第4章:埋没の過去

4-1

 忘れようとしていた。決して、忘れてはいけない事。


 夏に向けて水はどんどん温くなってゆく。起き抜けにばしゃばしゃと顔を洗い、ふと、洗面器にたまった水面を見つめると、ぽたり、ぽたり、黒い滴が落ちて、じんわりとにじんでいった。

 あたしは、ふうとため息をつき、毛先をつまんで見つめる。

 そろそろまた染め直さないといけないか、と。


「うわあ、おっきい!」

 あたしはその大きさに、思わず馬鹿口開けて見入ってしまった。

 何のかというと、船。アゼリアはランバートンが誇る最大の港町だ。そこに出入りする船は当然立派なもの。港に停泊する、あたしたちが乗る事になるセントパミラ号も、それはそれは大きく見事に見えた。

「口開けて見てんなよ。田舎者に思われるぞ」

 憎まれ口たたきながらセレンがやって来る。その後ろには、エイリーンも。

 あたしたちはまた三人旅に戻っていた。ハルトを失って消沈しているエリル女王を、妹である自分が支えなければ、と、リサはハミルに残る道を選んだのだ。

「ドローレス様のおっしゃった通りになってしまいましたわね」

 ちょっと寂しそうに、リサは笑った。

 それでも彼女は約束を果たす事を忘れずにいてくれた。あたしに魔法を教えてくれたのだ。独学で本を読んでるだけじゃちんぷんかんぷんだった基礎理論を、かみくだいて伝えてくれて、おかげであたしも自分の適性がわかった。風属性と光属性、そして回復魔法の第一階層が、まがりなりにも使える形になったのだ。

 リサに感謝して、リサはそれ以上にあたしたちに対して、一緒に旅をしてくれたのと、デュアルストーンを守ろうとしてくれた事――結局影シェイドに取られてしまったけど――に感謝を述べて、それであたしたちは別れた。

 相手はお姫様。もう会えないだろうな、と思いながら。


 で、ハミルを出た後、あたしたちはアゼリアを目指した。サンザスリナ、ランバートンのデュアルストーンが奪われてしまった今、この大陸にいても仕方が無い。オルトバルスを出て残りを守りに行くべきだろう、という話になった。

 エーデルハイト大陸のクルーテッダスは、とうの昔に滅んだ廃墟で、とんでもなく強い魔物がうろうろしているなんて噂もあるので、かなり危険だ。それにエーデルハイトは世界の北だから、位置的にも、東のダイアム大陸にあるヴァリアラ王国へ先に向かうのが妥当だろうという結論が、あたしたちの間で下され、いよいよ船に乗る事になったのだ。

「それにしても、そんなに船が珍しいか? ずっとザスにいて、乗った事が無いのか」

 あいつが呆れ半分に訊いて来たので、あたしは首を横に振る。

「ううん、一度だけあるよ。あたし、小さい頃はオルトバルスとは別の場所に住んでたから」

「へえ、フェリオさんと乗ったのか?」

「ううん、兄さんと二人で」

 兄さん? と、あいつが隣で首を傾げるのがわかった。そういえば、二、三ヶ月一緒に過ごしたけど、あたしはセレンに自分の身の上話をまだしていない。勿論、兄さんどころか、故郷の事さえ。

 でも、正直その時は、それを話したい気分じゃなかった。聞いてて面白い話ではないし、それに、語っているだけであたし自身の気が滅入ってしまうような、そんな体験を思い出してしまうから。

 だからあたしは、その話はそこで終わりにして、代わりにあいつに訊き返してやった。

「あんたこそ。記憶無いんだから、船なんて新鮮なんじゃないの。それとも、そこだけは乗った記憶でもあるわけ?」

「無い」

 無駄に自信に満ちた端的で潔い即答に、あたしは思わず口が変な形に固まってしまったのだが。

「おおーい、あんたたち、乗客かい? 乗船券を持ってるならさっさと乗っとくれ。もうすぐ出るぞ」

 船の甲板から船員さんが呼びかけたので、慌てて手を振り返す。

「あ、すいません。乗ります、乗りまーす」

 後ろからエイリーンが、あたしたち二人の肩を軽く叩いた。

「さ、行きましょう。ダイアム大陸までは長いわ。お喋りする時間ならたくさんあるわよ」


 甲板から見渡せるのは、一面の青い空と、碧い海。

 航海は順調に進んだ。海は時にひどく荒れる、と聞いた事があるけれど、そんな事も無く。海には魔物が一杯住んでいる、とも言うけれど、今のとこ、セントパミラ号に魔物がやって来たのは、イカの魔物クラーケン……の、まだ子供だったんだろう、ちっちゃいの(と言っても普通のイカに比べたら大きいの)が甲板に乗り上げてしまった、一回だけ。しかもイカだけに珍味らしいので、船員さんが捕まえて、慣れた手つきであっという間に刺身にさばいてしまった。たまたま居合わせたあたしたち三人にも振る舞われて、さすがに気持ち悪いと思ったあたしと、動く生物を食べないエイリーンは遠慮したのだが、あいつだけは平気な顔をしてぺろりと平らげ、「うまいぞ」なんてけろっとしていた。

 まあとにかく、航海に支障は特に無かった。あたしは船室で、リサにわかりやすい説明を書き足してもらった魔道書を読んだり、甲板に出て、身体がなまらないように、他の客の邪魔にならない程度に剣を振り回したり、それに疲れると船縁に寄って、どこまでも続く空と海を眺めたりしていた。

「すごいよな」

 本当に感心している、という声が聞こえて来たので、振り返ると、いつの間にかセレンが隣に立っていた。褐色の目を子供みたいにきらきら輝かせて、海に見入っている。

「うん。これ全部水だなんて信じられない。そこに、こんな大きい船が浮く事もね」

 海を見渡しながら、あたしは笑ってうけあったのだが、次にあいつが返して来たのは全く予想外の台詞だった。

「オレが生まれ育ったシエナ・アイトは火山に囲まれていたから、海なんて見た事も無かった。水のアストラルが住むネーベル・アイトに行けば、嫌ってほど見られたんだろうけど、水を苦手とする火のアストラルには自殺行為だからな」

 あいつの口から故郷の話が出るなんて。しかもあたしが知らない単語に、驚いて、再度振り向けば、あいつは、褐色じゃない赤色の瞳で、とても懐かしそうに、海ではない遙か遠くを見つめているみたいじゃない。

「……記憶が戻ったの?」

 顔をのぞきこんで訊ねると、あいつは、はっと弾かれたように我に返って。

「オレ、今、何か言ったか?」

 瞳の色もあっという間に褐色に戻る。

「言ったよ。愛とアスター君がどうとかって」

「何だ、それ」

 あいつは怪訝そうに首をひねるばかり。元々人間離れしているとは思っていたけれど、やっぱりセレンには、途方もない秘密が隠されているんじゃないか。改めてそれを感じた。

 突っ込んで訊いても向こうは思い出しそうにないから、この話はおしまいにして、話題を振り替えようと、前方に目を向けた時だった。

 急に、雲行きが怪しくなってきた。海面が大きくうねり出す。あたしとあいつは、何事かと船の縁に、身を乗り出さんばかりに手をついて、海の表情の豹変を見ていたのだが、次第に船の周りに集まって来た水中の影を見て、反射的にそれぞれの武器をつかんだ。

 飛び出して来た一体を、咄嗟にあたしは斬り伏せる。魚と人間をかけあわせたような、半魚人マーマンだ。大きな魚の骨一本から削り出したのだろう剣呑な銛を手にしたそいつは、それをこちらに突き刺す事ができないまま、耳障りな奇声を残して、海中へと転落した。

 途端に、周囲の乗客が悲鳴をあげて船内へと逃げてゆく。

「魔物だ、魔物の襲撃だぞ!」

 見張り台についていた船員が大声で叫ぶと同時、船はすっかり、マーマンと、女性型半魚人マーメイドの群に囲まれていた。

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