第32話
彼の発言を耳にしたルチルは無言で、彼の言葉を否定でもするかのように頭を左右に振り、後ずさった。その手には谷の屋敷で彼から手渡されたハンカチを握りしめられていた。
「まあ、優秀な勇者さんはもう気付いていたのだろうけどね」
「それは…」
彼の言葉に戸惑い、勇者の彼女は狼狽える。
やっぱりか、と頷くラムの横で、郁は「えぇ?」と戸惑い気味な様子で口を挟んできた。
「ちょ、ほんとに?優雅な休暇を楽しむ貴族さんじゃなかったわけ?」
「や、それどんなイメージだよ…」
物語上でいえば‟悪”だとか‟敵”に映るであろう魔王が目の前に姿を現したというのに、別の物語を生きてきた郁はあまり警戒をしていない。
「おや、私の言っていることは本当だよ?ほら、杖」
そんな郁の愉快なイメージに呆れるラムを余所に、魔王だと自称する彼はひょい、と何もない空間からいとも簡単に杖を手にした。ゴテゴテした魔法石だの何だのと、無駄な装飾品は一切ないシンプルな杖をこちらに見せてくる。
「龍を呼ぼうか。ちなみにね、あの子の名は‟トト”と言うんだよ」
そう言えばレース中に顔を出してきた妖精がそんな事を言っていたな、とラムはぼんやり思い出す。
何も声は発していないというのに、声なき声に反応したのか絵に描いた様な白い雲の上から例の竜が姿を現した。レース直前やレース中に見せていた獰猛な様子はなく、酷く落ち着いた顔色でこちらに近付いてくる。
その様子を見ていたラムは「ん?」と眉根を寄せ、何か考え込む仕草をする。
「何よ、どうしたっての?」
「や…こうやって真ん前からあの竜を見ると…なんか…どっかで見たことがあるような……」
小脇を突いてくる郁を避けつつ、記憶を辿る。少しの間をおいて「あぁ、そうか」とラムはすぐに納得した。
「森で俺を襲ったの、あの龍だったわ…」
レース前は極度の緊張状態できちんと見ていなかったし、レース中はまず正面から龍の姿を見ることはなかった。あれだけ殺意を秘めた瞳をしていた龍だ、ラムにあんな態度をしていたのも頷ける。寧ろ、頭を嚙み千切られなかっただけマシだ。
———あれ、じゃあなんで勇者に懐いてるんだ?
魔王の宿敵に当たるであろう勇者にやけに懐いていた龍。その関係性に軽く頭を悩ませるもすぐ横から郁が堪えきれぬように「ぷっ」と吹き出した。
「何、あんたあの竜に殺されかけたの二度目だったの?」
カッコ悪っ、と郁は大笑いをする。
ラムは「なんだよ、悪いか!」と少々顔を赤らめつつムキになっているのと同時に悠々とこちらへ龍が到着した。その姿に驚いた街の住人たちは散り散りとなり、駅前の広場にはラムたちを除いて誰もいなくなり、閑散とした様子に様変わりした。
「トトは人見知りでね、わたしのいない場で知らない人に会うと、真っ先に噛みつこうとしたり攻撃をしようとしてしまうんだ」
魔王の彼はにこやかにそう告げるがなんて物騒な話だ。ここまで生きてこれたことにラムは静かに安堵する。
「だが、まあ、勇者さんのことは物語の進行上、前もって知っていたからね。だからこの街に着くまで、それと街に着いてからも素直に背中に乗せてあげたのだろうね」
彼は「偉いね」と呟いて龍の頬の辺りを撫でてやっている。
その龍の目はこれまでにないくらい澄み渡り、ラムを見るあの血走った赤い目から宝石のルビーでもはめ込んだような瞳を魔王に向けている。
「終わりにしよう」
そうして、突然、彼は物語の終わりを申し込んできた。
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