに、こんな事になってしまって」

「王子のせいではありません」

 エリサはふるふると首を横に振るが、少年は罰が悪そうな表情をしたままだ。

「君はまだ幼い」

 彼は言った。

「まだまだこれから、女性として成長し、色々な人に出会って、その中からこの人はと思う相手を見つけて、幸せをつかむ権利があったはずなのに、それを全てふいにしてしまった」

 それは違う、とエリサは考えた。この城にいたら、選択の自由など無いまま、父王が決めた好きでもない結婚相手へ、厄介払いとばかりに嫁がされる将来しか用意されていなかっただろう。子供のエリサでもそれは想像できる。

 だから良かったと思う。形こそ親の決めた婚約になってしまったが、自発的に好意を覚えた少年が、将来、隣を歩む相手である事に。

 エリサは、戸惑う少年に向け、会心の笑みを向けた。

「私は、あなたの妻になれる日を、楽しみにしています」


 そう告げた時、少年がどんな顔をして、何と答えたのか。何故かエリサは覚えていない。

 恐らく、自分は平静を装っていたものの、自覚している以上に気が動転していて、記憶に残せなかったのだろう。

 あの後、紆余曲折があり、悲しい出来事もあったが、互いが互いを想い合っている事も確認できた。

 それを思い出すと、緊張で血が巡っていなかった指先が、ようやく温かくなって来る。

「エリサ」

 自分と同じ声が聞こえ、姉が笑顔で控え室に入って来た。

「おめでとう。とてもきれいよ」

 愛する人を失ったのに、それでも笑顔で祝いの言葉をかけてくれる姉。

「ありがとう」エリサはそっと腕を回して、涙声で姉を抱き締める。「大好きよ、お姉様」

「……もう」姉も抱擁にこたえてくれた。「式を前に、花嫁が泣かないの。せっかくのお化粧が台無しになるわ」

 腕をほどき、エリサの目尻に浮かんだ涙をすくい取って、同じ顔の姉は笑いかけた。

「さあ、行きましょう。あなたを選んでくれた人のもとへ」

 父親がいないエリサのエスコートは、姉がしてくれる。エリサはうなずき、姉の手を取った。


 聖堂の中から音楽が流れて来る。

 扉が開かれ、列席した人々が一斉に振り向いて、花嫁の入場を見守る。

 光あふれる聖堂の中、真正面の祭壇の前で、正装に身を包んだ青年が待っている。

 少年は、青年になった。王の威厳を備え、しかし少年の頃の光を失わないままの紫の瞳で、まっすぐにエリサを見つめて。

 その瞳を碧眼でしっかりと見つめ返し、エリサは思う。


 彼は空。天空を自由に駆ける翼。

 ならば自分は海になろう。彼を受け入れ、共にこの世界に青を描こう。


 姉の腕から離した手が、そっと、差し伸べられた愛しい人の手を取った。

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