第29話 推参/御免/関東大戦

 九月。相模さがみの空は、夏の名残を残していた。

 浜手よりの風が潮の香りをごく僅かに運んでくる。

 そんな玉縄たまなわ城、本丸御殿の廊下に、高笑いが響いた。



「おーっほっほっほ! やりましたわ! 大勝利ですわ!」



 声の主は、出口冴でぐちさえ。三浦家一門の娘だ。

 彼女が小躍りしながら出てきた部屋の中では、あぐらをかき、腕組して座る三浦荒次郎みうらあらじろうと、愕然とした様子の真里谷初音まりやつはつねの姿があった。



「……いま、冴さんの言ったことは……本当なのか?」



 縋るように問うエルフの少女に、7尺5寸の巨漢は黙然とうなずき、言った。



「本当だ。冴さんに子が出来た。俺の子だ」


「い、いつのまに……」



 ずーん、と両手を地につく初音。

 その耳は、彼女の心情を表すように、地を向いて垂れている。



「たしかに、冴さんになら手を出していいって言ったけど……許可したのが三月で……いま二ヶ月だとしたら、七月頭にはもうあのおっぱいは荒次郎のものになってたのか……ちくしょう。ちくしょう」


「なぜ非難されているのか、理由が分からん。頑張ったのに」


「頑張れること自体が許せんというか、後輩に追い抜かれてやるせないというか……このスケベ」



 ぎろりと睨む初音に、荒次郎は額に冷や汗を流しながら、つぶやいた。



「なぜだ」



 荒次郎が首をかしげていると、とてとてと廊下を走る足音が聞こえてきた。

 初音が身をすくめた。聞き覚えのある足音だが、いつもよりは幾分乱雑で、初音はそこから敏感に、足音の主の怒りを感じ取っていた。



「おひいさまっ!」



 怒鳴りこんできたのは、まだ幼い少女だった。

 初音の侍女、まつだ。彼女は怒りを隠せない様子で、初音に向かって声を荒げる。



「――お姫さまがぼやぼやしてるから、冴さまなんかにさきをこされちゃったじゃないですかっ! 真里谷城の父君になんと言い訳なさるおつもりですかっ!」


「……心配するな。俺の正妻は初音エルフさんだ。たとえ冴さんが男を産もうともな。そのあたり、冴さんにもよく言い聞かせている。父の出口茂忠でぐちしげただ殿にもな」



 冴に自慢でもされたのか、まつは口惜しげな様子を隠さない。

 あまりの剣幕に、荒次郎は言い聞かせるようにして彼女をなだめた。

 しかし、弁護の内容に、エルフの少女はものすごく微妙な表情をつくる。



「フォローには感謝するんだけど……何があっても絶対私のことをあきらめないっていう断固とした意思が伝わってきて、素直に喜べないんだけど」


「――お姫さま?」



 ふたたび鬼の表情になったまつに、エルフの少女は身をすくめる。

 そこへまた、廊下から別の声が投げかけられた。



「カカッ。話は聞いたぞっ! おめでとう、荒次郎くん」



 と、入ってきたのは禿頭黒髭の老人。三浦猪牙ノ助みうらちょきのすけだ。

 この矍鑠かくしゃくとした老人は、ずかずかと部屋に入ると、荒次郎の隣にどっかと座り、その大きな肩に手を置いて笑った。



「カカッ。まあ、まずはめでたい! 三浦家のためにも、子は早く作るに越したことはないわ。そこの残念娘もせいぜい励むがよかろう!」



 ――励むか!



 喉元まで出かかった言葉を、初音はかろうじて飲み込んだ。

 まつの手前、夜の交渉を否定するような言葉を吐くわけにはいかない。

 初音は仏頂面になって、もごもごと口を動かすことしかできなかった。



「ともあれ、冴さんには安全な環境で子を産んでもらわねばならん。最前線より勝手の利くさとで産んでもらうのがいいと思うが」



 荒次郎はそう言ったが、後日それを冴に伝えた時、彼女は即座に首を横に振った。



「嫌ですわ。大事な身なのは重々承知。ですけれど、わたくしは最後まで荒次郎さまのそばで御仕えさせていただきたいのです」



 奥方さまには負けられませんし。と、少女はつけ加えた。


 ともあれ。

 冴が荒次郎の側室に落ち着いたことで、一番ほっとしたのは、真里谷初音かもしれない。



 ――これで奥の統制は冴さんに預けられる。



 先代三浦道寸みうらどうすんの側妾であった八重は、道寸の死とともに剃髪して尼になってしまった。

 玉縄城には、まだ女が少ないとはいえ、それでも女性たちのまとめ役などという作業は、元が男の初音には精神的によろしくない。


 しかし、そううまくはいかなかった。

 不機嫌絶頂といった風情の幼い侍女は、このうえ夫人の裁量権まで渡してなるものか、と、冴に相談することを許さない。初音はあきらめて肩を落とすしかなかった。







 冴の懐妊の報は、戦続きで倦怠の見え始めた城中に明るい色どりをもたらした。

 その陰で、実兄真里谷信保まりやつのぶやすから柔らかい叱責の手紙をもらったエルフの少女は、色々な葛藤に頭を悩ませていた。


 そんな折。



 ――長尾景春ながおかげはる死す。



 玉縄城に、訃報が飛び込んできた。

 川越かわごえ城の上杉朝興うえすぎともおきからの知らせである。

 山内やまのうち上杉方で、扇谷おうぎがやつ上杉にも密かに通じている成田なりた氏からの情報で、信頼性は相当に高い。



「来たかっ!」



 荒次郎と猪牙ノ助が同時に膝を打ち、初音が両手を胸元でぎゅっと握りしめた。

 まさにこれこそ、荒次郎たちが待っていた機会だった。


 長尾景春。

 白井長尾家に生まれながら、その反骨ゆえに、山内上杉家の家宰かさいの地位に就けず、主家に対して反旗を翻した一代の梟雄だ。

 その後、古河公方こがくぼう、扇谷上杉と掲げる旗を転々としながら、一貫して主家に、そして名将、太田道灌おおたどうかんに抗い続けた不屈の闘将だ。

 利害の一致からか、反骨が響きあったのか、伊勢宗瑞いせそうずいとは長らく同盟関係にあった。相模侵攻に際しても、景春は宗瑞を大いに助けている。


 その男が死んだ。

 すでに一線は退いていたものの、景春という巨大な名の喪失は、彼のようやくの復帰で士気上がっていた山内上杉家に巨大な衝撃を与えた。


 ここで、猪牙ノ助のかねてよりの工作が、ようやく芽吹いた。

 相模北部の領主たちが、あおぐ旗色を変えて荒次郎に従い始めたのだ。


 元々相模北部は長尾氏の影響力が強い。

 長尾景春の相模での反乱拠点もここだった。

 だが、長らく続いた関東の争乱と、伊勢宗瑞という新たな時代の風。


 なにより、鎌倉公方。

 この名の主は、伊勢宗瑞との攻撃を受け続けながら、ついに鎌倉を退かなかった。

 新たな時代を感じさせる頼もしき盟主。梟雄・伊勢宗瑞と互角に戦う、三浦の若き名将。

 それらの存在は、北相模の領主たちの心を強く揺さぶっていた。景春の死は、そのとどめとなった。


 いや。違う。真実は逆だ。

 長尾景春という時代の巨人の死がとどめになることを、あらかじめ計算に入れて、荒次郎たちは必死で鎌倉を保持し、また相模諸方への調略を行っていたのだ。


 荒次郎たちは長尾景春の死を知っていた。

 真里谷初音の持つ歴史知識によって、この日この時に死ぬことを知っていた。

 もし、伊勢宗瑞が荒次郎たちの行動を知れば、恐れ慄いたことだろう。人の寿命を計算に入れた戦略。まさしく天魔の業だ。



「がはははっ! でかした、三浦介!」



 鎌倉公方、足利義明あしかがよしあきは上機嫌で荒次郎を褒めた。

 荒次郎も猪牙ノ助も笑った。初音の知識より描いた快心の図が、見事に当たったのだ。


 北相模衆を引き入れたことで、戦力においては伊勢方と、ほぼ拮抗した。

 それだけではない。北相模から、相模川や八王子街道を通って、伊勢方最前線、大庭おおば城の向背を扼すことも可能になった。

 その危険を知る伊勢宗瑞は、北相模への備えとして、兵を要所に配置する必要ができた。大規模な兵の動員が困難になったのだ。


 しかし、三人は気づくべきだった。

 北相模でも、甲斐に接近した領主まで、すんなりと鎌倉公方のもとに集まった、その微細量の異常に。

 だが、得てして作戦が図にあたったとき、人はその図の外に、より大きな絵図が描かれている事実に気づけないものだ。


 荒次郎とて、それは例外ではなかった。

 残酷なまでに現実を見続けてきた荒次郎の、それは痛恨の失敗と言っていい。


 とはいえ、気づいたところでなにが出来たか。

 極上の策とは、分かっていてもどうしようもない。そんな袋小路に追い詰めるようなものを言う。


 十月。武蔵国。

 意気軒昂となった上杉朝興は、武蔵一円に号令をかけ、集まった兵二万を率いて、山内上杉憲房のりふさ鉢形はちがた城に向かった。

 上杉憲房も、上野、武蔵からほぼ同数の兵を集め、応戦の構えを見せた。両軍は鉢形城にほど近い高見原たかみはらで合戦を行うも、決着つかず、双方にらみ合いとなり、数ヶ月の滞陣の後、両軍は兵を退いた。


 房総では、真里谷信保が千葉家の勢力を掲げた神輿に取りこみながら、絶妙な手加減で影響力をかすめ取っていた。

 迂遠とも言えるやり方だが、仕方がない。元来、関東の東部では、豪族間の連帯が非常に強い。これを単純に力のみで従えるのは至難の業なのだ。


 関東東北部。古河公方同士の争いは、息を吹き返した先の古河公方政氏まさうじと、それを担ぐ小山成長おやましげなが。さらには跡目争いを利用して、自勢力を拡大せんとする八屋形たちの争いが、ふたたび始まっている。

 息を吹き返したとはいえ、政氏の劣勢は歴然としている。鎌倉公方を頼る。その声が、この一帯では自然と大きくなってきていた。


 永正12年1月。

 前古河公方、足利政氏はついに鎌倉公方足利義明を容認する。

 現役でないとはいえ、この一事は古河公方に対する大きなダメージとなった。


 鎌倉では、すべての動きが止まっていた。

 精力的に鎌倉を攻めていた伊勢家の動きは長尾景春の死とともに、ぴたりとやんだ。

 北相模衆の離反により、後方に危険を感じた伊勢宗瑞は、北からの守りとして七沢ななさわ城を整備、ここに精兵を込めた。この作業のため、前線に兵を送る余裕を失ったのだ。荒次郎たちの目論見通りだった。


 ただし、三浦側も反攻に出ていない。

 鎌倉攻めでの消耗は、結局鎌倉側のほうが大きい。

 名将の指揮する大兵の篭もった城を、落とせもしないのに攻めるわけにはいかなかったのだ。



「春になれば」



 玉縄城の物見櫓から、雪化粧を施された富士山を仰ぎながら、荒次郎はつぶやいた。



 ――総力をもって伊勢を攻める。



 かねてよりの予定だった。

 決戦兵力において、鎌倉は伊勢を凌駕している。

 たとえ駿河の今川氏親いまがわうじちかが出張ってきたとしても、それは変わらない。

 真里谷初音の知識と、三浦猪牙ノ助の政治力。荒次郎の知勇。すべてを振り絞って、この状況を作りだした。

 この戦を想定して、三人は、あらゆる知恵を巡らせ、また準備をしてきた。


 永正12年3月。

 雪どけとともに、すべてが動きはじめる。



「伊勢宗瑞。他国の兇賊めを討つ!」



 鎌倉公方の号令一下、「いざ鎌倉」と集まる国衆たち。

 荒次郎たちも、戦の準備で慌ただしく動いていた、そんな最中。とびきりの凶報が、続けざまに飛び込んできた。



 ――甲斐の武田信虎たけだのぶとら、古河公方側に

て参戦。



 そして。



 ――越後の長尾為景ながおためかげ、古河公方側にて参戦。



「やられた」



 頭を丸太で殴られたような衝撃を受け、荒次郎はわずかに口元を引き結んだ。

 相模方面で、荒次郎は伊勢陣営を反包囲した。だが、甲斐の武田が北相模を圧迫すれば、そんなもの、あっさり崩壊する。

 武蔵方面で、山内上杉方を動揺させた長尾景春の死とて、長尾為景が参戦となれば、補って余りある。


 だが、どちらにも、問題があった。

 武田は甲斐守護の家柄ではあるが、国内は乱れており、その支配もようやく甲斐半国。国内諸勢力との争いは続いており、他国に手が出せる状況ではない。

 長尾為景にしても、山内上杉家、ことに当主、憲房とは水と油の仲だ。なにしろ、憲房の父を殺し、山内上杉を後継者争いの大乱に陥れた張本人なのだ。

 甲斐武田と越後長尾。いずれも、参戦はあり得ない状況だった。



「いったいこの絵図を描いたのは誰だ。伊勢宗瑞か? 違う。いくら伊勢宗瑞とて、彼奴きゃつ一人の手には余る。これは」



 猪牙ノ助が言いかけた時、最後の凶報が入ってきた。

 その名を聞いて、老人は口元を釣り上げながら、呵々と笑った。



「――やはり、やはりか。武田の甲斐統一を陰助し、長尾為景と山内上杉の因縁を解く。伊勢宗瑞にそんな魔術を振るわせた力の源泉など、たった一人しかおらぬわ!」



 ――駿河の今川氏親、参戦。



 対関東最終兵器の投入。

 はるか離れた駿河の国境で、四千の兵を率いながら。今川氏親は不敵に笑う。



「さあ、行くぜ叔父御。俺様が遠江とおとうみで遊んでる間に、関東は面白いことになってるようじゃねえか」



 笑いながら、この壮気あふれる大名は、遠く“関東”を指差す。



「――混ざるぜ。手始めに紛いもんの鎌倉公方だ。肩慣らしにゃちょうどいい」



 武田信虎を、長尾為景を、そして伊勢宗瑞を自在に使う。その姿は、まさに王者。


 今川氏親の相模入りをもって、後に言う関東大戦。この大乱は佳境を迎える。







◆用語解説


後輩に追い抜かれてやるせない……何を抜かれたのか追及しない優しさが必要です。

柔らかい叱責の手紙……愛と気遣いが見えるだけに心に来ます。

長尾景春……結局何をやりたかったのか分からない、能力だけはあるやっかいさん。

長尾為景……いろいろやらかした、梟雄の名にふさわしいひと。やっかいさん。例のアレの父親。

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