第3話

 11月の第3土曜日。

 アルバイト終了後、調剤薬局の近くにある大型スーパーで食材を購入し、速水さん宅へと向かった。薬局から彼のマンションまでは、徒歩で十分行ける距離だ。

 昨日彼に宣言した通り、本日の夕食は私が担当する。当初より、最低一回は私が料理すると、自分の中で勝手に決めていた。

 食べさせてもらってばかりじゃ、さすがに悪いもんね。

「……にしても、今日も忙しかったなぁ」

 朝からついさきほどまでを回想し、溜息まじりに漏らしたひとりごと。この日も、あまりの激務に目を回した。

 私がお世話になっている薬局は、休まるときがほとんどない。絶えず一日じゅう、患者が処方箋を持ってやってくる。というのも、それはそれは大きな総合病院が、向かい側にどどーんと構えているからである。あの病院のおかげで、ウチの薬局の経営が成り立っているといっても過言ではない。

 彼のマンションに到着したときには、時刻はすでに午後6時を回っていた。

 ここは入り口が二重になっており、まず1階のエントランスに入れてもらえないことには、15階の彼の部屋まで行きつくことができない。

 いつものように、エントランスのインターホンで彼に連絡を取ろうと指を伸ばした。

 そのとき。

「悪ぃ! 待ったかっ?」

 背後から声をかけられた。腰をひねるようにして、くるっと振り向く。

「いえ、ちょうど今来たところです」

「マジか! よかった~」

 この外気温だというのに、彼はほんの少し額を汗で滲ませていた。息も切れている。どうやら相当な勢いで走ってきたらしい。

「お仕事だったんですか?」

「ああ、急に出版社のヤツから呼び出されてな。この時間じゃなかったら、会社いねぇっつーから」

「そうだったんですか。お疲れ様です」

 開錠してくれた彼に続いてマンション内へと入る。私の手もとを見て、食料を詰め込んだこのマイバッグを持つことを申し出てくれた。気の毒だと思いつつも、ぺこりと頭を下げ、遠慮がちに手渡す。

「お前も今日は朝からバイトだったんだろ?」

「あ、はい」

「お疲れさん」

 柔和な笑顔とともにかけてくれた、ねぎらいの言葉。おのずと頬が緩む。いろいろな人からこう言ってもらえるが、彼から言われると、なんだか胸がくすぐったい。……理由はよくわからないけど。

 エレベーターを利用し、15階の彼の部屋へと向かう。途中、彼はマンションの住民数人から親しげに話しかけられていた。会話の内容は、いわゆる世間話だったのだが、その光景に私は少々驚いた。

 偏見かもしれないけれど、同じマンションに住んでいるからといって、挨拶を交わすくらいならまだしも、会う人会う人とあんなふうに睦まじくできるものだろうか? 少なくとも、私の住んでいるマンションでは、こんな光景はお目にかかれない。ともすれば、階が違えばどんな人が住んでいるかもわからないような環境だ。

 ……ここのマンションの人たちは、仲がいいのかな?

 そんなことを考えているうちに辿りついた彼の部屋。『勝手知ったる』という言葉がぴったりと当てはまるかのごとく、上着を玄関にかけて、迷わずキッチンを目指す。

「随分買い込んだな。何作るんだ?」

 食材の入ったバッグをここまで運んでくれた彼が尋ねてきた。なので、私は昨日と同じ悪そうな笑顔で答えて差し上げる。

「秘密です」

「え? ……ちょっ——」

 それから、目を丸くした彼のその大きな背中を両手で押し、ダイニングのほうへと誘導する。……というか、追いやる。

「今日、速水さんはここ立ち入り禁止ですからね」

 さらに、事件現場よろしくキープアウト。

「はっ!?」

「っていうか、何もしないでください」

 仕上げに、にっこりスマイル。

 準備から片づけいっさいを私が引き受ける——これもまた、昨日から自分の中で勝手に決めていたことだ。

 家の主をキッチンから追い出し、満足した私は、バッグの中から材料を取り出して、さっそく下ごしらえに取りかかった。

 野菜を洗い、皮をむき、トントンと包丁を鳴らす。鍋に水を入れて火にかけ、その隣のコンロでは油を注いだ鉄鍋の加熱を開始した。

 ここで、何気なく顔を上げてみた。すると、ダイニングテーブルに左肘をつき、頭をもたげて座っている速水さんの実に不服そうなジト目と、私のキョトンとしたまなこが、カウンター越しにぶつかった。

「上げ膳据え膳、落ち着かねぇんだけど」

 ……おや?

「奇遇ですね。私も初日に同じこと思ってましたよ」

 まるで、あの日の私の心の中を覗いたかのような発言。

「いやいや、俺ここの家主だから。お前客じゃん。立場ちげぇだろ」

「あははっ、確かに」

「……」

「いいじゃないですか、たまには。結構時間かかると思うから、リビングでくつろいでてくださいよ」

 もう一度さっきのスマイルで『ねっ』と押し切ると、観念してくれたのか、彼はフッと笑って立ち上がり、リビングへと歩いていった。ソファに腰掛け、ガラステーブルの下をなにやらゴソゴソと漁っている。その手もとには、黒のシックなノートパソコンが。

 なんと、くつろぐどころか、仕事をおっぱじめてしまったご様子だ。……でも、それでも構わない。

 私に割いてくれている彼の貴重な時間を、彼自身のために使うことができるのなら、そちらのほうがいいに決まっている。

 そんな彼の姿を見て安心した私は、1分でも早く夕食の支度ができるようにと、静かに意気込んだ。




「いい匂いだな。……おっ、美味そう」

 仕事がひと段落したのか(はたまた匂いにつられたのか)、私が呼ぶ前にダイニングへ戻ってきた速水さんは、テーブルの上にセッティングした私の料理に好感を示してくれた。とりあえず、ほっとする。

 何を作ろうか迷いに迷ったすえ、この日チョイスしたメニューは、肉じゃがに揚げ茄子の味噌汁、そして大根サラダ(梅肉和え)だ。今まで彼が作ってくれた料理がすべて洋風のそれだったということや、自身の得意分野を考慮したうえで、この純和風献立に決定した。

「味見したかぎりでは、まあまあの出来だと思います。速水さんには及びませんけど」

 最近はご無沙汰になってしまっていたが、料理をするのは、どちらかといえば好きなほうだ。『だったら、ぶっ倒れる前に自分で作ってちゃんと食べろよ!』という話だろうが、それはそっと置いておく。

 彼は手を合わせると、まずはじめに味噌汁をひとくちすすった。その姿をじっと眺め、ドキドキしながら反応を待つ。

「んっ、美味いっ!」

「ほんとですかっ? よかったー……」

 彼のお褒めの言葉に安堵する。無意識に入れてしまっていた肩の力が、すーっと抜けていくのがわかった。彼に感化され、私も食事を開始する。

 ……あ、マジでおいしい。

 肉じゃがは、いい具合に味が染み込んでいた。メインのじゃがいもはホクホクしているし、牛肉も硬くなっていない。そして、さっぱりとした大根サラダが、味がしっかりしているほかのふた品とのバランスを上手く調整してくれていた。

 どうやら、私の料理の腕は鈍っていなかったようだ。

「ほんと、美味いよ。……俺、小さいころばあさんに育てられたから、こういう料理、すげぇ懐かしい」

 箸を置き、私の作った料理を見渡すようにして彼が言った。

「そう、なんですか」

 なので、なんとなく私も箸を止めて、彼の話に耳を傾ける。

「ああ。両親はふたりとも忙しくて、家にほとんどいなかったからな。中学卒業するくらいまでは、ばあさんから学校通ってた」

 初めて耳にする速水さんの過去。

 湧き上がってくるのだろう懐古の情が、彼の表情には滲み出ていた。

「じゃあ、速水さんは『おばあちゃん子』なんですね」

「ん? あー……そうだな」

 少々考え込んだあと、はにかむように笑った彼の顔は、まるで幼い少年のように輝いて見えた。

 ……まただ。また、胸がくすぐったい。

 それから、私と目を合わせることなく、視線を落としたまま、彼はおばあさんへの想いを静かに語ってくれた。

「それはもう穏やかな人でな。俺がバカやっても、笑って許してくれた。でも、いざってときにはちゃんと叱ってくれて。……7年前、やっと恩返しができるようになったと思った矢先に亡くなってしまってな。最後の最後までしてもらってばっかで、結局何もできなかった」

 このとき、彼の口もとは笑っていたが、目もとは悔しさと虚しさに歪んでいた。言葉ではとうてい表しきれない感情が交錯しているのだろう。

 けれど、彼が負い目を感じる必要なんてきっとない。彼を見ていればわかる。

「そんなことないですよ。孫の速水さんと一緒にいられて、その成長を間近で見られて、おばあさん幸せだったと思います」

 慰めるつもりなんかない。これは、この4日を彼と過ごした純粋な意見だ。

 私の言葉に、彼が顔を上げた。その見開いた目を真っ直ぐに見据えて伝える。

「速水さんが、おばあさんに感謝してるのと同じように、おばあさんも速水さんに感謝してると思います」

 優しくしてもらった分だけ、彼もそうしているはずだから。

「……そう思うか?」

「はい」

「そっか……ありがとな」

 ふわりと微笑むと、彼は私にお礼を言った。つられて私も破顔する。その瞬間、なんとも言えないあたたかさに心が包まれていくのを感じた。この気持ちの名前はわからないけれど、なんだかとても心地いい。

 その後、食事を再開した私たちは、なごやかに談笑を交えながら、このひとときを満喫した。

 時刻は、午後8時になろうとしていた。

「今日は片づけも私がやるんで、速水さんはゆっくりしててくださいね」

 食べ終わった食器類をシンクへと運び、テーブルを布巾で拭きながら、にこやかに釘を刺す。このある種のわがままに納得し、付き合ってくれている彼は、『はいはい』と子どもをあやすかのごとく頷いた。

「んじゃあ、お言葉に甘えてベランダで煙草吸ってくるわ」

「えっ、中で吸えばいいじゃないですか。外寒いですよ?」

わけぇ子に受動喫煙なんざさせらんねぇよ」

「った!」

 私の額に軽くデコピンをかますと、彼はリビングのガラステーブルに向かった。そして、その上に置いてあった煙草ケースと携帯用の灰皿を持つと、そのままベランダへと出ていってしまったのだ。

 地味に痛む額をさすりながら、あることに気づく。

 律義というかなんというか……ああいうとこ、ほんとちゃんとしてるんだよね。

 彼が煙草を吸うことは知っていた。けれど、実際に吸っているところを見るのは初めてだったのだ。

 改めて彼の人柄に感心したところで、キッチンへと戻る。煙草をふかす彼の背中を視界の端に収めながら、私はあと片づけに取りかかった。




「終わりましたよー」

「おー、サンキュー」

「寒くないんですか?」

「ああ、意外と平気だな」

 任務を完遂した私は、いまだ外に出たままの速水さんのもとを訪れた。

 煙草を吸い終えた様子の彼は、ベランダの手摺り部分に寄りかかり、街を見下ろしている。風は冷たいが、彼の言うとおり、不思議と寒さはそれほど感じなかった。

 彼の右隣に立ち、彼と同じように街に目を向ける。眼前には、あかあかとライトの海が一面に広がっていた。

「……お前、すげぇ手慣れてんのな。いくらひとり暮らししてるっつっても、あそこまでなかなかできるもんじゃねぇだろ」

 くるりと向きを変え、今度は手摺りにその背中を預けると、速水さんは突然私のことをこう賞賛してくれた。実のところ、その点についてはある程度自負しているし、理由も明確にわかっているので、ひと呼吸置いて静かに答える。

「ウチ、母子家庭なんですよ。私が中学上がる前に両親離婚して……。母が仕事でいないときは、私が家事やってたから……だからかな」

「えっ? ……あー、と……悪ぃ」

「気にしないでください。ほんと、そんなふうに気をつかわれたら、逆にどうリアクションしていいかわかんないから」

 やらかしたとばかりに眉を下げ、申し訳なさそうに謝る彼に、気づかいは無用だと笑って告げる。そして、大都会の明かりを瞳に映しながら、今度は私が自身の過去を語った。

「ほんとは、実家から通える大学に進学する予定だったんです。だけど『本当に行きたいところに行きなさい』って、母が言ってくれて……それで、こっちに」

 する必要のない苦労をしてまで、女手ひとつで私を育ててくれた母。本当は、拒んでも良かったのに。

 母には、いくら謝罪をしても、いくら感謝をしても、足りないくらいだ。

「……なるほどな。お前がバイトに励んでる一番の理由がわかった。……薬剤師には、どうしてなろうと思ったんだ?」

 合点がいったと首を縦に2、3回ほど振った彼は、次に、私の進路決定の要因について尋ねてきた。

「……これ言うと、速水さんに『学習能力なさすぎだろ』って怒られるかもしれないんですけど」

「?」

 苦笑まじりに前置きし、それはそれは情けない『過ぎし日の自分』に関して、なかば開き直り気味にカミングアウトした。

「私、中2のときに拒食症で倒れて、1ヶ月間入院してたことがあるんですよ」

「!? お、前……」

「呆れたでしょ?」

「いや、そりゃそうだろ……」

 キャラキャラと笑う私とは対照的に、速水さんは左手で自身の額を押さえてうなだれた。予想どおりの反応だ。

「両親が離婚して、1年半ぐらい経ってたのかな? 2学期の中ごろだったと思うんですけど……」

 目を閉じると、当時の自分の姿が瞼の裏に映った。

 大切な大切な、あの人の姿と一緒に。

「そのとき、定期処方を持って服薬指導に来てくれてた薬剤師のお姉さんが、すごく良くしてくれたんです」

「……」

 私が入院していた市民病院は、担当の薬剤師が、毎週決まった曜日に1週間分の定期薬を病室まで持ってきてくれていた。

 ふわふわとした茶色のロングヘアーに、睫毛の長い大きな目が特徴的な、とてもきれいな人だった。今でもはっきりと覚えている。薬剤師の鈴原すずはら先生。下の名前はわからないけれど、白衣に付けられた名札には『鈴原』と書かれていた。

「休憩時間にも、私の様子見にきてくれたりとかして……話相手にまでなってくれて。普通、薬剤師さんはそこまでしないと思うんですけど」

 両親が離婚したことや、学校を休まなければならなくなってしまったこと……いろいろな負の要素が積み重なり、塞ぎ込んでいた私のもとへ、鈴原先生は毎日のように足を運んでくれた。

「本当に優しい人でした。その人に憧れて、この進路を選んだんです。あんなに立派な薬剤師になれる自信は、ないですけど」

 彼女の笑顔が、言葉が、当時の私を励ましてくれた。さらには、希望と目標までも与えてくれた。

 もし、また彼女に会える機会があったなら、その時は直接お礼を言いたい。いつか訪れるその日のためにも、あと2年できっちり大学を卒業し、国家試験にも合格しなければならないのだ。

「……偉いな」

 と、今まで黙ったまま、真剣な面持ちで私の話を聞いてくれていた彼が、ここでようやく口を開いた。

「なれるよ」

「え?」

 私に向けられた力強い眼差しと、鼓膜を揺らす心地いい低音。

「お前なら、立派な薬剤師にきっとなれる」

 なぜだろう? 彼のこの双眸を見ていると、彼のこの声を聞いていると……胸がいっぱいになる。

「ありがとう、ございます」

 つらくなんかないのに。

「じゃあ、今はお母さんひとりで神戸にいるんだろ?」

「はい」

 悲しくなんかないのに。

「なら、なおさら年末年始は帰省しないとな」

「……はい」


 泣きそうになる——。

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