赤ずきんと小さな狼
ある森の近くの村に少女がいました。蜂蜜のような金色の髪と澄み渡る空のような青色の瞳の可愛らしい少女でした。
フード付きの赤いケープがとてもよく似合う可憐な少女は、村の人々から親愛を込めて『赤ずきん』と呼ばれていました。
ある日、赤ずきんは森へ出かけて行きました。
お母さんに用意してもらったパンやローストチキンや葡萄酒が入ったバスケットを持って、森の向うに住んでいるお婆さんの所へ足取り軽く向かいました。
お婆さんへのお土産に花やベリーを摘み、休憩も兼ねて川辺に敷物を敷いてお昼ごはんのサンドイッチを食べようとした時でした。
少し離れた所に見える木で作られた橋に小さな人影が見えました。しかしよく見てみるとそれは人ではありませんでした。
銀色の毛の耳や尾に鋭い牙や爪、金色の瞳を一族の特徴とする『狼』と呼ばれる森に住む隣人の姿でした。
サンドイッチを食べる手が自然と止まり、赤ずきんは狼の姿に見惚れました。太陽の光を受けてキラキラと輝くその姿はまるでおとぎ話に出てくる光の粉をまとった妖精のようでした。
年の頃は赤ずきんと同じか、少し下ぐらいでしょうか。村で大人の狼を見たことがありましたが、橋を渡る狼はそれよりも断然小さいのでした。
その小さな狼は何かを腕に抱えて至極嬉しそうにスキップをしていました。小さな狼が抱えていたのは茶色い夏毛の兎でした。
狼は森の一族です。狩りをして生活をし、代々命を繋いできました。
大昔はそのサイクルの中に人も組み込まれていましたが、赤ずきんの祖先の活躍によってそのサイクルに人が巻き込まれることはなくなったと言われています。
橋の中ほどまで来た小さい狼は何かに気付くと橋から身を乗り出しました。川を見下ろして、酷く憤慨した様子で声を荒らげます。
「どうしてお前は僕が狩った兎を持っているんだ! 返せよ! 返せったら!!」
小さな狼が川面に腕を伸ばすと抱えていた兎は川に落ちて流れていってしまいました。
えぇぇぇぇ!? と赤ずきんは目撃した信じられない光景にドン引きしました。そしてそんな馬鹿をやらかすのが物語の中の犬以外にもいたのだと驚愕しました。
橋の上には小さな狼がしょぼーんと項垂れて立っていました。
赤ずきんが衝撃のあまりに目を離せないでいると、視線を感じたのか小さな狼と目が合ってしまいました。
一部始終を見てしまった以上、一切合財何も見ていない振りなんて器用な真似は赤ずきんにはできません。
声をかけるべきか放っておくべきかあわあわと慌てふためく赤ずきんをよそに、小さな狼が赤ずきんの膝の上のサンドイッチを見たのが分かりました。
ぐう、と小さな狼のお腹の虫が鳴きました。あの流れて行ってしまった兎はあの子のお昼ごはんだったのかな、と赤ずきんは思いました。
「……食べる?」
「いいの?」
「お腹すいてるんでしょ? 一緒に食べようよ」
「ありがとう! お腹ぺこぺこだったんだ!」
小さな狼はあっという間に赤ずきんのそばへやって来て隣に腰を下ろしました。貰ったサンドイッチをぺろりとたいらげると、お婆さんへの届けものだったパンとローストチキンまで食べてしまいました。摘んだベリーも食後にお喋りをしながら摘むのには丁度良かったのでしょう。
「ごちそうさまでした!」
小さな狼は膨れた腹を満足そうにさすります。
届ける物がなくなってしまったのでお使いは駄目になってしまいましたが、狼のお昼ごはんにされるよりはマシだよね、と赤ずきんはほぼ空になったバスケットを見て小さな狼に気付かれないように溜息をつきました。
「お前、赤頭巾なのにいい奴なんだな」
「何それ」
「父さんが言ってた。赤い頭巾かぶった女には危険だから近付くなって」
「えー? それって私のことなの?」
「わかんない。父さんは何で危険なのか言わなかったから」
「……そう」
実の所、赤ずきんは小さな狼の言う『赤い頭巾をかぶった危険な女』に心当たりがありましたが、あえてそれを言うことはしませんでした。
「またね、赤ずきん!」
「うん、またね」
手を振りながら元気そうに森へ帰っていく小さな狼を見送ると、赤ずきんは来た道を引き返して村へ帰りました。
赤ずきんが小さな狼と出会ってから少し経った頃、森の向こうに住んでいるお婆さんが腰を悪くして、村で一緒に暮らすことになりました。
赤ずきんは森を通ってお婆さんに会いに行く必要がなくなり、森に行かなくなりました。
もともと村の住人と森の狼はそんなに交流があるわけではありません。当然、小さな狼とも会わなくなりました。
それからまた少し経った頃、赤ずきんは村の外れの茂みに小さな狼の姿を見つけました。銀色のふさふさの尻尾が見えているので間違いありません。
大人達に見つからないようにこっそりとその茂みに近付くと覗き込みます。
「どうしたの?」
「うわっ!」
小さな狼は突然現れた赤ずきんに驚いて尻餅をつきました。それからすぐに怒った顔になると赤ずきんに詰め寄ります。
「何で森に来ないんだよ!」
「何でって、もう森に用事はないもの。どうしてそんなことを聞くの?」
不思議そうに首を傾げる赤ずきんを見た小さな狼は、一瞬だけ痛そうに顔をしかめましたが、
「赤頭巾なんて大嫌いだ!!」
そう言い放つと茂みの奥へ走り去って行きました。
「ちょっ! ……何だったの……?」
赤ずきんにはなぜ小さな狼が村まで来たのかが分かりませんでした。
次の日から小さな狼は毎日村へやってくるようになりました。赤ずきんに会いに来るためだったら良かったのですが……。
「僕は狼だぞ! お前らみんな食い殺してやる! がおーっ!!」
大人の狼のように吠えることもできず、小さな体を目一杯大きく見せようとする小さな狼には、かつて村の住人の先祖を恐怖のどん底に突き落とした『狼』の見る影もありませんでした。
やれやれまたかと言いたげな表情で村人は小さな狼を無視しました。
始めは狼に脅かされるストレスでお乳の出が悪くなった家畜や卵の産みが悪くなった家禽もいましたが、その動物達でさえ今では怯えるどころか気にも留めません。
「何でだよ! 僕は狼だぞ! お前らもっと怖がれよ!」
人が狼を恐れていたのも、今は昔の話なのでした。
「僕はっ、狼なんだぞっ……!!」
無視され続けた小さな狼はしまいには泣き出すのでした。ぺたんと耳はたたまれ、不安げに尻尾が垂れています。
「僕だって、狼なんだ……」
外聞もはばからず、小さな狼は泣きべそをかいています。
それを家の影から見ていた赤ずきんが、段々小さな狼のことが気の毒に思えてきて声をかけてあげようと近付こうとしたその時でした。
「――構うんじゃないよ、赤ずきん」
赤ずきんを止めたのは赤ずきんのお母さんでした。
赤ずきんを二十歳ほど成長させたような容姿に退廃的な妖艶さを漂わせ、深紅のクロークでも隠し切れないわがままボディは問答無用で老若男女の視線を釘付けにしていました。
「で、でも、あの子が可哀――」
「犬ってのは、餌をやるとすぐに調子にのるからねぇ……」
ぼそっと誰に聞かせるでもなく呟かれたお母さんの言葉に、赤ずきんはぞっとしました。
なぜならお母さんは血のように赤い唇をぺろりと舌で舐めると、紫水晶を思わせる瞳をネコ科の猛獣のように細めて小さな狼を見据えていたからです。
ちりちりと赤ずきんの肌を痺れさせるのは、いわゆる殺気というやつなのでしょう。
この村は元々、赤ずきんの祖先の子孫と赤ずきんの祖先を狼の腹の中から救い出した狩人の子孫によって作られた村でした。そこへ子豚の三兄弟の子孫や、子やぎの七兄弟の子孫が加わり今の村の形になったと言われています。
赤ずきんのお母さんは生まれ付き『狼』へ対する強烈な敵愾心を持っていました。それゆえに村の人からは『先祖返り』と呼ばれているのでした。
赤ずきんは瞬時にお母さんを小さな狼に近付けてはいけないのだと察しました。
お母さんに限ったことではありません。この村には狼を良く思わない住人が少なからずいるはずです。
赤ずきんは小さな狼をどうやってこの村から逃がそうかとフル回転で考えを巡らせました。
そんな時、小さな狼へ近付く二つの影がありました。
「おい、うるせーぞチビ」
「これをあげるから森へお帰り」
それは双子の狩人でした。それぞれ弓と矢筒を背中に吊るして山刀を腰に下げています。少しつり目がちなのが兄で、少したれ目がちで鴨を小さな狼に手渡しているのが弟です。
「鴨だ!」
「鴨好きなのか?」
「うん!」
「兄さんが射ったんだから、きっとその鴨も美味しいよ」
小さな狼は鳥肉が好きなのでしょう。差し出された鴨を見て輝かせています。
その様子に双子の狩人はついつい笑ってしまいました。小さな狼は笑われていることに気付くと、とたんに偉そうに振る舞います。
「ふっ、ふん! 今日はこれくらいで勘弁してやるんだからなっ!」
そう言って鴨を大切そうに抱えて去って行きました。
二人が見送る小さな狼のふさふさの尻尾は、千切れんばかりに振り回されていました。
「ちょろいな」
「所詮犬だからね」
兄はあくどい笑みを隠そうともせず、弟の笑顔は爽やかでしたが真っ黒でした。
小さな狼が双子の狩人から鴨を貰った次の日のことです。
「息子が申し訳ありませんでした」
双子の狩人の家の玄関先で双子の狩人に頭を下げる狼がいました。背が高く少しくたびれた印象の大人の狼でした。
その横で小さな狼は父親の狼に無理矢理頭を下げさせられていましたが、不服そうな表情は隠そうともしていません。
「息子さんに差し上げたものですし……」
「いえ、自分達の食料は自分達で調達していますから」
先程からこんな感じのやり取りが続いています。双子の狩人の弟の方は困り顔で、兄の方は面倒臭いのを通り越したのか、組んだ腕の上で苛立たしげに人差し指を小刻みに動かしています。
ぷち、と何かが千切れる音がしました。
「おい、おっさん! アンタさっきっから聞いてりゃ、ぐちぐちぐちぐちケツの穴の小せぇことばっか言いやがって、その鴨は俺らがそこのチビにやったもんだ。それ以外のことに何の意味があるってんだ? あ? 大体、狼に村の周りをうろつかれると獲物がいなくなって困るんだよ。やったもん突っ返しに来る前に、息子にそこらへんの基本的なこと教えやがれ、このダメ狼が!」
押し問答の末、双子の狩人の兄の方が大喝してこの場は収まりました。
父親の狼は双子の狩人に何度も頭を下げながら小さな狼を連れて村の出口へ向かいました。
「くれるって言ったんだからいいじゃん」
小さな狼は父親の狼の手に下げられた鴨を横目に見ながら、納得がいかないと口を尖らせます。
「でもそれは君が迷惑だったからだ。ゴロツキみたいなことをして食料を貰って、君は嬉しいのかい?」
「っ、僕は食料が欲しかった訳じゃ……!」
父親の狼は小さな狼に目線を合わせるようにしゃがみ、ゆっくりと諭すように話しました。
「いいかい。私たち『狼』はその昔沢山の人に迷惑をかける生き方をしていたんだ。人を食べ家畜を食べ、その結果、腹を裂かれて石を詰め込まれたこともあるし、煮えたぎる鍋で釜茹でにされたこともある。だからこそ人一倍誠実に生きていかなければいけない」
「なんで先祖がやったことを僕達が気にし続けなきゃいけないの?」
「……卑屈になってはいけないよ。ただ――」
ふと、父親の狼に影が差しました。
小さな狼の金色の目が驚愕に見開かれ、そんな息子の様子を不思議に思った父親の狼が振り返るよりも先に、ねっとりとした艶気を含んだ女の低い声が父親の狼の鼓膜を震わせました。
「そのガキ、お前の息子だったのか」
ヒッ、と小さく息を飲む音が聞こえました。
「あ、あああ、赤ずきん……!?」
父親の狼の後ろの正面にいたのは、赤ずきんのお母さんでした。父親の狼は小さな狼を後ろ手で自分の背中に隠しました。
父親の狼の耳は頭に張り付くようにたたまれ、尻尾が足の間に巻き込まれています。
「やめな。私はもう赤ずきんじゃないんだ。今はこの子が赤ずきんだ」
「そ、そうですか。大変可愛らしいお嬢さんですね」
お母さんに背中を押されて、赤ずきんは突然矢面に立たされます。父親の狼は赤ずきんのことを可愛らしいと評しながらも、一挙手一投足を見逃すまいと赤ずきんのお母さんから一瞬も目を離していませんでした。
「可愛らしい……? そりゃ私が不細工だったって言いたいのかい?」
「そ、そんなことは一言も――」
「何だって?」
「何でも、ありません……」
赤ずきんは父親の狼の後ろから顔を覗かせた小さな狼とアイコンタクトを取りましたが、分かったことはお互いに何も分かっていないということでした。
小さな狼の父親が赤ずきんのお母さんを異常に恐れていると言うこと以外は――。
「用がないならさっさと森へ帰ったらどうだい?」
「は? おばさんが――」
「そ、そうですね。今帰りますすぐ帰りますただいま帰ります!」
父親の狼は小さな狼の口を塞ぐと小脇に抱えて一目散に森へ帰っていきました。
夜、赤ずきんはお母さんに聞いてみました。
「お母さんあの人に何したの?」
あの人とはもちろん小さな狼の父親の狼のことです。
「お前が知らなくてもいいことさ」
お母さんがそう言うのだから、きっと本当に知らなくてもいいことなのだろうと赤ずきんは思いました。
ただ赤ずきんはその『知らなくてもいいこと』が、お父さんとお母さんが赤ずきんを早く寝付かせたがる夜に行われることと関係がないといいなとも思いました。
あられもないコスチューム姿のお母さんも好きではないし、罵られながら馬の鞭で叩かれて悦んでいるお父さんも好きではないからです。
それから赤ずきんは時々森へ遊びに行くようになりました。
お母さんの手前、お婆さんの所へ行くと嘘をつくこともありましたし、森の実りを採りに行くと嘘をつくこともありました。
小さな狼とは色んなことをして遊びました。
川遊びをして二人でびしょぬれになったり、森で追いかけっこをして体中土や草の汁だらけになったり、鳥の巣を覗いて突かれたこともありました。
木の実が沢山なる場所やキノコが沢山生える場所を教えてもらったり、狼流の狩りの仕方も教えてもらいました。
小さな狼と一緒にいると、暗く深い森も全く怖くありませんでした。
「赤ずきん!」
小さな狼は赤ずきんが遊びに来てくれるようになったのが嬉しいのか、少ししつこいくらいにくっついて甘えてくるようになりました。
ふざけてのしかかってきたり、耳の後ろを赤ずきんの胸元に擦りつけてくるのです。
「だめ。あまりくっつかないで」
「……どうして?」
「うちのお母さんが狼嫌いなの知ってるでしょ? この前だってケープに毛がついてて誤魔化すの大変だったんだから」
ここ最近で小さな狼は成長期に入ったのか、体が赤ずきんよりも少しだけ大きくなり退かすのも一苦労です。
「――でも、ちゃんとにおいつけないと……」
服に付いている葉や草を掃っている赤ずきんに小さな狼は呟くように言いました。
「今何か言った?」
「ううん、何でもないよ。分かった、あんまりくっつかないようにするね。でもさ、手を繋ぐくらいならいいよね?」
小さな狼はいつも通りの無邪気な笑顔で赤ずきんの手を取って、いつも遊んでいる森の奥へ歩き出しました。
しかし、楽しい時間も長くは続きません。
十一歳になった赤ずきんは厳しいと評判の町の女子校へ行くことになりました。その学校は全寮制で基本的にホリデーと家族の不幸以外で家に帰ることができません。
赤ずきんはそれをどことなく憂鬱な気分で小さな狼に告げました。
「……そっか。じゃあしばらく赤ずきんに会えないんだ」
「でもホリデーには帰ってこられるから」
小さな狼は寂しそうに首を横に振ります。
「『狼』の習わしでね、僕も集落を出て行かなきゃいけないんだ。独りで旅をして、他の集落で暮らしたりして、外の世界を知ることが目的らしいよ」
「そうなんだ……。私は十七歳の年に帰ってくるけど、そっちはどれくらいなの?」
「わからない、と言うか決まってない。他の集落を気に入ったり、旅暮らしが性に合ったりして帰ってこない人もいるから」
「あなたは帰ってくるのよね……?」
それを聞いて赤ずきんは不安になりました。もしかしたら小さな狼も帰ってこないかもしれないのです。
すると小さな狼はからかうように言います。
「赤ずきんこそ、町の方が楽しくて帰ってこなかったりして」
「ちゃんと帰って来るわよ!」
「ん、じゃあ待ってる。先に帰ってきて、赤ずきんを待ってるよ」
ふわりと微笑んだ小さな狼に、赤ずきんはこの時初めて胸の内がほのかに動くような小さな違和感を覚えました。
赤ずきんは十七歳になった年に村へ帰ってきました。
可憐だった少女は美しく成長していました。蜂蜜のような金色の髪と澄み渡る空のような青色の瞳は変わりませんが、子供らしく丸みを帯びていた輪郭も整い、身長も随分伸びて手足はすらりとしています。
「よう、赤ずきん。帰ってきてたのか」
「お帰り赤ずきん。学校は楽しかったかい?」
赤ずきんが帰ってきて早々言いつけられた水汲みをしていると、双子の狩人がやってきました。
今日も森で狩りをしていたのか、手に兎をぶら下げていました。
「ただいま。授業は退屈で課題は面倒臭かったけど、町は面白かったよ。色んなモノも人もお店もあったしね」
「正直、村の皆は赤ずきんは帰ってこないんじゃないかと言ってたんだ」
「俺は帰ってくると思ってたぜ」
そんな風に思われていたのかと、赤ずきんは苦笑いしました。
赤ずきんはよく買い出しに行くお父さんにくっついて町へ行っていたので、村人はそう思ったのでしょう。
「……そうだね。約束がなかったら、帰ってこなかったと思う」
町に残ることを考えなかったわけではありません。友達の多くは町で暮らしていましたし、残るように誘われもしたのです。
しかし赤ずきんには待っていてくれているかもしれない大切な存在がいるのです。
「約束?」
「ううん、何でもないの。今の忘れて?」
赤ずきんはさっさと水汲みを終わらせると、森へと向かいました。
目指したのは小さな狼といつも遊んでいた森の奥でした。
そしてその後ろ姿を双子の狩人は何とも言えない表情で見ていたのでした。
そこに小さな狼の姿はありませんでした。
赤ずきんは立ち尽くしました。
いつも二人で座っていた倒木は苔蒸し、所々に若木が生えていました。ここに来るときに使っていた獣道が消えかけていた時点で予想はしていましたが、思っていた以上にその事実は赤ずきんの胸の内に重く暗い影を落としました。
どれくらいの時間そうしていたのか分かりません。このままここにいても仕方がないので、赤ずきんが帰ろうとしたその時です。
「赤ずきん」
赤ずきんは呼ばれて振り返りました。まるでビターチョコレートのような、聞いたことのない声でした。
そこにいたのは赤ずきんより頭一つ背の高い若い狼でした。
かっこいいだとかイケメンだとかハンサムだとかを思うより先に驚きが勝りました。その狼は今までに見た大人の狼の誰よりも群を抜いて美しかったのです。
この日はあいにくの曇り空でしたが、どういうわけか目の前の狼にだけ太陽の光が当たっているかのように輝いて見えるのでした。
「赤ずきん? どうしたの?」
目を見開いたまま固まっている赤ずきんを心配してか、小さな狼――小さかった狼が顔を覗きこみます。
「顔が赤いみたいだけど、大丈夫?」
赤ずきんの頬に触れる手も、狼だからということもあるのでしょうが、あの頃とは比べ物にならないほど大きくなっていました。
「ううん、なんでもないよ」
「そう? ならよかった」
小さな狼は誰もバカにできない立派な狼になっていたのです。
「あのね、赤ずきん。その、お帰り」
小さかった狼の照れくさそうな笑顔には、昔の、小さな狼だった頃の面影がありました。
抑えようとして抑えきれなかったのか、わずかに尾が振れています。
「ただいま」
見違えるような成長をしても、中身は自分が知っている小さな狼のままなのだなと赤ずきんは思いました。
その日、赤ずきんは町でのことを、狼は旅でのことなどを二人は夕方近くまで話をしました。
赤ずきんと狼はまた昔のように森で会うようになりました。
昔のように泥だらけになって遊ぶようなことはしませんでしたが、森を散策したり、お弁当を食べながらおしゃべりをしたりしました。
また、楽しい時間が戻ってきたのです。
ある日、赤ずきんは森へ出かけて行きました。
お母さんに用意してもらったパンやローストチキンや葡萄酒が入ったバスケットを持って、森の向うに住んでいるお婆さんの所へ向かっていました。
「あ、赤ずきんだ」
獣道から狼がひょっこりと顔を出しました。
「どこに行くの?」
赤ずきんは狼の髪についている葉っぱを取ってあげながら言いました。
「お婆さんの所だよ」
「あれ? 一緒に住んでるんじゃなかったっけ?」
「腰が治ったら帰っちゃったんだって。歳も歳なんだから一緒に住もうってお母さんは言ったらしいんだけど、年寄り扱いするなって怒っちゃったみたい」
「そうなんだ。お婆さんの所ってことは森を通るんだよね? じゃあ僕が送って行ってあげるよ」
「いいよ、知らない道じゃないし」
「だーめ。僕が送りたいから送るの」
狼は赤ずきんの手からバスケットを取ると、手をつないで道を歩き出しました。
お婆さんの家までもう少しという所で、狼は立ち止まりました。
「あっ! そう言えばこの近くに凄く綺麗な花が咲いてる場所があるんだけど、寄ってかない? お婆さんへのお土産に丁度いいと思うんだ」
「そうね……」
赤ずきんは少し考えます。時間には余裕がありますし、綺麗な花を持って行けばお婆さんはきっと喜んでくれるはずです。
「うん、そうする。案内お願いできる?」
「勿論だよ!」
狼は赤ずきんの手を引いて獣道へと入って行きました。
「うわぁ! 綺麗! これ摘んじゃっていいの? 本当に?」
「好きなだけどうぞ」
そこは森の開けた場所にある一面の花畑でした。色とりどりの花々がまるでパッチワークのように咲き乱れていました。風が吹くたびにいい香りが鼻をくすぐります。
赤ずきんは夢中になって花を摘みました。もはやお婆さんのためと言うより、完全にこの花畑を満喫していました。
狼はその様子を微笑ましく見ていました。
「――あれ?」
ふと気がつくと、狼の姿が見えなくなっていました。先ほどまでいた場所にはバスケットが置いてあるだけです。
慌てて辺りを見回すと、狼は赤ずきんの後ろに立っていました。
「もー、驚かさないでよ。どっか行っちゃったのかと思った」
狼は何を考えているのか読み取れない無表情で赤ずきんを見下ろしていました。
そして、おもむろに口を開きます。
「君ってさ、本当に警戒心ないんだね。お母さんのお腹の中に置いてきちゃったのかな?」
狼の口からは今まで聞いたことのない、平坦な口調でした。
赤ずきんは狼の雰囲気が変わったことを感じ取ったのでしょう、無意識に後ずさりしていました。
「……それって、どういう意味?」
「こういう意味だよ?」
不意打ちだったこともあり、とん、と肩を押されて赤ずきんは簡単に倒れ込んでしまいました。
草花がクッションになったおかげで痛みはさほど感じませんでしたが、起き上がろうにも狼に覆い被さられていてそれは叶いませんでした。
「ちょっと、な――」
何するのよ、と続くはずだった言葉は赤ずきんの喉の奥で消えてしまいました。
狼の金色の瞳に見つめられて、動くことが出来なくなってしまったのです。
目の前の狼が小さな狼だったころ、じゃれつかれて押し倒されたりのしかかられたりしましたが、その時とは雰囲気が違います。
これが学校で流行っていた例の壁ドンならぬ床ドンかと、場違いなことを考えるくらいには混乱していました。
「狼には気を付けなさいって、お母さんに言われなかった? 狼だって男なんだって、町の学校じゃ教えてくれなかった?」
少しだけ憂いを含んだような妖艶な雰囲気を纏った狼の顔が、赤ずきんの視界を埋め尽くします。
これが小さくて泣き虫だと村人にすらバカにされていた狼だと誰が想像出来るでしょう。
小さな狼は、もうどこにもいませんでした。
狼の大きな手が赤ずきんの頬に添えられました。その味を想像するように鋭い爪のある指で赤ずきんの可愛らしい唇をなぞります。
赤ずきんの表情が強張ります。それを見て狼は満足そうな笑みを口元に浮かべましたが、それは一瞬のことだったので赤ずきんが知ることはありませんでした。
赤いケープの紐に狼の指がかかり、しゅるり、と音を立てて紐が解かれます。
薄い皮膚の下で脈打つ血潮を確かめるように、赤ずきんの首に指を這わせました。
赤ずきんの反応を楽しんでいるのでしょう。狼は赤ずきんの白い肌に傷が付かないように優しく爪を立てます。
そしてその鋭い爪は簡単に赤ずきんの柔肌を引き裂くことができるのです。
赤ずきんは生まれて初めて、狼を怖いと思いました。
「……私を食べるの?」
「食べるよ」
熱っぽい湿り気を帯びた獣の息が首筋にかかり、赤ずきんは思わず震えてしまいました。
「どうして?」
「そんなの決まってるじゃないか」
赤ずきんの問いかけに狼は耳元で囁きます。
「――『狼は赤ずきんを食べるもの』だからさ」
それはまるで飢えきった凶暴な恋心のようでした。
「怖がらなくても大丈夫だよ。優しく食べてあげるから」
皮膚を甘く咬む狼の歯は鋭く、ぬるりとした舌は少しだけざらついて、生暖かいのでした。
最後に赤ずきんが見たのは、蜜がしたたり落ちるような甘い笑みを浮かべる狼でした。
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